北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

上名寄 古老座談会 

(昭和35(1960)年11月2日・名願寺)

手袋はめたことない。シバレには強かったな

 

開拓者の証言として昭和43(1968)年発行の「下川町史」掲載の「上名寄 古老座談会」をお届けします。町史発行の3年前に行われたもので、開拓二世ですが、明治30年代に入植された開拓第一世代の貴重な証言です。出席者は苛酷な試練を乗り越え、世代を繋ぎ、戦後まで生き抜いた開拓者です。語られている内容は現在の私たちには想像も出来ないことですが、これを読んで思うのは、みな飛び抜けて明るいこと。開拓の試練に打ち勝つ者は大前提として、少々のことには動じない前向きで明るい性格の持ち主であったことが理解されます。
 
 

 

(語り手)

藤原 岡五郎(明治35(1902)年入地)
古屋 甚右工門(明治38(1905)年入地)
蓑島 藤太郎(明治38(1905)年入地)
鷲巣 銀造(明治38(1905)年入地)
古屋 干一(明治34(1901)年入地)
渡辺 鉄造(明治35(1902)年入地)
名畑 最順(大正6(1917)年入地)
※古老の明治入殖者は全部二世で5才~18才の時入地している

 

(聴き手)

前田 昌宏(公民館審議委員)
谷口 銀松(公民館審議委員)
名畑 以文(社教)
伊東 芙勝(分館長)

 

(録 音)

宮沢秀利(町教委事務局)

 
 

──それでは入地の状況から話して下さい。

 
藤 入地の時は測量した時の刈分道路があってそれを頼りにして入って来ました。途中川だとか湿地だとかあって渡れんのですよ。仕方ないので鋸(のこ)持って来ている人が近くの木を伐って、それを向うに倒して、その上を這づって渡ったとの事です。
 

──今話にあった測量というのいつ頃したものでしょうか?

 
藤 それは32年~3年にやったもんだね。そしてその大方がね、今の20線バソケ川のそばに小屋建てて入ってたんだね。最初の人がたはその小屋目あてに来て見たらアイヌが入っておって………それから仕方ないで「我々入らんけりゃあならんで頼む」といったらアイヌさんたちは渋々脇にいったということだ。
 
蓑 あの小屋は2間に3間くらいあったでないか。
 

──その区画割は屯田兵入地予定であっと聞いてますが?

 
藤 屯田兵入れるような測量ではなかったね。道庁では「行ってみて、よかったら入れ」ということだった。
 

──その時の区画割は?

 
藤 ありゃあ40線までしてあったもんね。
 
鷙 区画割というのは農耕可能地として正式にに一戸分区画したしたものと、予定盆地として大きく区画したのと二つあったよう聞いているね。上名寄は予定盆地でなかったかね。
 
藤 いや、ちゃんとしてあったよ。堤防敷地も杭うってあったし、なかなか骨折ってあったよ。
 

──その頃、汽車はどこまで来ていましたか?

 
藤 士別まで道路は開拓道路ついてあったね。排水も掘ってあったし、橋もあった。名寄からこっちは全然ない。
 

──始めてここに入られる時分、男は士別から歩いたし、女は丸木舟で名寄まで下ったとありますが?

 
藤 名寄13線に舟場所があったね。
 
藤 その近くで日比さんが豆腐屋しとったんだ。私らはそこに泊った。朝起きて見たら割板の上に寝とったわ。
 
谷 その頃、名寄に店あったのかな?
 
藤 34年(第一陣の時)にはなかったでないか。買物は士別までいったんではないかな。35年には店は出来ていた。
 
鷲 うちの爺さんがね、士別に塩に買いにいったことはあるね。
 
蓑 渡辺さんは明治36(1903)年だったかね。
 
渡 35年だ。3月に節句すまして来たが、雪降ってね。消えたところにまた降った。
 
藤 35年に来とったんだ。道路造りに叩き出されてね。初雪降った日、足ははだし、草鞋はなし、裸足でぶち使われた。そりゃあ雪の消えるの待ちかねたものな。
 

──その頃はどんな服装だのでしょうか?

 
藤 着物にもんぺだ。それに雲斎の半てん、下に棒ネタの軍隊シャツ。それで道路は15線からに10線まで我々で請けたということで仕事したが、1文もくれないんだ。ひどい目にあった。
 
● ひどい目にあったね(笑)
 
藤 ほんとうの奉仕道路だ。私は19の歳で、肩にコブこしらえて大きな奴らにいじめられた。
 

──いよいよ開拓にかかった。恐らく大木がうっそうとしたところことだと思いますが、その開墾の様子を。

 
藤 木はこの辺それほどなかったね。やわらかいところ鍬(くわ)で起こしたが、私らの土地は鍬うけつけなかった。堅くて堅くて笹がびっちりしとるでしょう。鍬のおかしなやつを持って向かっても、ねられてしまって。だから35年の夏に馬引こんだんだ。
 
古(干) そうだ。馬入れたのは岡五郎さんとこが最初だもんな。
 
藤 馬納内(おさむない)から連れて来て、1線の高台(中名寄)の崖は馬がおりられんでしょう。それで遠廻りして下りて来た。そしたらそれから、だんだんそこに道路ついてしまった。
 
春の堅雪の時など、麦引いて来て、あそこはどうしても持って下りられんで、俵のまま転がしたもんだ。そうしたら俵がはじけて麦とぶやら、味噌飛ぶやらひどい目にあった(笑)
 

──最初入られた時、このへんはあまり木はなかったわけですね。

 
● 道路から南にはあったけど、北は少なかった。川向はあった。
 

──最初の作物は?

 
藤 始めは粟・ひえ。後になっていなきびになった。
 
菱 俺が来る1年前か、じんねん(笹の実)がついてたくさんとれて、林さんでも団子にして食べとったぞ。
 
古(甚)あれは私も覚えているがね。37年の年だ。そりゃあもの凄かった。俺の13の歳でよく覚えとるが、山中えんばく畑のようだったものね。
 
藤 ちょっといけばいっぱい取れた
 
簔 それで命つないだと林さんいっとった。
 
鷲 明治37(1904)年に日露戦争始まって軍用馬糧として燕麦が入用になった。またその頃から馬搬も始まって、地元の馬糧にも必要で作られはじめた。
 
藤 私、徴発馬つれて旭川までいった。
 

──その頃は小屋の中で焚き火ですか?

 
簑 そう、入った頃は炉だった。そしてこんな大きな赤だも焚いて──。
 
谷 そんな大きな奴なら消すに困りたろうに。
 
蓑 いや寒いから消さんのだ。
 
古(甚)あの頃、赤だもは火持がよかったから、楢やなんかより喜んだものだった。それで大きいやつをやっと抱えて来て、ずらして焚いておった。そして座って膝立ててあたっておった。自在鈎で鍋かけて煮て、御飯食うにも炉に入りおって……たいがいそうだった。
 
鷲 うちは貪乏しとるで夜具足らんでしょう。それで赤だもを焚いてね、寒い晩は背中あぶりしながら。
 
蓑 そうだ、背中あぶりはやっとった。
 
鷲 それで背中に模様つかん者ない(笑)
 
蓑 私ら来た時、焚火でしょう。上からすすが下がってそれに湯気がこりついて、それがまた溶けて落ちてきて体にあたるでね。外套著てあたったもんだ(笑)。いや、ほんとうさ。
 
藤 私ら山稼ぎしたけど、手袋一つはめたことない。荒雪の中に手つっ込んで、やおっ!と言っては丸太をかかえて荷造ったわね。
 
● 慣れているせいか、ジバレには強かったなぁ。
 
藤 強かったのなんのって……今でも若い衆に負けんものね。
 
蓑 岡五郎さんは負け意地が強いからな。いくら冷たくても冷たいと言わんのだから(笑い)
 
● 今あんなことしたら手が腐ってしもうわ。
 
藤 これはと思ったことはね、昔、ドロの木ね、それがジバレると竹みたいにすべるんだ。そいつをつけて名寄まで運搬したんだかね。昔の道は狭いし、中高くなって丸いしね、それですべって道の下の方にずるずるぬけて落ちていってしまったもんだな。他人の荷物だし、あの時は困ったと思ったな。いって抱えてみたって氷をつかむようなものですべってすべって、手袋しとらんし、シバレた手でかかえられんでしょう……ようやくかかえてあげて名寄に行ったが、手、水ぶくれになって、弱ったことある。
 
蓑 シバレた夜は木がバッシバッシと音を立て鳴ったものね。
 

──上名寄簡易教育所について伺います。どんな建物でした?

 
藤 住宅共で3間に5間位か
 
谷 生徒は?
 
● さあ12~3人でなかったかな。
 
● あの時分17才位のもおったからね。
 
● それに珊瑠や二の橋、然別からも来た。
 
前 4年制だったでしょう。
 
古(干)そうです。堺井義一さんなんかと一緒だった。星野寛一、一の橋の旅館だったかぁ、そこから来とったでないかなぁ。
 
前 それはずいぶん遠距離児童だなぁ。
 
名(以)谷清さん(二の橋)も来られた。
 

──学校は火事になったそうですが?

 
蓑 はじめ臭い匂いするので鶏が死んだのかと思ったが、鶏小屋は後だし、どうも人臭いようだと幸次郎さんご岡五郎氏弟Jゆうんだ。それで、みんなで雪をかけて消してみたら奥さんが焼けて出て来てね。本宮先生に知らせてつれて来た時、それ見て先生は坐りこまれたわな、腰拔けたんだね。そして藤原除造さんが馬で名寄の警察に行ったわな。私らは夜が明けるまでそこでお伽したです。
 

──入地した当初、役場は今の名寄にありましたが、連絡はどうでした? 

 
● 初年(明34)は名寄に役場ない、剣淵まで往ったでいったでしょう。それから3年目位に名寄に役場出来たのでしょう。
 

──それは大変ご苦労さんだったね。すると死んだという時も。

 
藤 やっぱり役場に行った。
 
渡 死んだのはうちの父が一番早かったんだ。明治36(1903)年の春だった。私の父は35年の6月、名寄に土方に行って1円50銭やらの前金貰って水間三之助さんに連れられて行ってさ、父はヤチ水呑んで腹痛おこし、それが原因みたいなものだったな。食ったもの吐き通しだった。苦しまれたわ。
 
前 そんな時、医者なかったろうし。
 
藤 死んだ後で医者に行って、死亡届書いてもらって役場に出したというようなことだったなぁ。
 

──日露戦争の当時ここから出征された人おりますか?

 
蓑 市村文治さんは行って戦死された。
 
藤 市村房吉、藤原除造、三吉、羽生さん。戦死はここでは市村文治だけだが、どっか向うに1人あった。なんといったかな。
 
前 市街の座談会で日露戦争のこと全然知らんですよ、それで勝った時、今なら祝賀会とか提灯行列とかいろんなことやりますが、その当時何か行事のようなものやりましたか。
 
藤 それ程のことはなかったね、何しろ荒山時代だから、それでも16線のところに凱旋する人に御馳走にといってアーチ建てたことある。
 
● そうだったね。
 
藤 それでね凱旋する人を迎えるといってね、私ら馬があるでしょう。そろそろ帰って来るだろうということで名寄まで馬で迎にいってるんだ。
 
古(甚)部落の人は10線高台まで迎えに出たね。
 
● あそこにも凱旋門あったね。
 
● 迎えに出たが来なんだこともあった。
 
藤 それで他の人はともかく、私らが馬を持ってるもんだから、おいたてられて何回も何回も名寄まで出ておる。
 

──馬の話が出ましたが、馬が入るようになったのは?

 
● 始めは島田鍬、藤原さんに馬が入ってプラオで畑を耕すのをわざわざ見に行ったものだ。みんなが馬使うようになったのは大ぶんおそい。
 
前 そうすると大多数の人は、はじめほとんど手で開墾されたんですか。
 
● そう。そう そう。
 
藤 始めは削って蒔き、削って蒔き、そして草取り時に間を打つのですよ。
 
萓 藤原さんで馬で耕すの見た時、こりゃあうまいことやると感心したなぁ。私21歳で林さんにおった時だ。
 

──米がとれるようになったのは、いつ頃ですか。

 
藤 試作は早かった。名寄と同じでしょう。親父が納内から種持って来て名寄(日進)で苗をすえてもらって、その苗を背負って来て植えたのだから、松久さんの湿地に古川から水を引いて……。
 
鷲 米のことは忘れてならんことぢゃと思います。今でも北限地帯として凶作では18番の下川といわれるくらい、気候の悪い所に当時、とれるやらとれんやらわからん時に何とか工夫して作ってみようと苦労されたこと、これが先人の徳、町民としても忘れてならんないことだと思います。
 
名寄で山形団体が作ったのは反収にして5斗、こっちは1石1斗かに2斗になった。赤毛系統の早生種ということだった。
 
古(干)それで藤原さん、やっぱり米を取って食わにゃぁ駄目だといって水路を造ること思い立たれたんだ。
 
藤 灌漑溝の工事の時、補助うけたですよ。1戸から5円まで出させ、それで測量や二十線までの土功のデメン賃にしたのです。それからこっちは目分達でやりました。41年頃は少ない人は二段くらい、多い人で1町くらい、まだ全部には行き渡っていなかった。米をやるのもやらないのも好き好きだった。
それで水通してくるのにこぼれたりすると、水田やらん人はこんなに水こぼれて来てどうもならんと怒鳴って来るんだ。
それで父も「そんなこと言うならあっちに水やらん、川に捨ててしもう」と言うんだ、私は父にね。「それは駄目ですよ。黙って見ていなさい。そうち水田造りたくなるから」といっておったら、やっぱり「水田は良いとな」となって、その人も一生懸命水田造り始めたものな。その時分に父ふぁ死んでおったで、ちょうどよかったがな(笑)
 
鷲 そう、水田ここまで広まって来るには、いろいろ波ありました。ハッカ全盛時代あり、澱粉全盛時代もあり、その間にも青豌豆成金時代もあり、大正7~8年頃から、それが芳しくなくなって、それから造田始めたのですね。当初の計画で明治40に年に80町歩の計画だった。それが普通人のちょっと着眼できんことだ。このこと忘れたら俺ぁ一生浮かぱれんと思っている。今、ちょっと沈みかけてるとこだがね。
 
藤 ところがね、私の父はね、澱粉に押されて「とってもこれではかなわん」といって、水田を1年で止めて畑にしたですよ。ところが水田返したところには薯もなんにもできん。こんなものしか出来ん(笑)
 

──明治41(1908)年に灌漑溝つくってから本腰で作るようになるまでにおよそ10年間あったわけですね?

 
● そうです。
 
古宇)私らのところも低いところは水田にしたけど、他はみんな畑だった。その頃、藤原さんのところは畦作ってきれいに水田出来とった。
 
古(甚)あれで原野の方一帯が水田となってしまったものだから、川向の方でも昭和5(1930)年、溜池作って水田造るようになった。
 
鷲 藤原次郎左衛門さんはユーモアのあった人で、酒を呑めば「俺は世界の長だ」といって笑っておられたが、その時分はわからんかったが、今思えばほんとうにえらい人だったと思う。上名寄は農業で立っていかんけりゃならんが、それにはどうしても水田を造らねばとて水田を造られ、また精神のよりどころとして神社を造り、信仰の頼りどころとしてお寺を作られたことは、深い考えのあったことだと思います。この開拓と平行して精神的なことに着眼された、この次郎左衛門さんの心持ちを忘れたら上名寄の農業は成功せん──と私はこうゆう信念を持っているわけだ。
 
蓑 そいつは大賛成だな。
 
鷲 そうゆう気持ちで郷土史を作っていただければ、これを時々出してみて、昔の人はこうゆう苦労したものだということを思い浮かべ、米一粒でも大切にする。わらの1本でも有効に使おうとする。そうすることが先人の徳に報いることだ──そういかねばなるまいと思うとるですよ。
 

──大変よいお話闘きました。そしてそれが今日のお話の結論にもなると思います、テープもなくなりましたので終りにいたします。

 


 
【引用参照出典】
『下川町史』1968・1426-1435p(難漢字を平仮名にする、一部削除する、読みやすく順番を入れ替えるなどの編集を加えています)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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