北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

 

よみがえる世紀の祭典「北海道百年 」


1968年 北海道百年 記念事業③ 

道章の制定、映画の全国放映、道民の森の造成─多彩な記念事業

 

平成30(2018)年の「北海道150年」ではあわせて1147の事業が行われたと誇らしげにいいますが、その多くは民間の既存イベントに冠を被せたものでした。道の独自事業は記念式典を除くと映像コンテストや音楽祭などのイベントがいくつか。では、昭和43(1968)年の「北海道百年」ではどうだったでしょうか? 大博覧会の開催、野幌記念施設の建造の他にも、実に多彩なイベント・事業が行われました。その一部を『『北海道百年事業の記録』1969よりご紹介します。
 

【記念パレード】

 
「北海道百年」に隠れしまいましたが、昭和43年は札幌の創建百年でもあり、独自に記念事業が行われていました。北海道百年記念祝典の前日に記念パレードが二つの百年を記念して共催で行われました。
 

記念パレードの出発(出典①)

記念祝典の前日昭和43(1968)年9月1日、札幌市の主催で北海道百年・札幌市創建100年記念パレードが行なわれた。パレードは、おりからの雨をついて道庁構内を出発、16台の装飾車と15音楽隊をつらねて全長800メートルにおよび、札幌駅前通りを中島公園入り口まで行進し、沿道にカサの花を咲かせた市民たちに「新しい北海道へ踏み出そう」と呼びかけた。またこの夜、道立スポーッセンターで道・北海道放送主催の祝典前夜祭も催された。[1]
 

【シンボルの制定】

 

●北海道章・北海道旗の制定

お馴染みの北海道のマークも「北海道百年」を契機に策定されました。作者は栗谷川建一。栗谷川先生は開拓記念館の展示デザインや「北海道百年 風雪百年 輝く未来」の文字のレンダリングも担当しています。

 

道章の描き方(出典②)

北海道百年を前に道民の心のよりどころとなる道旗・道章の制定を──という声が、知事への手紙や新聞紙上その他を介して大きく盛り上がった。
 
道はこれを百年記念事業として取り上げるかどうかを検討した結果、道旗・道章はその本来的意義からみて百年記念にかかわりなく当然あるべきものとし、記念事業とは別に、開拓者精神によって建設発展してきた北海道の輝かしい歴史を継承し、さらに近代化の理想に向かって躍進しようとする北海道の姿を象徴、誇りと親しみをもって道民に愛用される道旗・道党を道民の総意にもとづいて制定することになった。
 
昭和40(1965)年7月、広く意見をきくため、学識経験者・道議会議員・報道機関代表者および産業・労働·婦人•寄年など各団体の代表者ら30人からなる北海道旗・北海道章制定委員会(委員長阿部謙夫氏=北海道放送社長)を知事の諮問機関として設置した。
 
同委員会は、同年8月から10月の3か月間に全国から道旗のデザインを公募するとともに、採用した旗のイメージを生かして道章を決定するという基本方針をうち出した。これにより、道は全国に呼びかけて募集、7,500余点の作品が寄せられた。

 

北海道旗(出典③)

制定委員会はそれらの審査を重ね、昭和42(1967)年3月の最終審査で北海道デザイン研究所(所長栗谷川健一氏)提出の作品を採用することを答申、知事決定のうえ同5月1日付けで北海道路・北海道旗の制定が正式に告示され、5月27日、札幌市民会館における制定発表会で道民に披露された。[2]
 

●「北海道の木」の選定

おそらく大規模な植樹事業を行う関係だと思われますが、エゾマツが北海道の木に指定されました。ちなみに北海道の鳥「タンチョウ」の制定は昭和39(1964)年9月、北海道の花「ハマナス」の制定は昭和53(1978)年7月です。

 

北海道の木「エゾマツ」(出典④)

百年記念事業のひとつとして「北海道の木」を選定する準備は早くから進められ、道は「北海道の木審査委員会」を設けて昭和41(1966)年7月選定方法を決めた。審査委員会が候補木を選考したうえ、道民投票によって選定しようというものである。
 
同委員会は候補木の選考にあたって、①北海道在来のもの、②北海道の発展を象徴する力強いもの、③広く親しまれていて緑化しやすいもの、④容姿美しく風格のあるもの、などを基準とし第1次候補木として同7月末から9月中旬まで道民投票を求めた。
 
投票総数は約2万3,000票、うちエゾマツが1万4,165票と他を大きく引き離し、以下トドマツ・ニレ・カツラの順であった。同9月30日付け道告示でエゾマツを「北海道の木」に指定した。[3]
 

●「北海道民のうた」の制定

「道民のうた」選定発表会(出典⑤)

全道民が口ずさめる「北海道のうた」の制定は「北海道百年」の大きなテーマでした。一つではなく歌詞を公募のうえ、行進曲用、子どもたちが親しめるホームソング、民謡調と3つが同時に制定されました。今はほとんど忘れらていますが、北海道の公式サイトには題名だけが掲載されています。「道章」「道旗」は「北海道のうた」の発表式の場で、同時に道民にお披露目されました。
 
北海道百年を機会に躍進北海道にふさわしく、だれでも歌える新しいうたがほしいという道民の声が高まり、道は昭和41(1966)年3月、百年記念事業実施方針の中で「道民のうたのう」についても適切な措置を講ずる」こととした。歌詞の募集は、行進曲・ホームソング・音頭の3部門につき8月から10月にかけて行なわれたが、道内外から行進曲558編・ホームソング501編・音頭404編、総数1,463編の応募があった。
 
審査は選定委員会委員のうち5人と道内の学識経験者・詩人・音楽関係者など18人による専門委員会が行ない、同11月、各部門ごとに採用作品1編(知事賞・副賞20万円)・優秀作品5編(知事賞・副賞1万円)・佳作10編(記念品)を選び、採用作品を一部補作して選定委員会の決定、発表をみた。
 
次いで選定委員会は、道民のうたを軽快で明るく、だれでも、どこででも、いつでも楽しく歌えるものとするよう、作曲者とレコード吹き込み歌手を翌42年2月選定、歌手の専属契約との関連上キングレコード株式会社にレコード製作を委託した。
 
◎行進曲「光あふれて」太田武彦(陸上自衛官・美幌町)
  〈作曲〉中村八大 〈歌〉ボニージャックス
◎ホームソング「むかしのむかし」広瀬龍一(函館市立北高等学校長)
  〈作曲〉中田喜直 〈歌〉梓みちよ・ボニージャックス
◎音頭「北海ばやし」清原千晴(池田小学校教員)
  〈作曲〉広瀬量平 〈歌〉ペギー葉山・ボニージャックス 〈作舞〉丸岡嶺
 

 

 

 
この道民のうたは昭和42(1967)年5月27日、札幌市民会館に各作詞者・作曲家・歌手 を招き、道旗とあわせて発表された。[4]
 
 

【記念像の健立】

 
 札幌市中央区の大通公園の黒田清隆蔵とケプロン像は「北海道百年」でつくれました。この他、岩村通俊像が札幌市中央区円山公園内に、永山武四郎像が旭川常磐公園内に建てられました。『北海道百年事業の記録』では旭川の「風雪の群像」など市民の手になる記念像建設を挙げていますが、北海道百年にあわせて道内市町村で開拓功労者を顕彰する多数の像が建てられました。
 

●開拓功労者顕彰像

昭和40(1965)年9月、北海道開拓功労者顕彰像建立期成会(会長広瀬経ー氏=北海道商工会議所連合会会頭)が設立され、第3代開拓長官黒田清隆、開拓顧問ホーレス=ケプロン、初代北海道庁長官岩村通俊、第2代北海道庁長官永山武四郎の4功労者の銅像を建て伝記を出版することになった。[5]

 
左からホーレス=ケプロン像(出典⑥)、黒田清隆像(出典⑦)、官岩村通俊像(出典⑧)、永山武四郎像(出典⑨)
 

 

●市民の記念像建設

「漁民の像」(出典⑩)

札幌市青少年サークル連合会では、北海道2世紀に羽ばた「若ものの像」を自らの手で建設しようと、全道の勤労青少年に呼びかけ、彫刻家竹中敏洋氏の協力で道立真駒内公園(仮称)に青年の像「大地の手」の建設計画を進めている。
また、漁村の婦人や青少年が中心となった「漁民の像」、労慟者や文化人を中心とする記念碑「風雪の群像」(本郷新•本田明二氏共作)建設計画も進められている。[6]
 
 

【歴史の保全・復元】

 
北海道開拓を「歴史」として記録整理することが、「北海道百年」の大きなテーマでした。北海道史の基本文献である『新北海道史』の編さんが行われたほか、少年向けの歴史本などが多数発行されました。ここには述べられていませんが、民間でも多くの関連書籍が発行され、北海道は一大出版ブーム、歴史ブームに沸きました。
記録を見て知ったことですが、組織的に歴史調査、開拓遺産の調査を行ったようです。それらはどうなったのでしょうか? 今後探索してみます。今、心配なことは開拓排斥の風潮の中で各地の開拓遺産が失われている現実です。
 

●赤レンガ庁舎の復元

修復を終えた赤レンガ庁舎(出典⑪)

昭和37(1962)年に新庁舎建設計画及び構内整備計画の検討を始めるとともに歴史的な建物である赤レンガ庁舎の取り扱い方が各方面の注目を集めたが、40年に北海道本庁建設協議会及び道議会の庁舎建築調査特別委員の審議を経て、新庁舎へ移転の後、赤レンガ庁舎を創建時の姿に復元し庁舎の一部として利用しながら保存していくと言う基本方針が決まった。
 
この赤レンガ庁舎=北海道庁本庁舎は、明治21(1888)年、新築当時はレンガ石井造り3階建て延約5000平方メートルに及ぶ当時有数の大建築で、屋上には地上33メートルの巨大な八角堂がそびえていた。しかし、建築構造の欠陥から八角塔は同29年に取り払われ、また火災後の復旧に当たって形もさらに変わった。
 
その復元には特に慎重を要しなければならなかったが、創建当時の設計図面はほとんどなく、わずかに外観をした数枚の写真を頼りとするほかなかったので、東京大学名誉教授藤島亥治郎博士を顧問とし、ほか数名の明治建築研家の指導のもと、同本庁舎建設本部が企画調査室にあたり、復元及び改修を進めた。復元改修の工事は昭和43(1968)年4月に着手し、同年8月にほぼ完了した。[7]
 

●幌内鉄道機関車の対面

対面式に臨む「義経号」(出典⑫)

北海道で最初の蒸気椴関車「義経」号と「しづか」号が、小樽市と国鉄道支社のきも入りで百年を記念して再会した。「義経」は明治13(1880)年に開通した幌内鉄道手宮・札帳間を走ったアメリカ製機関車第1号で、第2号は「弁慶」と名付けられ、「しづか」は第3号の機関車であった。幌内鉄道は日本で3番め、産業用としては日本最初のもので、幌内炭山の石炭を小樽港へ送り出すことを主目的とした。
 
これらの機関車はいわば開拓推進の花形トリオであったが、いまは別れ別れ、「義経」は国鉄鷲取工場(神戸)に、「弁慶」は東京の交通博物館に、「しづか」は手宮の鉄道記念館に保存されている。開拓使時代のきびしい風雪の思い出を共にする「義経」「しづか」が北海道で再会するのは45年ぶり、その対面式は昭和43(1968)年7月20日、その昔の幌内鉄道起点であった手宮駅構内鉄道記念館前で行なわれた。[8]
 

●開拓記念物の調査

 昭和37(1962)年に開いた知事・民間有識者懇談会で話題になった開拓遺産などの保護保存問題は、文化財保護の仕事との関連上道教育庁社会教育課が担当し、その方策として①開拓記念物等調査②市町村郷土館(記念館・博物館)建設告の助成が行なわれることになった。
 
調査は5年計画で行なわれた。まず昭和38(1963)年度は、市町村教育委員会に依頼して郷土研究家や古老・教員などの中から調究員を委嘱し、各地域に残っている開拓記念物をカードに記録、分類整理したうえ、目録を作った。集計して史跡746、考古資料374、先住民族資料776、藩政資料82、産業関係445、生活t資料2,289、自然物548、記録類1,228、合計6,488件となった。
 
昭和39(1964)年度はその追加調査を進め同じく目録を作ったほか、価値判断のための現地調究を行なった。追加調究の結果は、史跡176、考古40、先住民族8、藩政20、産業43、生活217、自然15、記録64、合計583件であった。現地調査は道文化財専門委員などに26市町村について行ない、また古武井熔鉱炉跡(尻岸内町)など4史跡を発掘調査した。
 
昭和40(1965)年度は現地調究を重点とし、市町村から報告された開拓記念物の系統的価値判断と埋もれているものの発見につとめたほか、史跡の調杏確認と埋もれ発掘実測を行い『概要報告書』を出した。
 
昭和41(1966)年度も引き統き現地調査を進め、建造物および産業・生活部門の農業関係のとりまとめを行ない、概要報告を作成、現地調査は寿都町ほか69市町村にわたった。最後の42年度は、各分野の調査結果を体系的にまとめ報告書を刊行した。[9]
 

●「開発振興功労者の声」録音

古老へのインタビュー(出典⑬)

作業は昭和39~42年にわたり、39年度33人、40年度45人、41年度43人、42年度40人、計161人の声を収録した。聞き取りはおおもね対象者のもとへ出向いて行ない、ひとりについておおむね30分録音した。[11]
 

●史誌の刊行

『新北海道史』
全9巻北海道(道史編集所)編刊、昭和44(1969)年から続刊。A5判、各巻平均1,000p 2000部
『北海道回想録』
北海道(文書課)編刊、昭和39(1964)年2月、3,500部、A5判、376p
『開拓につくした人びと』
全8集、北海道(文書課)編刊、昭和40(1965)年1月~42年9月、各5,200部、B6判、208~338p
『北海道のあゆみ』
北海道(文書課)編刊、昭和43(1968)年9月、6,700部、A5判、180p
『北海道百年のあゆみ』
北海道教育委員会編刊、昭和43(1968)年3月、10万部、A5判、116p [12]
 
 

【記念植樹】

 

「道民の森 神居尻地区」(出典⑭)


「北海道百年」の「記念植樹」は、その言葉から受けるイメージ以上に大規模で、野幌森林公園の原生林復元、道民の森の造成など、巨大造林事業として取り組まれました。
 
昭和41(1966)年4月発足した記念事業推進協議会の植樹部会の第1回(41年6月)•第2回(同8月)で植樹事業の基本的考え方について協議し、その基本方針が推進協議会常任委員会(同8月)で承認された。第3回(42年9月)は実施要領について協議、第4回(43年3月)で実施要綱を協議決定した。
 
実施要網は、北海道の緑を守り保全していくことが道民生活をより豊かにするためにも今後の開発を進めるうえにも重要なので、道民の参加を得て全道的な記念植樹などの事業を行なうこととした。
 
実施要網にもとづく事業は、国・市町村ほか関係機関·団体ならびに道民が広く参加し、昭和43(1968)年の「緑の週間」「北海道緑の日」を含む5月を中心に盛大に行なわれ、未来の北海道のために豊かな緑をのこすことになった。
 
道民みんながわが家に記念植樹を──という「1戸1木運動」は大きな反響をよび、春秋合わせて183市町村で総数144万8,741本の苗木が植栽された。
 
道主催の植樹祭は昭和43(1968)年5月4日真駒内道有地(緑が丘)で町村知事以下地域住民など900人が参加。1万8,000本余を植えたほか、地元住民がエゾヤマザクラ300本を植栽した。
 
国有林の記念植樹は全道92か所で約35万本国鉄は572か所で約13万本、王子造林など17社による栄林会では23市町村で約42万7,000本を植栽したほか、林業関係団体・学校・陸上自衛隊各駐屯地その他でそれぞれの記念植樹が行なわれた。
 
記念街路樹は、道道西野・月寒線(札幌)ほか、道道5線で計1万4,400ににわたり、ニセアカシヤその他約1,200本を植え、国道・市町村道でもそれぞれ植栽された。[13]
 

●道民の森の造成

記念林の造成は、国・道・市町村・林業団体がそろって実施した。その最も大規模なものは道の青山模範林(当別町)で、新植造林地89ヘクタール・天然林撫育100ヘクタール、計189ヘクタールにおよび、新植はトドマツを主体として44年度までに行なわれる。また車道2キロメートル歩道7キロメートルも新設したが、ここは青山ダムに隣接してはるか暑寒別岳を望む景勝地でもあるところから、小鳥の巣箱をかけて繁殖をはかるなど、道民が自然に親しむに好適な環境をつくつていく計画である。[14]
 

●名木・美林の選定、保存

各支庁から提出された250点の候補に委員会で追加したものを合わせて選考、昭和43(1968)年8月、名木100点・美林30点•その他19点(並木・防災林・屋敷林・学校林など)を決定した。[15]
 

【文化事業】

 

記録映画『北海道物語』ポスター(出典⑮)

文化事業として行われたものはこの限りではなりません。「書画コンクール」の類いは省略しました。これまで紹介してきたものは道の主催事業です。2018年の「北海道150年」が喜々として数に上げた水準で民間の協賛事業を加えると万の単位になったのではないでしょうか。映画制作一つにしても、全国ロードショーという力の入れようです。
 

●記録映画『北海道物語』

道(観光課)の百年記念の企画で読売映画社が製作したカラー35ミリ,シネマコープ『北海道物語』は、今日の北海道の自然と人間のきびしくも美しい触れ合いを綴った長編ドキュメンタリーである。3年間にわたった取材行程5万キロ、延べ16か月のロケーションで8万フィート(映写時間約15時間)のフィルムを1時間30分の作品にまとめたもの。昭和43(1968)年7月、全国映画館でいっせいに封切られた。同年の日本映画の中の文部省特選のひとつとなった。[16]
 

●北海道芸術新賞の創設

北海道百年を記念し、北海道文化団体協議会(九島勝太郎会技)が道教育委員会の助成を得て「北海道芸術新賞」を創設した。
 

●記念作文・論文

先人の労苦をしのんでより豊かな郷土づくりの決意を示す作文・論文が、道と道教育委員会の共催、道文化団体協議会の協力のもとに公募された。作文の題は「かがやかしい私たちの郷土」で、道内の小学3年生以上の児童と中学生を対象に、先人への感謝と郷土の今後の発展のための決意なり方法なりを綴るもの。
 
論文は「輝かしい200年後の北海道」をテーマに、道民が期待するいまから100年後の北海道の姿を描き、その具体化方策を論じるものとした。対象は道内高校生以上および道出身者で道外の高校・大学に在学する者ならびに一般道民である。
 
募集は昭和42(1967)年12月に始まって43年3月末締めきり、作文は小学生794編・中学生545編・計1339編、論文は高校生4編、大学生および一般20編・計24編の応募をみた。[17]
 
 

【新聞放送の百年関係企画】

 
道の主催事業ではありませんが、新聞などの紙面企画のリストが紹介されていたので転載します。道内の全新聞マスコミ、特に道内新聞社が社を挙げて前後数年にわたって「北海道百年」を盛り上げた様子がわかります。
 
報道機関は、早くも昭和37(1962)年ころから北海道百年にちなむ各種の企画ものを取り上げ、百年に対する道民の意識を盛り上げていった。そのおもな連載・述続連続放送企画ものだけでも次のようになっている。
 
●北海道新聞

『北海道百年 道庁時代編』表紙

・「開発百年」 百年の歴史の中の開発事業を今日的問題と結びつけ、37年1月9日から20回取り上げた。
・「北海道意外帳」 北海追史上の知られざる話題を37年8月30日から9月27日まで連載。その続編として人物編(38年5月8~25日)、植物編(38年9月10~29日)、人物史(39年6月2~23日)が取り上げられた。
・「北海道百年」 各時代の大きな問題を中心にした通史的なもので、40年8月2日から43年7月28日まで週1回、157回にわたり、3巻の単行本となった。
・「物語り 北海道文学盛衰史」 文学を通じて百年の精神史を顧みようという企画。道内文学関係者10氏の執筆で41年5月16日から10月12日まで95回、単行本となった。
・「どさんこ」 百年がつくり上げた道民像をたずねて、43年元旦から1月20日まで。
・「本道の産業百年の歩みと展望」 産業各分野の足どりをふり返り、今後の課題を提起した。43年1月5日から31日まで。
 
●北海タイムス
・「郷土に光をかかげた人々」 最上徳内に始まって開拓の先駆者たちを週1回、こども向けに紹介。38年9月17日から39年12月22日まで107回。
・「百年の百人」 百年の遺産を継いで現在活躍中の人材100人を全道各界から紹介した。39年12月30日から40年4月23日まで100回。
・「北海道人国記」 奥田二郎氏の筆で百年の人脈を各分野にわたって掘り起こし、42年元旦から12月28日まで実に353回に及んだ。
・「北海道経済の百年」 経済界百年の歩みを42年2月1日から3月25日まで53回。
・「北海追百年の教育」 3代の教育の流れをたどり、43年8月13日から10月8日まで10回。
 
●朝日新聞
・「開かれた“道”いまここに」 先駆者が開拓した道を見直し、43年1月11日から2月23日まで32回。
・「百年の街」道内76市町を築き上げてきた住民の努力の跡を、それぞれのまちの表情にたずねた。43年8月7日から11月26日まで。
 
●毎日新聞
・「明治・開道百年」 41年2月11日から42年4月11日まで「長官の系図」「もえる石」など続編とも141回。
・「開拓秘話一明治百年」 屯田兵物語、移民の流れ、郷土の遺産など、42年11月6日から43年2月8日まで35回。
 
●読売新聞
・「おかあさんの百年史」 3代の母たちが歩んだ道を43年1月4日から5月25日まで79回
・「ここに百年」 記念祝典を前に行啓や記念事業をめぐる話題を43年8月2日から17日まで13回
 
●日本放送協会(NHK)
・「北海道の百年」 テレビで見る百年史。38年4月から周1回13分間(翌年から15分)の番組で、43年10月初めまで68回放送した。       [18]
 
 

 


【引用出典】
[1]北海道百年記念施設建設事務所編『北海道百年事業の記録』1969・北海道・145p
[2]北海道百年記念施設建設事務所編『北海道百年事業の記録』1969・北海道・136p
[3]北海道百年記念施設建設事務所編『北海道百年事業の記録』1969・北海道・105p
[4]北海道百年記念施設建設事務所編『北海道百年事業の記録』1969・北海道・143p
[5]北海道百年記念施設建設事務所編『北海道百年事業の記録』1969・北海道・137p
[6]北海道百年記念施設建設事務所編『北海道百年事業の記録』1969・北海道・150p
[7]北海道百年記念施設建設事務所編『北海道百年事業の記録』1969・北海道・97-98p
[8]北海道百年記念施設建設事務所編『北海道百年事業の記録』1969・北海道・142-143p
[9]北海道百年記念施設建設事務所編『北海道百年事業の記録』1969・北海道・94p
[10]北海道百年記念施設建設事務所編『北海道百年事業の記録』1969・北海道・91-93p
[11]北海道百年記念施設建設事務所編『北海道百年事業の記録』1969・北海道・96p
[12]北海道百年記念施設建設事務所編『北海道百年事業の記録』1969・北海道・91-93p
[13]北海道百年記念施設建設事務所編『北海道百年事業の記録』1969・北海道・105-107p
[14]北海道百年記念施設建設事務所編『北海道百年事業の記録』1969・北海道・117p
[15]北海道百年記念施設建設事務所編『北海道百年事業の記録』1969・北海道・145p
[16]北海道百年記念施設建設事務所編『北海道百年事業の記録』1969・北海道・145p
[17]北海道百年記念施設建設事務所編『北海道百年事業の記録』1969・北海道・117p
[18]北海道百年記念施設建設事務所編『北海道百年事業の記録』1969・北海道・131p
 
【画像出典】
①北海道百年記念施設建設事務所編『北海道百年事業の記録』1969・北海道・144p
②北海道公式サイト  > 北海道の概要 > シンボル http://www.pref.hokkaido.lg.jp/overview/symbol.htm
③北海道公式サイト  > 北海道の概要 > シンボル http://www.pref.hokkaido.lg.jp/overview/symbol.htm
④北海道公式サイト  > 北海道の概要 > シンボル http://www.pref.hokkaido.lg.jp/overview/symbol.htm
⑤北海道百年記念施設建設事務所編『北海道百年事業の記録』1969・北海道・143p
⑥大通公園公式サイト > 公園案内 > フロンティア(西10・11丁目)歴史・文化ゾーン https://odori-park.jp/guide/guide_detail02/
⑦大通公園公式サイト > 公園案内 > フロンティア(西10・11丁目)歴史・文化ゾーン https://odori-park.jp/guide/guide_detail02/
⑧円山公園公式サイト > 円山公園 > 園内図 https://maruyamapark.jp/?page_id=4046
⑨旭川市公園緑地協会 > 主な公園のご案内> 常磐公園 http://www.asahikawa-park.or.jp/park/synthesis/tokiwa.html
⑩札幌彫刻美術館友の会『札幌デジタル彫刻美術館』>街なかの美術館 > 札幌市 > 大通エリア http://www7b.biglobe.ne.jp/~hashi-sculp/Museum/odori/007/007.html
⑪北海道百年記念施設建設事務所編『北海道百年事業の記録』1969・北海道・90p
⑫北海道百年記念施設建設事務所編『北海道百年事業の記録』1969・北海道・143p
⑬北海道百年記念施設建設事務所編『北海道百年事業の記録』1969・北海道・86p
⑭一般財団法人 北海道森林整備公社道民の森管理事務所『道民の森公式サイト』道民の森は? > 神居尻地区 https://www.dominno-mori.org/overview/details/post_2.html
⑮「北海道博物館」収蔵資料

 

 

 
 

札 幌
石 狩
渡 島
檜 山
後 志
空 知
上 川
留 萌
宗 谷
オホーツク
胆 振
日 高
十 勝
釧 路
根 室
全 道

 
 
 
 
 

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