北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

【和寒】世界を席巻した和寒の除虫菊 上

若き坂庄太郎の情熱

 

開拓期の北海道はビジネスチャンスあふれる場所でした。若さと情熱があれば、誰にも成功の扉が開かれていたのです。戦前に殺虫剤の原料として盛んに栽培されていた除虫菊で成功した和寒の創業ベンチャーの物語を『和寒町史』(1985)からお届けします。

 

■日本を席巻した和寒の除虫菊

除虫菊は中央アジア産のキク科の多年草で、花は殺虫効果があることが古くから知られています。日本では蚊取り線香のキンチョーの創業者上山英一郎が明治19年にアメリカから種子を移入し、渦巻き型の蚊取り線香を考案したことで広く知られるようになりました。
 
日本の気候風土に適していたのか、第一次世界大戦から第二次世界大戦の間、大いに栽培されて、一時は世界最大の生産国となりました。北海道はこの除虫菊の主産地となり、脆弱な開拓農家の懐を潤わせました。
 
日本を代表する除虫菊の産地なった北海道でも、上川管内の和寒町が産地として知られ、北海道の除虫菊生産を牽引する存在でした。
 
昭和の初めに全盛期には、すべての丘という丘で白一色に除虫菊が咲き誇り、お坊さんから学校の先生までみんなが除虫菊をつくったと言われます。刈り取り時には東京の大学生がアルバイトのため大挙来村し、道内外から業者が買付けに入りこみ「除虫菊相場は和寒で立つ」とさえ言われました。
 
村の料亭やカフェーは不夜城さながら、脂粉の匂いと矯声が路地を流れ、「除虫菊成金」といわれる人も現われたほどです。そんな和寒除虫菊の原動力となったのは、一人の開拓者でした。
 

除虫菊①

 

■坂庄太郎、除虫菊に入れ込む

除虫菊の粉末が日本に初輸入されたのは明治14(1881)年です。明治19(1886)年にキンチョーの創業者の・上山英一郎の地元お和歌山県で初めて栽培され、広島・岡山地方へと広がって行きました。北海道では、明治25(1892)年に石狩町で栽培したのが最初といわれていています。
 
明治43(1910)年秋、和寒に入植した小畑藤市の郷里の広島県では除虫菊を作っていました。翌44年春、小畑は郷里から持ち帰った2升ほどの種子をまき、苗を仕立てて移植。そして、大正2(1913)年はじめて収穫した乾花3貫目を横浜の長岡商店に売却しました。これが和寒除虫菊の始まりです。
 
長岡商店は、横浜に本店をもつ薬種類の貿易業者で、ハッカ買入れのため旭川地方にまで出張しに来ていました。大正2(1913)年春から紀州から取り寄せた除虫菊の種子をハッカの取引先を通じて配布し、栽培を奨励しました。これに触発されて和寒でも栽培する者が現れ始めます。
 
大正3(1914)年春、 町はずれに若夫婦が引っ越してきました。冷害不況により美瑛村の荒物雑貨の店をたたんで、逃がれるようにやってきた若冠20歳の坂庄太郎夫妻です。
 
坂は郵便局の集配人になって原野を回り回っているうちに、除虫菊に興味を持つようになります。さらに書物で調べて、除虫菊の特徴を知り、除虫菊によるベンチャービジネスの構想を抱くようになりました。
 
坂は、集配人をやめて種子問屋を始めます。「かめや勧農園」と称して苗や種子を売り歩きながら、さかんに除虫菊の有望なことを説き、自分で印刷物まで作って宣伝に努め、栽培をすすめました。
 
しかし、すぐに第1次世界大戦が始まり、亜麻・えん豆・でん粉が高騰を続けていたので、あまりかえり見られなかったのです。
 
この頃の和寒村の主力であった亜麻も高騰し、当時の2大メーカー、日本製麻と帝国製麻の両社は、茎の段階から買い取り競争に明け暮れました。
 

一面に広がる和寒の除虫菊②

 

■和寒除虫菊製粉の創業

この様子を見ていた坂は、帝国製麻の仲買いとなり、大戦中にまたたく間に二千数百円のもうけを得ます。そこで市街の旅人宿を買い、大正7(1918)年春から荒物海産物商を始めましたが、資金を得たことで坂の除虫菊に対する情熱は一層激しく燃え上がるのです。
 
その頃、和寒には福島県の相馬から入植した星市左衛門がいました。相馬団大正3(1914)年から除虫菊を栽培していたパイオニアで、坂とも親しくしていました。
 
やがて第一次世界大戦が終わり、欧州の穀物地帯が生産を回復すると、穀物相場は大暴落。二人はこの機に除虫菊会社を設立して大々的に奨励しようと相談しました。大正7(1918)年5月のことです。
 
さっそく、坂の店舗を創立事務所とし、栽培者本位の会社を作ろうとの意気込みで株式募集に奔走します。この当時和寒には会社など一つもありません。
 
「除虫菊などノミ取り粉の原料にすぎない。将来も売れるかどうか疑問だ。まして、会社を作るなど無謀も甚だしい」との声も多く、二人の呼びかけなかなか届きません。それでも坂は諦めず村内を丹念に回り、除虫菊が重要な輸出作物であり、将来性があることを説き、株主になるようすすめました。
 
血のにじむような努力のかいあって、ようやく大正7(1918)年12月25日、和寒座で創立総会を開くまでにこぎつけました。和寒除虫菊製粉株式会社の誕生です。
 

 


【主要参照文献】
『和寒町史』(1985)
『金鳥創業者山上栄一郎物語』https://www.kincho.co.jp/cm/ueyama_eiichiro_story/index.html
①除虫菊伝来とライオンケミカルの歴史
https://www.lionchemical.jp/fanboard/trivia/855/
②『北海道農業写真帖』北海道農会・1936
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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