北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

苦難を超え 現在も営業

【浦河】赤心社 ④

 

明治13年に神戸の実業家·鈴木清により現在の浦河に創業した赤心社は、現地農場長の澤茂吉の手腕により、いくたの危機を乗り越え、現在まで営業を続けています。明治の開拓会社が屋号を変えずに現在も営業を続けているのは希有なことです。
 

現在の赤心社①

 

■松方デフレと赤心社

明治18(1885)年 赤心社の経営は大きく傾きます。『浦河町史』(S47)は、こう言います。
 

創業以来社業も漸次に進み、その緒に就創業以来社業(主として開墾をさす)も漸次に進み、その緒に就いたと確信するに至った。然るに此の年あたりより経済恐慌が深刻化し、日本の産業界は甚だしい萎縮不振に陥った。

 
この年に赤心社を襲ったのは、冷害でも水害でもなく、東京中央から発せられた「松方デフレ」という不況でした。どのようなものか『国史大事典』を引いてみます。
 

明治維新後、政府は殖産興業と秩禄処分のために大量の国債と不換紙幣を発行したが、特に明治10(1877)年の西南戦争の戦費支出をまかなうための紙幣増発が同12―13年に激しいインフレーションをひきおこした。同14年政変で失脚した大隈重信に代わって大蔵卿に就任した松方正義は、紙幣整理(不換紙幣の回収)を強力に進めたが、その結果同17年にかけて激しいデフレが生じ、その過程で大量の農民や士族が没落した。

 
赤心社の社員は関西圏の没落した士族でした。この松方デフレにより多くの社員が赤心社への資本金の払い込みができなくなったのです。
 

特に土地価格の下落によって、株主の中に払込金を怠るものもあり、赤心社の資金は殆んどは半額にみたない状態となったため、創業以来の困難に遭遇しその前途は暗澹たるものがあった。

 

■澤の「奇計妙策」

ここで澤はどうしたのでしょうか?。 『浦河町史』の澤茂吉伝はこう続けます。
 

耕牛馬を屠りて食するの危急存亡の機に瀕してしまった。けれどもこの悲境の前にも茂吉は克くこの苦難に湛えて、奇計妙策をもって危機を脱し、前途に光明を失わしめることはなかった。

 
この「奇計妙策」とは、①社員相互の共済機関として移民達は「永明会」を設立し、毎月多少の金穀を拠出した。②移民の徳育を目的に「徳育会」を組織した。③事業方針を一変し、混同農業の実施計画を立てさせた、とあります。
 
まずは移民同士で「永明会」という共済組合をつくって窮乏に耐えるとともに、畑作一辺倒から牛を入れた有畜農場に営農方法を転換したようです。そして、こうした荒波を乗り越えるためには、メンバーの気持ちが一つに向かうことが必要です。そのための研修組織の場として「徳育会」を組織した、というのです。
 
現代の企業経営に例えれば、資金繰りが厳しくなったので、社員持株会をつくって社員から資金を調達し、それによって新規事業を起こすとともに、自己啓発の社内キャンペーンを始めた、というところでしょうか。
 
そして、赤心社は北海道開拓のモデルでもあったため、これの失敗は影響が大きいと札幌県が支援に入りました。
 

また、この窮状は時の県会も見逃さなかった。明治年18年3月17日、札幌県庁より茂吉に出頭せよとの命令があった。献身的な努力が報いられる時か来た。同社事業の進捗を嘉して、金860円を特に給与された。正に「天に慈雨を得た」感があり、これが社業挽回の一大原動力となり、一回も離散することなく、社業はいよいよ進展していった。

 
公的資金が投入されたことにより赤心社は危機を脱しますが、もちろん、澤らの自助努力を評価してのことでした。町史は書いていまいませんが、この札幌県からの支援こそが澤が工作した「奇計妙策」ではなかったかと思われます。
 

■馬産地日高の基礎を築く

この後、赤心社の事業は順調に推移します。なかでも澤が「本道の気風土が牧馬に最も適することを認め、馬種改良と共に牧馬の業を奨励する方針」を取ったことは、今の馬産地・日高の基礎となりました。
 
赤心社は、「自給自足の主旨により、土産の大豆および麦をもって醤油の醸造をはじめ、優良品を生産して大いに需要者の便を図った」とあり、農業を中心に、酪農・馬産・醸造・商業と事業を広め「率先して荻伏村(後の浦河町)の独立自治経営に尽力」していきます。
 
澤は、荻伏村が独立すると、その総代に選ばれるとともに、この地方の多くの公職に就き、「村有財産の造成、学校、病院、郵便局その他諸般の必要な施設の完備、道路の開削。河川の治水工事 、橋梁の架設等、村百般の公共事業に対し、常に身を挺して東奔西走寧日なき活躍をした」と、この地方の基盤固めに尽力しました。
 
その活躍は、浦河だけにとどまらず日高地域全般におよび、明治41(1908)年には北海道議会議員に推されました。道政でさらなる活躍が期待されましたが、病を得て明治42(1909)年9月、47歳で亡くなります。
 
その功績は永く讃えられ、明治43(1910)年に荻伏村が独立して模範村として内務大臣から表彰されたとき、澤の息子澤亮に銀盃が下賜されました。大正5(1916)年には、馬産に尽力した功労から馬政局から銀杯が授与され、大正7(1918)年の開道50年で道庁庁官から感謝状が贈られました。
 

■農地解放

さて澤亡き後も赤心社は順調に事業を続け、広大な農地と商店、醸造工場を構えるこの地方の一大コングロマリットとなっていました。
 
そして終戦。農地改革で所有地を小作人に開放することが求められたとき、新しい時代の到来を感じて赤心社は開放の道を選びました。このとき赤心社は、商店・農産工場の主軸を移し事業を戦後も続けます。赤心社株式会社として今も営業を続けています。
 
明治10年代に立ち上がった開拓会社が今も屋号を保ち営業を続けているのは希有なことでしょう。
 

 

【引用参照文献】
・『浦河町史』浦河町・1971
①https://www.google.com/maps
 

 
 

 
 

札 幌
石 狩
渡 島
檜 山
後 志
空 知
上 川
留 萌
宗 谷
オホーツク
胆 振
日 高
十 勝
釧 路
根 室
全 道

 
 
 
 
 

 当サイトの情報は北海道開拓史から「気づき」「話題」を提供するものであって、学術的史実を提示するものではありません。情報の正確性及び完全性を保証するものではなく、当サイトの情報により発生したあらゆる損害に関して一切の責任を負いません。また当サイトに掲載する内容の全部又は一部を告知なしに変更する場合があります。