ファースト コンタクト─和人入植者とアイヌ(付録:オーストラリアの場合)
北海道への入植が始まると、いずれ先住アイヌと後住和人がはじめて出会うと瞬間が訪れます。先に今金の拓植医・冨田優先生を教えてくれた『今金町開基70周年記念 開拓回想録』にその珍しい記録がありました。この貴重な証言の意味を寄り深く理解するため、同時代の赤道を挟んだオーストラリアの移民と先住民の事例もあわせて紹介します。オーストラリアのアボリジニと北海道のアイヌは同じ侵略の犠牲者として同列に語られることもありますが、それが正しい理解なのか考えてほしいからです。

今金利別川(出典①)
■砂金を追って利別川の奥へ
安達由太郎さん(当時80歳)の証言。安達さんの父は山形県出身の砂金採取業者で、明治19(1886)年に初めて北海道に渡り、利別川流域の砂金採取事業の監督をしていました。明治25(1892)年に山形の家族を呼び寄せて今金村花石部落に入植しました。当時、安達さんは5歳でした。
安住の地を求めで翌二十五年家族を連れて山形県を引揚げ北海道に向った。その中に私がおったんです。五才でしたから詳しいことは解らないが、苦労して来ました。今でも想い出すことは、青森より津軽海峡を渡るのに帆船(十トン未満)に乗り、出帆する時は鏡のようななぎでも海峡の灘は波高く、船が木の葉のように揺れ、船酔で死人のようになっている者、念仏を唱えている者、まったく生きた心地がしなかったものです。
函館より国縫まで二五里の道のりを徒歩で五日間かかつてたどりつき(途中野宿したこともある)、さらに五里の道のりを歩いてようやくこの地に着きました。道路の両側は自然木がうっ蒼と茂り、周り一面の熊笹で昼でもうす暗く、淋しいところだった。親は休む暇もなく拝み小屋づくり、砂金採取の道具づくりと、あすからの生活に希望が湧き精を出したものです。[1]
■歩く時はラッパを鳴らして歩きました
当時の悪らし方は、拝み小屋を熊笹、ヨモギで屋根や周りをつくり、中はフスマがわりにヨシで編んでたれさせて部屋づくりをし、地べた熊笹を厚くひいて、その上に空米俵をひき、雑古寝をしたものです。
蚊・アブ・ブユがひどく、特に蚊に悩まされました。草を燃やし、小屋から追いらいました。熊の出没も多く、小屋の周りに石油カンを鳴らすように仕掛を置いたり、道路を歩く時はラッパを鳴らして歩きました。
日用品は、殆んど国縫まで歩いて買いました。主に米(内地米)、衣類、石油、調味料などでした。荷を背負って、国縫があるといっても実際の用にただず、うっそうと茂る大木、重なり合った梢、その中を縫って横行する熊、キツネ、てん、むじな等、ほんのわずかの人が通って行くのみででした。[2]
■あの頃は無からそれを生みだすしかない
野菜、穀類は私たちの手でというわけで、小屋の周りに無願開墾し、野菜(ナッパ)、ヒエ、イナキビ、トウモロコシ、ジャガイモ等の作物を栽培しましたが、収穫はよくなかった。なにせ無肥料であったから。利別川は、鮭、鱒が豊富で魚には事欠かなかったものです。
嗜好品であるタバコは山形県より送らせたホロキという木を栽培し、これを細かく切ってキセルにつめて吸いました。マッチは貴重品なので周りに生えているガマの穂をかわかし、焼いて灰にし、メノウ石を火打ち石にして灰に火を移して使ったもんです。あの頃は無からそれを生みだすしかないんで、本当に苦労の毎日でした。
人は必らずといってよいくらい心の支えを求めるもので入地当時、お札を大木に打ちつけて無事安泰を祈りました。そして一六戸になった時、みんなで相談して社を建立した。それが今の山神神社です。[3]
■1890年代、同じ頃のオーストラリアでは
こうして安達さん達は砂金を求めて利別川の上流にたどり着き、定住生活を始めました。そこには先住のアイヌの人たちがいました。時代は明治25(1892)年頃。さて次に、安達さんの証言を正しく理解するために、比較の意味で、同時期のオーストラリアでの白人入植者と先住民族であるアボリジニの事例を挙げます。以下はWikipediaの英語版からの引用です。(管理人訳)
オーストラリア先住民の虐殺リスト
List of massacres of Indigenous Australians

1893年。ベン川。23人のアボリジニの人々が警官によって狩猟として射殺された事件の後、白人に対する〝教訓と恐怖〟を植え付けるために懲罰的な遠征が開始され、別の30人のアボリジニの人々が撃たれました。
1893. Behn River. After an affray in which 23 Aboriginal people were shot and a policeman speared, a punitive expedition was launched in which another 30 Aboriginal people were shot to "teach them a lesson" and instill fear of the white man into the Indigenous population as a whole.
1890年から1926年。キンバリーの虐殺。植民地政府が「講和期間」と呼んだ時期に、西オーストラリア州の警察の4分の1が、全人口の1%しか住んでいないキンバリーに配備されました。暴力的な手段がアボリジニを迫害するために使われました。警官と入植者によって、司法による保護のないままアボリジニは狩猟の対象とされました。この蛮行に対して先住民は死を持って報復することを誓いました。
1890–1926. Kimberley region – The Killing Times – East Kimberleys: During what the colonial government called "pacification", recalled as "The Killing Times", a quarter of Western Australia's police force was deployed in the Kimberley where only 1% of the white population dwelt.Violent means were used to drive off the Aboriginal tribes, who were hounded by police and pastoralists alike without judicial protection.The Indigenous peoples reacted with payback killings.
この間にダービー、フィッツロイクロッシング、マーガレットリバー地域で数百人のアボリジニが殺された可能性があります。報復と報復、悪意ある植民政策によってキンバリー地区のアボリジニはほとんど絶滅しました。
Possibly hundreds were killed in the Derby, Fitzroy Crossing and Margaret River area, while Jandamawra was being hunted down.Reprisals, and the "villainous effects" of settler policy left the Kimberley Aboriginal people decimated. [4]
安達さんたちが今金に入植したのと同じ頃、赤道を挟んだ南半球では、アングロサクソンによって先住民族を狩猟の対象にして虐殺するという忌まわしい蛮行が続いていました。
イギリスによるオーストラリアの侵略(これははっきりと侵略と言ってよいでしょう)は1780年代から本格しますから、オーストラリアではこのような血で血を洗う蛮行が100年以上続いていたことになります。
■アイヌの方から近づいて来たようでした
ベン川の虐殺の1年前の北海道──渡島半島の山奥で和人とアイヌはどのように出会ったのでしょうか。安達さんの証言を続けます。
アイヌは入地当時10人位附近に生存しておったようでした。アイヌのことをオヤジ(熊という意味)といっておったもんです。私どもに始め警戒しておったようだが、お互いに乱暴をする者がなかったようだった。
アイヌはもっぱらマルポという道具を自作し鮭、鱒漁をしておったもんです。マルポを魚めがけて投げ命中させるあたりは達人でした。
クチャリキという酋長がおり、この酋長の支配下にあったようでした。私達移住民との接触の動機は解らないが、お互い乱暴をすることがなかったので、アイヌの方から近づいて来たようでした。
(クチャリキは)酒が大変好きで、夕方小屋の近くに来ると地べたに頭をつけ、平身低頭の挨拶をし、よく魚をもってきてくれました。(私たちも)酒、タバコをあげたものです。酋長が酒を呑む時ははしで顔ひげを上にあげ、酋長らしい見事な呑みぷりでした。[5]
和人入植者と先住アイヌはお互い平和に出会い、すぐに助け合う互助関係を築きました。これが北海道の真実です。
■肉を御馳走し、得意顔で熊射の自慢話に花を咲かせた
これは、今金町豊田(アイヌにはモウセウシと呼ばれていた)部落の開祖であるアイヌの笹森来助さんについての南川松栄さんの回想です。南川松栄さんは福井県生まれで、明治29(1896)年、3歳で父に連れられて渡道しました。オーストラリアの凄惨な話の後に読むとほっとするものがあります。
来助の熊狩りは、主にアマッポを用い(ブス矢へ矢の先にアイヌ産の毒をつけた矢)て熊を射ていた。彼は、熊を射ると部落中の人たちに知らせ、自分の自慢をするためにその熊を披露した。肉は十センチ四方程にプッ切りにし、それを大きな鉄なべで塩煮にし食べていた。その後だんだんと肉の切り方も小さくなり、みそ煮をするようになった。
彼は肉をえさにし、焼酎を飲み集まった人々に肉を御馳走し、得意顔で熊射の自慢話に花を咲かせ、酔うとむしろの上にごろ寝、極めてのんびりとした毎日を送っていた。
モウセウシの地に炉のたき火を燃やした来助の丸木小屋のあとは、その後、部落郷土史を研究していた豊田青年団が発見し(昭和三十九年)白樺の標札を立て、豊田発祥の地として記念している。[6]
穫った熊を鍋にして自慢げに和人入植者に振る舞い、酔っては何一つ警戒感無く幸せに眠る来助──ここに侵略と非侵略、迫害と非迫害の凄惨な関係を見つけることができるでしょうか。
【引用出典】
[1]今金町開拓回想録編集委員会『今金町開拓回想録』1967・今金町・155-156p
[2]同157p
[3]同158p
[4]https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_massacres_of_Indigenous_Australians
[5]今金町開拓回想録編集委員会『今金町開拓回想録』1967・今金町・159p
[6]同275-276p
【写真出典】
①檜山振興局公式サイト> 地域創生部 > 地域政策課 > 007公園から市街を望むhttp://www.hiyama.pref.hokkaido.lg.jp/ts/tss/jhh/ima/7.htm