北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

[ニセコ]  河原 サキ (明治14年11月7日生まれ)
医者はおりませんが、病気はしなかったです

 

『ニセコ町史』(1982)から河原サキさん「回顧談」をお届けします。河原さんは吉田園右衛門さんの娘で、吉田家は明治29年に貸下を受けた松岡農場に入植しました。後に同じ福井県生まれの河原弥二郎さんとニセコで結婚されています。松岡農場はニセコで最初に開かれた農場ですから、これはニセコ町開基の証言となります。一般に感情的になりやすい男性に比べ、女性は開拓の状況を客観的に語るように思います。
 

ニセコ駅(出典①)

 

■オトンボを背負っ汽船に乗りました

私は福井県大野郡西谷村字巣原村で生れました。この村は美濃の国境にある白山(能郷白山)の麓の山の中の村でした。
 
白山は羊蹄山と違って低い山のようですが、年中雪が消えず、雪が少なくなったかと思うと、すぐまた降るという有様で、このような山の麓なので畑も少なく、狭いところで耕作していたのでひどい貧乏暮しで困っておりました。
 
私が15、6歳の頃でした。県庁から「北海道から人買が来たので役場に集まれ」といわれました。県では方々を誘って最後に私共の村まで勧誘したものと見え、全く急でしたから、家財道具等の始末を親戚に頼み、その翌朝すぐ私の両親(吉田園右衛門夫妻)は、私と妹と弟3人を連れオトンボ(末子)を背負って三国港を出て、汽船に乗りました。[1]
 
松岡農場は、岩手県の松岡陸三によって開かれた142町歩の農場です。明治28年に142町歩に福井県から29戸が入植しました。これがニセコにおける集団入植の最初とされています。
 
岩手県人の松岡は、北海道開拓の成功を期して雪国の暮らしに慣れた福井県の雪深い山間地帯の住民を狙って入植者を募りました。松岡農場は現在のニセコ町市街にありました。
 

■おっ母、国に帰ろう─と言いながら死んでゆきました

ニセコから見る羊蹄山(出典②)

その時一緒に来たのは今立郡などの人達27戸程でした。1戸2人の人や一かまど(1世帯)7人の人もあって、1戸平均5~6人だったと思います。
 
三国港から函館に着き、さらに汽船に乗り替えて岩内に上陸しました。岩内ではモンペ、シャツ、着物などを買って仕度をし、倶知安まで歩きました。
 
ここではあちこちに小屋を借りて、そこに分れて住んでいました。この雑居中に25歳の男がホウソウで熱にうなされて「おっ母! 国に帰ろう、おっ母あ、国に帰ろう」と言いながら死んでゆきました。また80歳の爺さんが1人死んだときもろくな葬式もせず、葬ってしまったこともありました。[2]
 

■足の爪先が凍傷にもかかりました

それから15歳以上の仕事のできる者は倶知安から狩太まで通って小屋掛けをしたものです。この頃は今と違ってシバレが強く、わらじにゴンベイをはき、木綿足袋をはいただけですから、足の爪先が凍傷にもかかりました。
 
倶知安で正月を迎え、翌年の春小屋ができたので狩太に移って来ました。今の比羅夫、その頃の豊沢農場までは道がありましたが、それからは笹を分けて歩いて来るので、道を失うと男の人達は木に登って、測量の際に赤いペンキを塗った標を捜しながら歩いて来たものです。
 
今の有島の入口の小山の平地に拝み小屋が3棟建ててあったのに入りました。それから私の在所(実家)の割当は今の大橋さんのところでしたので、そこに掘立の割板囲い、笹小屋を建てて移り、それから雪のあるうちに大木を倒し、雪が消えてから笹を刈り、それを焼いて蒔付けにかかりました。[3]
 

■竹の子を塩ゆでにして食べました

私の父は先の方に鈎(かぎ)の付いた鉈を持って来ましたから、それで笹を刈ってかき集め、焼きました。シコロ、ヤチダモ等の大木がびっしり生えていたので、伐って大きな木のところに他の木を寄せて焼きました。今考えるともったいない程です。
 
作物は主に馬鈴薯、南瓜、イナキビで、夏に笹を刈って焼いた跡にはナタネを蒔きました。その頃米、味噌は親方が仕送りしてくれましたが、副食物はないので、笹を刈った跡に生えた竹の子を塩ゆでにして食べ、南瓜は花が過ぎると間もなく取って食べたものです。
 
それでもイモは一つで一升瓶(びん)に入らない程の大きいものがとれました。それも唐鍬でまるく堀って、そこにイモを入れ、上に掘ったかたまりをかけて置き、モックリと芽を出してから上に土をほぐしてかけたくらいの簡単な方法で作ったのですが、そんなでも大きいイモがとれました。[4]
 
松岡農場の小作条件は
①募集地から農場までの旅費は場主負担とする。
②間口五間、奥行三間の小屋掛料は場主負担とする。
③食料く米大人1日5合(0.9ℓ)老人、子供3合(0.54ℓ)副食物1日1銭を年半場主負担とする。(サキさんの証言にある「米、味噌は親方が仕送り」にあたります)
④4年間で開墾を完了すること。
というもので、開墾が成功した後は、等級により既墾水田3反歩につき玄米3斗から4斗であり、1石22円の割で現金で支払ってもよいとの条件でした。本州などに比べると大変に有利な条件だったようです。[5]
 

■なんでも手でこしらえました

ニセコ大橋(出典③)

その頃の服装は、越前では股引も半股引で膝下まででしたが、この方では寒いので他から教えてもらって長い股引にしました。その後ぶどう蔓(つる)で編んだハバキ(脚胖)に夏はわらじをはき、開墾の際には木ツパにぶどう蔓でなった緒をすげた下駄をはいたのですが、これは笹の切りはしが危ないからでした。
 
冬は酒樽の太繩を解いてつまごを作ってはき、越前では、伐木道具を背負って歩く時に、フゴまたはケゴという入れ物を使っていましたが、ここではぶどう蔓を編んで使いました。今では一切のものを買いますが、その頃は足袋も糸で刺してこしらえました。それから4~5年後にはモンペや長股引がはやってまいりました。冬の副業には造材や木挽をしました。[6]
 

■石狩で水害に遭った人が多かったのでした

私はその年6月に函館の松岡の旦那が来た際、女中に連れて行かれ、3年程奉行して帰り、こちらの川原弥二郎のところに縁付きました。
 
明治30(1897)年の春、元町の深貝農場に美濃の人が入って来ました。それに続いて越後の人が近藤農場に入ってきました。その時には松岡の人達は一作とっていました。
 
次に愛媛団体の人達が入り、松岡の人達が食物を渡したり、土地と交換したり、譲り受けたりして移った人もたくさんありました。その人々は三本、林、石川、藤本、高橋与八などでしたが、この愛媛団体は何戸だったか記憶はありません。また、この愛媛団体も直接故郷から来た人は少なく、石狩で水害に遭った人が多かったのでした。
 
松岡農場も開墾できて年貢がかかるようになると、みな他に土地を買い求めて移っていきましたので、ほとんど古い人がいなくなりました。2度目に入って来た人々も石狩で大水害にあった人が多かったようでした。[7]
 
深見農場は現在のニセコ町の中心市街地にあった農場です。
  

■夫は203高地で撃たれました

開墾当時は医者もおらず薬もない状態でしたが、それでも病気はしませんでした。ただ入地した年、川原の小さい与八という子が3日患って医者にはかからず、倶知安の医者に死んでから診てもらって葬ったのでした。
 
私の夫弥二郎は現役で入営し、続いて日露戦争に従軍し、明治37(1904)年12月17日旅順の203高地で敵の砲弾を股に受け負傷して広島陸軍病院に入院、後東京に送られ、翌年6月に帰って来ました(この時、姑はぜひ看病に行くといいましたが、日本では負傷者や病人は大切にするし、設備もよくできているから行かなくても心配ないと言って止めました)。これが本町最初の入営兵(弥二郎共2名だった)であり、最初の金鶏勲章下賜者でした。[8]
 

■みなで力を合わせて寺を建てました

明治34(1901)年頃、磯谷で鰊(ニシン)が獲れた時に、ガンビ(白樺)皮や身欠鰊を縛るオヒョウ皮を少し持って行くと鰊を背負えないだけくれました。その頃は蘭越の坂の処までは道路がついていましたが、その先は笹の中を歩いて行ったのでした。
 
それから間もなく道路ができ、松岡にいる頃、姑さん(石原フヨ)が今の比羅夫の大融寺に迎えに行って連れて来た(浅黄の風呂敷包み1つ持って)服部大円さんを近藤農場に世話して入れ、後に今の大円寺に迎えたのでした。
 
小花井に移ってからも、セタナイ(瀬棚)から説教に来た坊さんに頼んで越前の鯖江から上野界雄さんを迎え、寺地を寄付して寺を建てようとしましたが、上の方では不便だからと桜井という人が土地を寄付して、皆で力を合わせて建てたので、たちまちでき寺ができ上りました。それで川原の寺と呼ぶ人があります。(上野界雄さんは3月から7月まで川原家にいました。翌年6月寺ができ上りました)。[9]
 
ここに語られる大円寺は明治31年3月創建の浄土真宗大谷派、川原の寺と呼ぶのは、世雄寺で明治45年7月創建で真宗誠照寺派の寺院です。北海道開拓の原動力となった北陸門徒の信仰心が伺えます。
 
 


 

【引用出典】

[1][2][3][4]『ニセコ町史』1982・ニセコ町・147〜149p

[5]同上38p
[6][7][8][9]同上・147〜149p
【写真出典】
①②③ ニセコリゾート観光協会公式サイト>ギャラリー https://www.niseko-ta.jp/

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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