北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

リーダーの条件 澤茂吉
【浦河】赤心社 ③

 

北海道開拓のモデルといわれた赤心社の浦河開拓ですが、滑り出しから順調であったわけではありません。はじめに大きく躓き、事業は崩壊寸前に追い込まれました。このとき、優れたリーダーが抜擢されて事業は前進します。赤心社開拓部長・澤茂吉からは開拓という究極の困難の中でリーダーシップとは何かを教わる想いです。

 

■苦難の第1回移住

赤心社の移住は次のように行われました。
 
明治13(1880)年十月、副社長の加藤清徳が札幌に渡り開拓使を訪ね、候補地として上げられた渡島・胆振・石狩の三カ国を巡回し、浦河に適地を見つけました。明治14(1881)年4月から株主を募集し、六百株に達したので、いよいよ移民募集にのり出し、広島、兵庫二県より召募した移出民50余名を乗せて函館に着き、便船をで浦河に航行しようとします。
 
しかし、当時は航海が不便な上に、東風に強烈なため出帆の機会がなく、函館に滞在すること20余日に及びました。移民はその間の費用に困窮。そこで函館支庁に上願して、官船弘明丸でよってようやく浦河に航海することかできました。しかし、船が小型だったため農具や什器を積んだ船を別に用意しましたが、これが暴風に遭い千島に漂流してしまいました。
 
弘明丸は5月19日に浦河に到着しましたが、道具その他生活用具が届きません。くわえて事前に入植者用の小屋を建設していたはずでしたが、未だでき上がっていなかったのです。
 
そこで老女幼児を浦河に滞在させ、壮年ものを開拓地に送って小屋掛け急ぎましたが、移民の中に公開中に腸チフスにかかるものがあり、これが流行して10数名の患者を出してしました。
 
宣伝文句とは裏腹のこの滑り出しに移民たちは失望し、全く開墾は進みませんでした。7月に鈴木清社長が現地を視察しましたが、開墾地には殆んどの移民が離散し、わずかに役員移民数名と七反歩の新墾の地とを留めるという惨めさで、事業は殆んど廃滅状態でした。
 

■クリスチャンにして教師

鈴木は、直ちに札幌に赴き、不足する農具や生活用具を手当てすると共に、開拓使に要請して農業教師の派遣を要請。もどると離散した移民を召集して励まし、ようやく9月から開墾に着手したが、すでに季節は遅れて作付もできず、結局十八町歩余を開いただけでした。
 
鈴木は諦めることなく二回目の移民団を組織しました。このとき現地指導者の役割の重要性を反省し、開拓地管理人に、兵庫県士族の澤茂吉を登用し、補佐に和久山磐尾を当てます。明治15(1882)年、愛媛、兵庫、広島より80名の移民団を組織し、澤の引率の下、開拓使御用船で浦河に向かいました。
 

澤茂吉①

 
結果として開拓地管理人・澤茂吉のすぐれた指導力によってこの年40町歩を開墾し、播種面積は前年と合わせて50町歩に及びました。
 
澤茂吉は、嘉永6(1853)年に摂津国三田藩士の家に生まれ、藩校造士館で学び、その後慶應義塾で学ぶ。明治7(1874)年に会社組織で製乳業を始めます。明治8(1875)年7月に三田教会の開設時に母親と共に洗礼を受けたクリスチャンでした。明治10(1877)年からは神戸女学院の教師として漢学、数学、習字を教えるほか、日本基督伝道会社の牧師として三田教会で伝道に励んでいました。明治15(1882)年4月に赤心社に入社する。明治16(1883)年に赤心社の副社長になっています。赤心社社長の鈴木清はこうした澤茂吉に白羽の矢を立て、北海道開拓の実務を委ねたのです。
 

■神は愛なり

『浦河町史』は次のように澤の人物伝を紹介しています。読んでみましょう。
 

嘉永六年十一月六日、兵庫県有馬邵三田藩士・澤甚左術門氏の長男として生まれた。
 
明治初年慶応義塾に学んだが、国元に居る母に孝養をつくさねばならず、長男である彼は中途退学を余儀なくされ、奈良県に於て蘭学者の湯川某の下に身を寄せ、牧牛並に製乳を研究した。
 
後、藩主九鬼家の経営する牧牛場を管理していたが、同藩士鈴木清の主唱する赤心社の挙に賛同して、大いに期する所があった。
 
明治十五年四月、赤心社開拓地の第二拓殖部長(開拓事業管理者) となって、全家族を挙げ、愛媛、兵庫、広島三県の士民男女八十余名を率いて、苦闘二十五日の航海をつづけながら浦河に着いた。直ちに、荻伏村元浦川流域に移住を開始。次の如き使命を宣言して経営全般の指導監督にあたった。荻伏村の開基は実にこの時に始まった。
 
一、未開の地を拓ぎて、産を殖す事
一、宗教の自山を重んずる事
一、品性を修養し、人物を陶冶し、一日緩急あらば、北門の鎖鑰(さやく=門を閉じる鍵)たらんことを期す事
 
また、開墾に要する器械等を購入して、これの使川法の指導のため、札幌の勧業育種場に要請して農業技術員を招へいし、専心開墾耕作に努めた。同年十二月、赤心社開拓事務長となり、同十六年四月、副社長に当選した。
 
茂吉の熱誠と監督指導が宜しきを得たので、移民は克く精励し、百町歩を期成するに至った。こうして社業もようやく進んだのであるが、この間における茂吉一家の困難と辛苦は、実に名状すべからざるものがあった。
 
茂吉は、同社の移民達が住みなれた郷土を離れ、親戚知友とも別れを告げて、遠く気候風土の異った北海の寒天地に来て、見渡す限りの茫漠不毛の原野の中の茅屋に依り、雨露を凌ぎながら一意専心開拓の困苦を味う現実に直面したとき、人情として忍ぶべがらざるの感切なるものがあったが、常に移民家族を慰撫𠮟咤し、寛厳よろしきをえたため移民達はその悲境を苦にせず、哀愁をかくして発奮の力をみなぎらした。
 
毎日曜には、一同その業を休み、あるいは農事の講習を行ない、経済、修身、徳義の道を説いて、互に和親協力の情を厚くすることに努めたが、未だその会場にあてる施設もなく、また敦育普及の機関もなかったので明治17(1884)年に至り、応分の寄附を仰いで学校兼教会堂を建設し、官の許可を叫て私立赤心学校を設立した。こうして始めて、移民の子弟の教育教育機関が出来が上がった。
 
日曜毎に集う人々が神に感謝の祈りを捧げて、互に労苦を慰め介う敬虔な姿が、今に目に浮ぶようである。これこそは、明治二十四年浦河小学校荻伏分教場が設けられるまでの荻伏唯一の教育機関であり、これが現在の荻伏小学校の前身である。
 
こうして開拓の事業が漸く進んで、社運も次第に興隆の一途を至ったが、明治十七年の財界変動のあらしは、問拓にいそしむこの村にも押し寄せて、財政の窮迫は遂に事業の経営を不振に招き、殆ど中止の状態に陥らしめた。しかし「神は愛なり」の茂吉の信念は固く、移民もまたこれに屈せず、互いに激励しあって開拓の鍬は休めなかったが、困窮は言語に絶するものがあった。

 
澤茂吉という優れた指導者を得て順調かと思われた赤心社の開拓ですが、突如危機に陥ります。何が起こったのでしょうか?
 
 

 

【引用参照文献】
・『浦河町史』浦河町・1971
①https://www.pref.hokkaido.lg.jp/ss/sum/senjin/sawa_shigekichi/
 

 
 

 
 

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