北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

[清里町] 少女たちの北海道開拓

次代を担う若人たちが開拓地を永久に愛して発展してくださることを念願してやみません

 

開拓時代の北海道入植者は家族連れが普通でした。両親は働き盛りですから子供たちも幼い。男の子だけでなく女の子もいました。今の小学生から中学生ぐらいの多感な少女時代に両親に連れられ、原生林の中で暮らすことになった彼女たち──。昭和53(1978)年の『清里町史』に掲載された「清里町ことぶき大学」で「作文、編集、印刷、製本にいたるまで老人たちの手でなされた」『老松』という文集からの引用です。
 
「何分にも明治時代の幼稚な小学校育ち、しかもほとんど低学年修了で、忘れた文字、前後した字句を綴り合わせた拙い文章………6、70年も昔歩んだ跡、青壮年時代の困苦の生活の日々、血と汗のにじむもの、辛苦の土の匂うもの、いかなる美文より尊い飾りけのない真しな姿をご理解のもとに判読いただければ」と紹介された中から、女性たちの文章を紹介します。
 


 

 

壁はオヒョウとガンビの皮で家を造りました

大西 以志

 
私は小原貞治の長女として栃木県西那須野に生れ、明治39(1906)年4月、父母や叔父喜兵らとともに中湧別に入地。その後サロマベツ港(現佐呂間港)に移り漁業に従事していましたが、地元有志のすすめで明治40(1907)年4月中旬、上斜里に移転してきたのです。動機は川魚がいくらでも取れる、土地が良く肥えており、安い価格で手に入るということでした。その時私は5歳でした。鈴木徳蔵さんの農場が斜里川淵にあるので、そこにきたのです。
 
ほんとうに小さい小屋があって、そこに私達と叔父達と7人で住みました。家を建てようとしましたが、何んにもなく、道という道もなく、川渕に熊が魚を取りにくる細い道があるだけでした。父母と叔父が話し合い、家を建てる木を切りはじめ、母と叔母はブドウツルやコクワツルを集め、笹とヨシを刈り集めたり、オヒョウの木皮やガンビ(白樺)の皮をはいたりして、そして釘の代りにブドウツルとコクワツル、柾の代りにサシとヨシ、壁はオヒョウとガンビの皮で家を造りました。14号の下で今のふ化場のあたりと思います。
 
どこを見てもトド、カツラ、タモ、ワタドロ、クルミ、赤タモ、シナ、オンコ、ジゴロ、オヒョウの大木で、日中でも空か見えないほどでしたが、40年の夏に鈴木国治さんと関根留吉さんがきたので4戸になり、この2人は13号の川渕に家を建てました。はっきり判りませんが42年と思います。土方が60人余り入り、野川道路工事が始まり、父や叔父は土方に出て大変苦労したのを覚えています
 
 

ぞうりは祖母がトウキビの皮で編んでくれたのです

横田 喜代

 
大正3(1914)年の春、羊蹄山の麓の倶知安から斜里岳の麓の上斜里へ父母に連れられてきたのが、8歳の時でした。以来50有余年………大成月は人を待たず、もはや人生も終りを告げる年齢となってまいりました。
 
そのころ汽車は網走までしかなく、馬車に乗ってきたのです。この10里余もある里程で客を運ぶ仕事をしておられたのが、現在の関山商店のご主人のお父さんの松次郎さんでした。朝、網走を発つのには、夜がけで網走に着くのですから、大変なお仕事のようでした。お店は奥さんが日用品を売っており、他に村尾さんと2、3のお店がありましたが、衣料品や学用品はないので斜里まで買いに行きました。
 
小学5、6年生のころ、おにぎりと下駄を持って、ぞうりばきで行きました。ぞうりは祖母がトウキビの皮で編んでくれたのですが、斜里まで往復6里歩くと、帰りにはぞうりが切れてしまうので、下駄をはくのですが、足は疲れるし、豆がいくつもできました。冬はワラで編んだ長靴をはいて学校へ通いましたが、寒中は冷めたくてシモヤケになり、痛くてよく泣いたものです。今はなつかしい思い出です。
 
村の人達が一番困っていたのはお医者さんがいないことでした。重病人になると馬車で斜里の外山病院まで運んだのです。そのうち人口も次第に増え、学用品なども斜里まで行かなくても買えるようになり、大正7(1918)年ころには山田先生が医院を開業されたので、人々の喜びは大変なもので、毎日たくさんの病人が押しかけました。
 
そして昭和4(1929)年には、待望の鉄道が開通したので、村人にはこの上ない喜びでした。私の父母ばかりでなく、当時の人々はみな同じ労苦を重ねられたことと思います。
 
 

不幸も災害もありましたが、部落中が協力し克服しました

菊地ナホ

 
大正4(1915)年岩手県遠野市より父佐々木春松に連れられ、12人家族が神威に移住しました。11歳の少女でしたが、子供ながらも見渡す限りの大平原に驚きました。
 
25㌶の荒山のまっただ中にポツンと入地しましたが、どこの移民も当時は一応起業方法として開拓年限は5ヵ年で、住居はきまりとして2間に3間の着手小屋を建てたものです。大体萱ぶきで、敷物は割板や笹や萱を干したのを敷き、その上にアンペラや莚を敷きました。冬になれば小屋の中央のいろりに薪を積み重ねて焚火しましたが、火がドンドン燃えるから石油ランプもローソクも余り使いませんでした。食事は麦、イナキビ、ソバ、豆、馬鈴著が主食で、米は正月とお盆だけでした。野菜は山菜でフキ、ワラビ、キノコが主でした。
 
もちろん馬も車もないから、何をやるにも人力にたよるほかありません。助成も融資もないから、年月を重ねる間には不幸も災害もありましたが、部落中が協力し克服しました。こうして入植してから5年が流れて、起業方法どおり25㌶の開拓に成功したのです。そして付与になりました。
 
しばらくして網走支庁から付与司令書が送られてきましたが、その時父は躍り上がって喜び、司令書を仏様に供えて、世話なった部落の人を招待してお祝いしました……。
 
今は亡き父母やお姑さん方の苦労のほどを想い、今のこの文化の時代を見せたいなと思います。そして次代を担う若人たちが開拓地を永久に愛して発展してくださることを念願してやみません。
 
 

朝は3時に起きて夕方は手もとが見える間中働きました

宮本 ヒロ

 
私の故郷は福島県白川郡です。父高坂善五郎、母サダの長女に生れ、11歳の時来道し、倶知安に住まいました。18歳の時宮本寛平と結婚して7人の子の母となりましたが、今の西神威に入地したのは大正5(1916)年23歳の時でした。
 
当時は西を見ても東を見ても山また山で、熊や狐が群をなして家のまわりを走り回るので、夜の外出は部落の人が団体で大声で歌を歌い、カンカンをたたきながら歩きました。そのことを孫たちに聞かせると、大笑いして「それならブラスバンドでも頼んだ方がよかったでしょう……」と。
 
水は家から300間ばかり離れた宇遠別川から、天びんでかついで山坂越えしたのです。道らしいものは1本もなく、頭に覆いかぶさる草や木を押し分けて、曲りくねった細道をワラジばきで歩きました。
 
衣食住はあまりにも粗末な物でした。吹雪の時には家に雪が吹き込み、食事は麦と馬鈴薯が常食でした。夜は11時ごろまで着物や足袋のつくろいをし、朝は3時に起きて夕方は手もとが見える間中働きました。今日の経済成長を思うともったいない気がするとともに、いかに時代の流れとはいえ、各自の生活の限度を考え直してみたいものだと思います。
 
 

曾孫を見ると若いあの時のことを思い出します

岩佐 あさよ

 
幼い曾孫が母親の乳房に口を寄せ、安らぎの眠りにつこうとするのを見る時、私は若い日のあの時のことを思い出します。
 
昭和の初めころのこの地は医者など縁遠く、道なき道をトボトボ行くなど斜里はとてもとても遠いところでした。長女のゆき子が2歳の時、右のお乳の腫れがひかず、がまんして絞ったり、冷やしたり、何でもやってみましたが、苦しさは増すばかりでした。
 
困りはてていた時お店に買い物にきた方が「熊の子に乳を呑ましたらいい」といってくれました。ちょうどそのころ、神威に熊などの皮を売買して生計をたてている岡崎さんがいました。その岡崎さんが生れたばかりの子熊を飼っているということでした。私は熊というので少々心配もしましたが、苦しさが先に立ち、早速岡崎さん宅をたずねました。子熊は犬コロのように部屋の中を駈けていました。
 
わけを話しまして子熊を抱きあげますと、顔を寄せ鼻づらでお乳をまさぐりすぐに吸いつきました。歯もガッチリとそろっていましたが、咬みつきもせず、じょうずにまたたくまに呑み上げてしまいました。ピンと張った胸の固さも次第に柔くなり、痛さと苦しさが遠のきますと、抱いている子熊が急におそろしくなり、手離しました。深々と頭を下げて帰ってきましたが、遠く若いころの医者のいないところに住んだ者の思い出です。
 


【引用出典】
『清里町史』1978・90-94p

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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