茶内原野の「許可移民」
男の意地で何糞今一度と発奮せざるを得なかったのであります
夏期の気温が低く濃厚に不向きな根釧地方の開拓は遅れました。大正12(1923)年の関東大震災で多数の罹災者が出ると、その受け入れ策として「許可移民」という制度が設けられ、開拓の進んでいなかった根釧台地に多数が入植しました。農業に不向きな土地であってその開拓には著しい苦労がありました。『浜中町史』(1975)から、許可移民の解説と2人の入植者の証言をお届けします。

■許可移民とは
鉄道が開通して原野方面に開拓の初光がみえはじめたとき、多数の移民が計画的に入地してきた。これが許可移民である。
許可移民とは、大正12(1923)年の関東大震災に際して、内務省社会局が罹災者に補給金を与えて北海道に入植させたもので、主として特定地に入植した。移民に対する直接保護政策の復活で、保護移民ともいわれるが、拓殖費ではなく、内務省の支出で1戸300円であった。
第1拓計末期のこの移民は第2拓計にも引きつがれるが、道庁は最初この移民補助を従来通り拓殖省でなく内務省に期待した。しかし、内務省に断わられ、拓殖省から1戸平均住宅建設識50円移住費・農家具・食料等300円を補助することにした。
許可移民は、昭和8(1933)年以後は、根釧原野開発5ヵ年計画の一貫として位置づけられ、昭和12(1937)年まで継続され、この総戸数は「許可移民事業成績調」(北海道庁、昭和14年。以上おもな数字はこの資料による)によれば、9261戸に達し、うち根室管内3091戸(33.37%)、釧路管内2290戸34.72%)と根釧地方だけで全体の58%を占めていることが注目される。
しかも浜中村への入植は、大正12(1923)年度(初年度)の茶内原野への24戸を皮切りに昭和12(1937)年までに、698戸(『記念誌』では昭和11(1936)年までに769戸)にのぼり、釧路管内入植者の30%を占め、根室管内の別海村2260戸、標津村817戸につぎ、全道第3位(7.5%)を占めている。許可移民の入植に関する限り、浜中村は全道でも代表的な存在なのである。
茶内移住者世話所は、大正3(1914)年茶内市街に開設された。現地指導の任にあたり、昭和18(1943)年廃止のところ、村や農業会の要請で継続となり、戦後の24年3月に閉鎖した。
■許可移民の苦闘
さて、許可移民の悲惨な生活と苦闘は、さまざまな形で語り伝えられている。昭和12(1937)年度末現在で、茶内原野の定着率はわずか39.2%であるが、浜中村全体で50%と、釧路管内平均59.9%(全道は61.5%)を下まわっている。この定着率の低さは、許可移民、とりわけ根釧地方の許可移民の当面した困難な生活状況を端的に示している。
まず第一に、根釧地方各原野の劣悪な自然条件をあげなければならない。火山灰と泥炭層からなるこれら各原野は、寒冷、濃霧という気候条件も加わって、農耕不適地であったといってよいであろう。そのためもあって、北海道各地の拓殖の進展にもかかわらず、大正中期まで放置されてきたのである。
ところが、道央、道南の拓殖の一段落と第1次大戦中の好況を経過すると、道北、道東の残された原野の活用が日程にのぼり、許可移民の大量入植がはかられたのである。
第二に、許可移民たちは、道庁の指導により混同農業をはじめたのであるが、これがまったくの失敗であった。混同農業は、燕麦、ソバ、豆類のいわゆる穀菽(こくしゅく)農業に家畜飼養を併行させるものであって、10町歩の貸付地に大家畜(牛、馬)3頭を基準とした。けれども、劣悪な自然条件は、この基準さえ不可能としたのである。
大正15(1926)年の全道的凶作、昭和4(1929)年の霜害、同6年の冷害、害虫発生、同7年の霜害という連続した気候条件による凶作は、ただでさえ肥沃とはいえぬ土壌の上での穀菽農業を、まったく壊滅させたのである。
■混同農業から酪農畜産へ
許可移民たちは、入植後、まず森林を伐採し、畑地を造成した。しかし、その森林伐採は困難をきわめ、畜力ならぬ人力により、開墾は島田鍬を用いた.2日5~6畝であったという。はじめ10町歩の貸付けで、成功条件は10町歩のうち4町8反の開墾と牝馬2頭の飼育であったが、昭和4(1929)年からは8町歩に改正された。
しかしあいつぐ冷害凶作の襲来は、許可移民の生活条件をどん底におとし入れた。開墾のための雑木伐採は、入植直後の手取り早い現金収入であった。角材、薪材あるいは薪、炭が、生計の重要な部分を占めた。
森林の1割は、防霧林として保存しておくようにとの道庁の指導であったが、冷害のときに糊口をしのぐためのこらず伐採したところ、かえって霧は減少したというエピソードもある。
開墾した畑地には、燕麦、稲黍、ソバ、馬鈴薯、裸麦、金時豆、ビルマ豆、大豆、南瓜その地を播種した。しかし、冷害に弱く、またソバは、地力を衰えさせた。かくして、主穀もしくは穀絞農業から、主畜農業への転換が叫ばれるようになったのである。
茶内・円朱別・熊牛・姉別・厚床の5原野は、大正中期にいたるまでほとんど未踏の原野であった。殖民地選定は明治20(1887)年代、明治33(1900)~4年の各原野への分割と基線測設後も、貸下、払下申請者はほとんどまれであった。そして大正3(1914)年の原野調査、大正8(1919)年11月の根室本線開通で、ようやく糸口がみいだせるようになったのである。
大正8(1919)年に円朱別に2戸入植したが成功せず、9年に下茶内「桜が岡」に3戸、前年の円朱別入植者2戸の秩父内への入植があり、10年には13戸が集団的に入植した。これらは特定地移民で、1戸あたり7町5反の売払許可をうけて入植したものである。その一人、船越善助(大正8(1919)年、下茶内「桜が岡」に入植)
■船越善助の証言
このような状況の根釧原野の開拓を、大きく前進させたのは許可移民の入植以来であった。震災罹災民救済の名目(棄民と酷評する人もいるが)ではじまった許可移民は、罹災者以外にも道を開き、道庁も移民募集の宣伝、斡旋事務など大々的に実施した。
けれども、許可移民の開拓の道は平坦なものではなかった。入地まもない大正15年の全道的凶作、道庁の農業指導がはたして根釧原野に適切であったかどうか、また、罹災者には農業になれない移民も多かったであろう。10町歩の地主の夢はもろくもくずれて、開墾の苦労にたえかねて離脱するものも、つぎつぎとあらわれた。昭和に入っても、昭和四年の凶作、6・7年、9・10年と冷害に見舞われたのである。恐慌もくりかえされた。そうした苦難の道をがんばりぬいたひとり丹羽芳三郎は、初期の体験を次のように語る。
売り払地は10町歩で土地代が50円、木代が45~6円で合計100円に少し足らぬ額でした。入殖の時、一番先にした仕事は家作りです。大工しごとを牧場にいたころしていたので、丸太で家の骨組みを作りました。。丸太をゆわえる繩は米俵をほどき、それを打ってあんだものです。土台なんてありません。土中に丸太をさし込んだものです
勿論、のこ・まさかり等の道具はあったので使いました。屋根や側面は木の枝で組んだ上に笹を刈って張ったもので、結講雨はもりません。戸板はないので、むしろ戸です。ですから冬吹雪の時は、ふとんの上が雪で真白になっていたことも何回もありました。
そんな粗末な家で、広さは5坪程もあったかどうかという1間作りの丸太小屋です。笹ぶき小屋とも堀立小屋ともいいました。この地はその頃、どんぐりの生るならの大木や桜の木、白樺、やちだもなどが生え茂り、下は笹が1面でした。
次に作ったのは木炭がまです。牧場をやった時代に、おぼえていたので、苦になりません。木材は豊富だし、畑を作るのにも木が邪魔なのでどんどん焼いたもので、1回に1かまで15貫俵が15俵から20俵でき、月に50俵から60俵作りました。当時1俵6~70銭で50銭でも売ったことがありました。ですから炭で月35円から40円位の収入があったものです。
米は1俵5円位で焼酎は1升30銭か40銭、酒は1升1円から1円20銭、「金露正宗」という酒は1升2円50銭もしました。疲れた時のお酒はうまかったものです。
薪は1敷当時5尺×6尺で、1本の長さは今の2尺より長く2尺3寸で、それで50銭位にしかなりませんでした。
この辺一帯の地名はオランベの奥にあったので、「オランベの中のみね」といっていましたが、後に吉田文蔵さんが、この辺一帯に特に桜の木が多いので「「桜が岡」」と名づけたのです。
木炭は仲買人が、買って運んでくれたものです。駅前の寺尾鉄太郎さん、乙部栄太郎さん、加藤反吉さん方です。夏は馬で、冬は馬そりで運んだもので、遠く霧多布からも馬そりで運んで行ったものです。駅までの道路はひどいもので刈分道路といってはぎや木を刈取ってならした、ふみかけ道です……。
開墾の仕事は翌年(大正9(1920)年)の春から始めました。笹原を火で焼き、全部鍬などで起すと手間がかかるので、3尺巾おきだけ繩をはり土を起こし、そこに加燐酸などの肥料を入れその上に馬鈴薯、そば、野菜ものを播いたものです……。
裏の下の川で6月には赤腹うぐいが群をなしてのぼり、秋10月になると、あきあじがどんどんとのぼってきたので、それを獲って塩蔵しておいて食べたのです。鮭は1晩に50本から60本も刺し網にかかったものです。腹うぐいは、焼干しにしたり、すり身にして、かまぼこにして食べました。ヤマベもずいぶんいて柳の枝で釣ったものです……。
この頃この地域一帯は官地の放牧地で、馬が放牧されたままなので畑をずいぶん荒されました。野生馬も居たようです……。
寒中、しばれがきつい夜中には、土割れや木の裂ける音が鉄砲を撃ったような音を響かせていたものでした。(茶内郷土誌)
■丹羽芳三郎の証言
住民は皆同じ様に、相当大きな理想と希望をもって入地したのでありますが、今考へて見るならば、それ等は一片の空想に過ぎなかったと思います。私の場合もその如くで、一人で10町歩を全部畑地として経営するとすれば内地の約10戸分に当るのであって、極く内輪に見積って仮に反当り2俵の大豆収穫を考えても全部で100俵、それを俵5円の単価にしても1000円である。
いかになる困難あるとも2~3年辛抱すれば一人前の自作農業者になれる──これは私達の空想であり、また一般の心理であったろうと思います。
ところが実際に当って見れば天地の相違で、先住者の話を聞けば完全に種れるものはまず馬鈴薯くらいのもので、畜産を主として経営しなければ食へぬ土地であるというわけ、しかし道庁の方針としては混同農業または主穀農業として耕作を主とし畜産を従として耕馬二頭を立前として指導せられたのであります。
したがって入地当時配給を受けた種子も豆類、黍類、麦類等あらゆる畑作の種子で親切、いたれりつくせりの世話を受けたのでありますが、先住者の話と道庁の指導とは大きな間隔があって実際迷はざるを得なかったのであります。(記念誌昭和十三年)
昭和2(1927)年に凶作がこの地方を見舞ったが、これをきっかけに乳牛飼育をこころみる者が生まれた。一部の農民は、太田村、和田村の酪農経営を見学し、能勢力は乳牛を購入し、ここに茶内原野に乳牛が出現したのである。昭和4(1929)年4月、産業組合の総会が開かれ、貸付金、掛売金の整理にのりだすとともに、集乳所の設置を決めている。この産業組合再建連動の中核となった農家こそ、酪農経営の推進者であったと思われる。
彼らは、十勝からホルスタイン種16頭を協同して購入しているが、現金はなく、持ち馬と交換したという。集乳所は昭和4(1929)年11月5日、茶内市街に設置され、5年4月から操業した。この時の乳牛飼育農家は28戸、秤搾乳牛2頭であったという。
蝿乳牛飼育を試みた農民の一人丹羽芳三郎は、昭和3(1928)年に畜馬5頭全部を失い、いったんは内地へ帰ること輌を考えたという。彼の苦心談『茶内原野に死線を超ゆるの記』はその間の事情について次のようにのべている。
この時私は全く再び起ち上る気力も喪失し、最後の手段として残った土地を旅費に換へて内地へ帰ろうと決心したものです。然し一度は決心したもの、また考へて見れば内地出立の当時両親や兄弟が「千や二千の金はどうにでするから北海道に行く事だけは止めてくれ」と涙を流して止めて下さった時、自分は必ず成功すると断言した。独立自営立派な農業者となって見せると云った。その事を反顧する時、男の意地で何糞今一度と発奮せざるを得なかったのであります。
この様な入地以来最大の危機に迷ひ苦るしんだ者は決して私一人ではないでせう。恐らく当原野の総てが一度は踏み込んだ生死の境であり去就の悩みであったらうと思ひます。斯くて此の際私はその去就に悩みもっぱら、先づ日頃帰依する榊町法華寺の昨年逝かれた住職を訪ねて、自分の心境を述べて教へを受けたのであります。
その時上人は誠に親切に種々の例を引いて天地の大自然に遂行するやり方を清算すべきだと又人間は如何なる悲境に在っても向上心を失ってはいけない事、又強く落ちんは強くはね上らねばならぬ事など広い範囲に説き教へ大いに鼓舞激励して下さったので、私は一層感ずる処あって愈々第二の方針経営に進むべく確く決心したのであります。
畜馬、穀菽を中心とする道庁の農業指導を「天地の自然に逆行するやり方」と悟り、独力で経営の転換をはかろうとした丹羽のような農民が、やがて襲ってくる凶作に耐え、原野あげて酪農に転換する原動力となっていったのである。
【引用出典】
『浜中町史』1975・487−494p