北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

[留寿都] 鯉沼 正之氏 (明治36年移住) 
成功する開拓者の資質

 

明治の北海道開拓は、人間という生物が挑める困難の上限であったでしょう。多くの移住者が原生林に挑み敗れていきました。しかし、少なくない開拓者が試練に打ち克ち、今の北海道の基盤をつくったのも事実。では、どのような資質の人物が開拓を成功させたのでしょうか。このことを『留寿都村史』(1969)掲載の古老談から学びましょう。

 
下記の回顧録は、村史編さんの昭和34年から44年の間に、編さん委員がインタビューした記録です。多くの古老が登場しますが、今回は留寿都村三ノ原地区の鯉沼正之氏を紹介します。鯉沼氏は埼玉県所沢生まれ、生年は記載されていません。
 
沼氏は古着の行商から北海道開拓を志します。視察を兼ねて古着の行商を行い資金を蓄え、明治38年に留寿都に入植。馬も行けない辺鄙な地でしたが開墾を成功させたばかりでなく、土地を買い増し、大正時代には75町歩の大地主となりました。
 
鯉沼氏の回想録を読んで学ぶのは、成功する開拓者になるために必要なのは次の事柄ではなかったかと思われます。
 

① 頑強な体

 この時代ですから鉄道も充分ではなく、移動は自分の足でした。それでも鯉沼氏は行商荷物を背負いながら道央から道北までくまなく歩きます。そのことを少しも苦とは思わなかったようです。もちろん頑強な体があったからでしょう。
 

② 強い目的意識と行動力

 鯉沼氏は北海道に渡るにあたって「1万円を貯める」ことを目標に定めます。1万円は今の貨幣価値では2億5000万円に相当する大金です。この目標は充分に達成できたものと思われます。決めたこと関しては躊躇なく行動を起こす意志力がありました。
 

③ 起業家精神と経営センス

 開拓は原野に農地を拓いて農家として自立することですが、明治の開拓は今の創業ベンチャーに近いものでした。鯉沼氏は留寿都に拠点を設けると、小作人を有効に使って耕地を広げ、巧妙に土地取引を行って財を成しました。単に農業だけで終わらない経営センスに秀でていました。
 

④包容力のある人格

計算高く利に聡いだけの人物では成功は覚束なかったでしょう。自然相手の開拓では自己責任の及ばない不慮の事態はいくらでもおこりました。そうしたときに誰が助けてくれるのか。愛される人格の持ち主であったことは、大きな資質だったろうと思います。
 
回顧録のなかでアイヌの貴重な財物を持ち逃げされる逸話が出てきますが、鯉沼氏は決して責めようとはしません。同じ頃、オーストラリアのイギリス人であれば躊躇なく撃ち殺したでしょう。借金のある小作人にも棒引きしてやった話が出てきます。
 
大自然との闘いのなかで磨かれた人徳──これを成功する開拓者の資質の最後に挙げます。
 
それでは鯉沼氏の回顧録をご堪能ください。
 
 

 


 

■古着の行商をしながら道内視察

私が北海道への移住を決心したのほ、明治36(1903)年のことであった。

 

まず視察しておくことにしようと思い、同年の7月に横浜から乗船し、函館をへて小樽につき、それから羽幌についたのは、埼玉を出て7日目であった。
 
知人の親類の者と二人で反物を売りさばいた。この時、菜種の収穫の頃まで貸しておくと、1円内外のカスリが2円50銭で売れた。正藍染は飛ぶように売れ、7~8割回収したので旭川方面に行くことにした。
 
それから名寄へ廻り、長男が誕生するというのでいったん故郷(埼玉県)へ戻った。そして、今度は古毛布や古外衣を仕入れて三ノ原へ来た。
 
三ノ原では、紹介状を貰っていた岸宇左衛氏は亡くなっており、岸家は養子の松五郎さんの代になっていたが、三ノ原へ荷物を送ってあったので、三ノ原へ行くことにした。
 
貫別川の吊り橋を普通橋にかけ替え中で、岸家は大工や土方でゴック返していた。古毛布や古外套はその日のうちに橋工事の人が買ってくれた。なにしろ11月で、寒さに向う時であり、当時は雪中でもワラで編んだツマゴというものをはくのに古毛布を足に巻くのであった。
 
狩太に汽車が開通するまで真狩や狩太を〝奥〟とよんでいた。汽車が開通すれば狩太は有望な市街になるというので、現在の旧市街からルベシベの入口まで、各地から商人が集まり、小屋がけの店を出していた。私も縁故をたよって虻田の深野古着店の出張店に厄介になり、ルベシベ方面を売り歩いた。
 

■妻子、従弟と北海道へ

私はすすめられて旧市街の松岡農場事務所が区画した宅地1戸を借り受け、明年に店を出すことにし、12月末に故郷にかえった。そして5月中旬、所沢駅を出発した。同行者は妻子や従弟など6人であった。その時私の目的は〝1万円の財を積む〟(※現在の貨幣価値で2億5000万円)ことであった。
 
そして、虻田につき、深野氏宅の座敷の一問を借り、妻子や従弟を預けた。それから三ノ原へ行き、岸氏と2人で目名原野、京極、倶知安、小沢を経て稲穂峠を越え、山道(銀山)より長沢に至る18里を1日で歩いた。大江村(現仁木町)長沢には、岸氏の表母がいたので、そこまで同行したのである。
 
翌朝、銀山駅から小樽行の列車に乗った。当時は、銀山から黒松内まで未開通であったのである。小樽についてみるとロシア艦隊(ウラジオ艦隊)が日本海を荒しまわっていた。日露戦争の真っ最中であったのだ。
 
そこから船で稚内へ行こうと思った。時化のために天売島で止められたので羽幌に行き、前年の貸しの整理をした。その間、戦争の行方について見当がつかなくなったので、稚内行を断念し、留萌、妹背牛、岩見沢、室蘭をへて虻田に帰って妻子と再会した。
 

■留寿都に定住を決意

しかし、まだ、落ち着き先が決まらなかった。何はともあれ三ノ原へ行こうと思い、妻子を連れてまた岸さんのところへわらじを脱いだ。ここに1か月ほど厄介になり、留寿都に家を建てる決心をした。
 
内地から持って来た品物を売り歩き、新しい生活に専念し、ルスツの阿谷安見氏の世話で北四線の草野仁吉に家を立ててもらい、宅地とともに72円(180万円)にしてもらった。
 
また、両谷氏が学校の薪の小切りなどを引き受けていたので、仕事を勧めれたが、慣れぬ仕事で鋸を折ってしまい、せっかくの駄賃は鋸代になってしまった。
 
両谷氏は、板切れに「和服裁縫所」と達筆で書いて入口に打ち付け、妻に裁縫をさせてくれたところ、四線方面の人はみな顧客になり、妻の働きだけでも生活ができるようになった。
 
当時の役場は、現在道南バスの待合所になっている西岡音吉氏の家のところであり、道路をはさんで郵便局があり、その向いが駅逓で市街の戸数は23戸であった。
 

■もらい手のない未開地を買う

私は行商やデメンをしたりしていた。加藤農場の荒地を借りてソバを作ることにしたが、1年でやめた。それから、加納貴松氏の仲介により、八ノ原の小浦方さんの裏で9万坪(30町歩)の未開地を買った。
 
この土地はあまりにも安い土地で、三ノ原はだいたい耕地になっているのに、もらい手もない土地であったかもしれない。しかし、よく見ると雑草のなかに菜種がまじっていた。
 
そこで一段と高い湧水のある所に小屋を建てた。大きな樺を倒し、一本の皮をむいて壁も屋根もできたので、ルスツの店を閉じ、家族とともに引越して開墾に従事した。
 

■開墾の日々

成功を急ぐ開墾であったから、人を雇い、請負で耕させた。その年はイナキビも食糧もよくとれた。南瓜は積み木を焼いた跡の灰をかき分けて蒔いたが、よく実り、味もよかった。トウキビも冬に持ち越し、乾燥させた。
 
冬は谷の氷を割って水を汲み、氷の穴から顔を洗った。買い物はほとんど三ノ原の守屋商店の通帳を使った。妻は極度に倹約し、4合のしょう油を1升瓶に入れ、水と塩とで1升とした。夏の暑さも編笠すらかぶらず、フキの葉を手拭いで押さえ、帽子のかわりとした。
 
主食はイナキビであったが、子供が腹を悪くするので、やむなく少量の白米を買った。当時はどこの農家でも白米は1年に3升か5升で、1斗を食べる家はなかった。
 
開墾は、ところによって樹木を片付けるのに手問どった。とにかく早く拓かねば付与されないから、薪炭にすることなどは考えずに、雪の上でどんどん焼捨てた。笹に実がなり、枯れて火が入り、大木も焼け、立木のまま拓くところもある。
 
開墾は窓鍬という剣先のある窓のついたものを使った。1鍬打ちこんで少し問をおき、2鍬目を打ち込み、3度目にその中間に打ちこんで引き起こす。笹原や根張りの多いところは1鍬では起きない。
 
早く拓きたいものは〝けずり蒔〟といって、薄く土地をけずって蒔く。蒔くところだけけずる。南瓜は〝坪蒔き〟といって一株ずつ穴を掘る。やがて、笹や木株、根が腐ってから引き起こし、抜き取るのであった。
 

■馬も通れぬところ

2年目の時であったか、子供の病気の時に往診をたのんだ。横室先生の父上であった。すぐに来てくれたが、川が一本橋であったために「馬の通れぬところには行けぬ」と馬の口を後に向けてしまった。
 
帰られては大変と、馬のくつわを押えて平身低頭懇願した。先生は馬を待たせて歩いてくれた。子供はもちろん助かった。
 
畑から妻が昼食の仕度に家へ入ったところ、長女の泣声が聞こえる。生後数か月であった。来てみれば声はすれども姿は見えない、あわてて家中を探したが見あたらない。割板の座敷であるため、育つに従い足をふんばり、つぎはぎの割板のすき間から落ちたものらしい。
 
傾斜地のことゆえ、緑の下3尺もある笹のとがった刈り株で、顔も手足も血まみれになっているのであった。
 
2年目にさらに土地15町歩を買い、これに続く10町歩を無償で引き受け、成功を急いだ。この頃、東北地方に凶作があり、仙台人を4戸も入地させたのであった。
 

■アイヌに熊撃ちを頼む

入地3年目の秋であったと思う。熊が出て毎夜トウモロコシを荒す。熊はトウモロコシの房を握ってみて、実があるかないかを確かめるのである。握った房はつぶれて実らない。姿は見せぬが足跡は毎夜新らしくついている。
 
熊の恐ろしさはすでに聞いていた。土屋武平氏は夜道に熊に逢い、夢中で逃げかえったが、その時に被っていた手拭いが取れない。不思議に思って無理に引っぱってみれば、頭髪がみな手拭に刺さっていたとのことであった。
 
若い時は熊取りの名人といわれた弁辺のアイヌにたのみ、捕らせることにした。アマツボを掛けるというので、五ノ原の渡辺氏から銃を借りてアイヌに渡した。
 
熊もアマッポを掛けてアイヌが番をしていれば、臭いでわかるのか、まったく出なくなった。
 
渡辺さんから「銃を返せ」と催促されたが、アマツポをかけたところに銃はなかった。アイヌに聞くと「銃はトバクに負けて取られた」という。いろいろなことがあったが、金を払って取り戻して、渡辺さんに返した。
 
アイヌは、これを聞いて気の毒がり、「仕事で払わしてくれ」というので荒山を拓かせることにした。
 
アイヌの妻は、夫が悪い事をして警察につかまり、これを助けた人がいて、そのお礼に荒山を拓き、借金を払っているという噂を聞き、弁辺から素足で、しかも子を産んでから3日目というに5里あまりの道を夫を訪ねてきた。
 
ハンポウ(妻の意味)は夫に会い、泣いて無事をよろこびあった。夫にトウキビを焼いて食べさせたところ、一本焼ければ二つに折り、ハンポウに与え、二人で仲良く食べていた。ハンボウは、その日のうちにまた素足で弁辺へ帰って行った。
 

■三ノ原に移転

雪が降るまで荒山を拓いたが借金はのこった。しかし、貸しは棒引きにしてやった。
 
土地は大体成功したので、森浦吉氏が貸下人の代表となり、私は譲受人の代表となって直接譲受人へ付与されるように室蘭支庁へ参庁して申諮し、検査の上、申諮通り許可された。私の土地は、成功と同時に買い受けた分を合わせて75町歩になった。
 
私は成功した土地を担保に拓銀から借金し、高利の借りを払い、なおニノ原原野を3回にわけて25町歩を買い受けた。樹林地は落葉が積み重なり、腐って土と化し、無肥料でも作物ができるのであったが、原野は腐蝕物がないために作物が出来ず、土地の買い手がなかったのである。しかし、この原野も肥料を施せば必ず作物が実るようになる。そうなれば、傾斜地よりも乎担で便利な地を持つ方がよい、と考えた。
 
土地を買ってみても、小作人がないので小作人には有利な条件で契約し、それに家屋を建て貸与した。
 
はじめの2年間はトウキビの穂が出なかったが、小作人は馬糞や草などを鋤込み、今日のような耕地となった。
 
さて、付与された土地は急傾斜と地理的な不便のため売却の見込で、さらに三ノ原の土地を古畑氏から買った。子供は三ノ原小学校へ通学しているし、本村に籍があったから、三ノ原に家を建てて明治45年に移転した。三ノ原に移転してからは、土地の経営に力を注ぎ、耕作は自家用のみとした。
 

■村の重鎮として

三ノ原へ移転して2年目と思うが、突然、日本勧業銀行から支払命令がきた。これは私だけでなく古畑氏から土地を購入した4人に来た。
 
古畑氏に詰問すると、古畑氏は解決案として関根氏所有(古畑氏の債務連帯者)の土地約37町歩、自作畑3町歩余を担保付のまま関係者に引渡したほか、古畑氏の手持ちの土地6町歩を無償で引き渡して勧銀の債務を弁済することを提案をした。
 
結局、私個人でこれを引き受け、関根氏の自作地と古畑氏が引き渡した土地を売却し、37町歩の延滞金を整理し、これを土屋源次郎氏に売却したのであった。
 
その後に弁辺村山梨よりオオナイ、越中沢をへて三ノ原に至る道路の問題があり、これは20年にわたる訴訟事件となったことがある。それから50年たって基点はちがったがオオナイを通って三ノ原に至る道が開削されたのである。
 
これは、私が村の役職につくようになったことの始まりであった。それから村会議員を35カ年、連合部長として10年、村常会員、常務委員などをしていたが、終戦時にいっさいの公職をやめた。
 
未開地が誰の力で開けたか。自力で移住開拓した者もあるが、全体からみてわずかである。明治以来旧大名や功臣、財閥が大地籍を貸下、小作人を募集し、米や味噌を貸しつけ、開墾料を払い何年か年頁なしで開拓させたものである。
 
三ノ原の守屋氏は、南一線の大部分を貸し下げを受けたが、土地経営の不利を知り投げてしまった。
 
明治末期でさえ、私はニノ原で未開地30町歩を坪1厘で買い受け、続く10町歩は地主より無償で譲り受けたくらいであった。そういうわけで地主は決して有利な仕事ではなかったのである。
 
 


【引用出典】
『留寿都村史』1969・留寿都村・383-387p
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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