【和寒】世界を席巻した和寒の除虫菊 下
北海道から、世界へ
坂庄太郎が立ちあげた和寒除虫菊製粉株式会社は北海道の除虫菊生産をリードします。第一次大戦後に日本は世界の除虫菊生産で大きなシェアを占めましたが、そこには北海道生産拡大が大きく貢献していました。しかし、忍び寄る不吉な影がやがて坂庄太郎を飲み込んでしまうのです。『和寒町史』(1985)からお届けします。
■除虫菊大キャンペーン
坂庄太郎は同郷の有志から資本金を集め和寒除虫菊製粉株式会社を大正8(1919)年に設立すると、和寒駅の東向い側のなだらかな傾斜地10町歩を3200円で買収して除虫菊を植え付けました。さらに村中の除虫菊種子を買収し、苗を育てて大々的な宣伝に乗り出します。
「除虫菊栽培法」というパンフレットを制作し農家に配布して普及を図り、「除虫菊絵はがき」を作成して各方面に配布しました。さらに写真入りの新聞広告を掲載し続けました。広告費だけで年間3000円を超すほどであったといいます。
これらの反響として和寒には多くの視察が訪れました。坂は自ら視察団を案内し、和寒劇場で雄弁を振るう坂の姿が見られました。坂は農家を回って奨励するほか講演会を全道各地で開催しました。やがて富良野・空知地方にも代理店や出張所ができます。
除虫菊はこの後も需要も維持し、高値を保ちました。というのも、世界の除虫菊の主生産地であったオーストリアやユーゴスラビヤが第一次世界大戦の戦火に巻き込まれ、戦後もなかなか回復できないでいたのです。
和寒の除虫菊の種子は全国に売れました。苗は和寒駅から全国へ積み出された。第一次世界大戦後、日本は反動恐慌に襲われますが、除虫菊だけは好況は続きました。
戦後世界の除虫菊生産額は日本が大きなシェアを占めました。なかでも和寒除虫菊製粉が先頭に立った北海道の除虫菊は、すばらしい発展ぶりを見ました。

和寒除虫菊加工場①
右の男性が坂庄太郎か
■躓きは「せんきゅう」
和寒除虫菊製粉の経営は順風満帆のように見えました。しかし、その台所は火の車だったのです。同社は多角化を進め、除虫菊のほか精米業に進出、肥料の貸付けも行いました。
致命的だったのは、除虫菊に続く第2弾として取り組んだ「せんきゅう(川芎)」でした。川芎は婦人病を中心に広く用いられる漢方薬原料です。中国原産で日本には古来に伝来しました。
この種子は非常に高価でしたが、栽培を促進するため大量に買い入れて種農家に貸付けて栽培させました。美瑛村に川芎の乾燥場を建てたりもしています。
この事業に多額借入を起こしましたが、あるときせんきゅうが暴落。運び込まれたせんきゅうの山をみすみす腐らせてしまう事故もあって、会社は大損害を被ります。
もともと長岡商店など本州の業者と先売契約をして、その内金を資金に充当する自転車創業でしたから、たちまち資金難に陥りました。主力の除虫菊は収益を上げていましたが、多額の宣伝費が利益を圧迫していました。
■和寒除虫菊製粉の解散
坂の除虫菊を道は面白くなったようです。道が導入し普及を進めた作物では無かったからでしょう。「除虫菊の需要も輸出も際限のないものではない。近ごろ誇大な広告を以て農民をまどわし、種苗を植えつける者がいるから、農民は慎しまなければならない」というようなコメントがたびたび新聞記事で発表されました。
さらに町村農会などに「すぐにも生産過剰になるだろうから十分に注意すべきである」と指示していました。坂はしばしば道庁を訪れて便宜を図ってもらうように働きかけましたが、道は聞く耳を持ちません。
除虫菊の高騰すると、これを目当てにした商人・仲買人が村に入り込み、坂の和寒除虫菊製粉よりも高く買い付ける者も現れました。坂がまとめた生産者は、入り込んだ商人によって分断され、コントロールを失っていきます。
いちど傾いた屋台骨は容易に立て直せず、ついに会社は破産同様の状態となり、大正13(1924)年秋、坂社長は出張先から行方を絶つという悲惨な結末のうちに会社は解散してしまうのです。
■その後の除虫菊
和寒除虫菊製粉は解散しましたが、除虫菊そのものは好況を持続していたので、作付面積は年々増加し、昭和元(1926)年には村だけで1000町歩を突破しました。そして最盛期の昭和10(1935)年には1500町歩に達しました。
しかし、急激な作付けの拡大は地力を奪い、反収は年々減っていきました。和寒村の藤沢村長は、松本六太郎道議と協力して除虫菊試験場設置を道庁に強く要望します。坂がいなくなったためか、道はこの声に応えて、昭和10(1935)年北海道庁除虫菊試験地を設置しました。
この後、和寒の除虫菊生産は、戦争経済に巻き込まれていきますが、戦後はDDTなど化学薬剤の出現やアフリカ・本州などの増産で、日本の地位は急低下します。
昭和26(1951)年にはまだ1貫3000円という高値を付けていましたが、28年は1貫400円まで下暴落。 次第に作付面積が減り、昭和37(1962)年には北海道和寒原種農場も廃止され、和寒から除虫菊の火は消えました。
大正から昭和にかけて打ち上げ花火のように輝き、消滅した和寒の除虫菊ですが、北辺の農村から世界を視野に入れたビジネスを展開した坂庄太郎のベンチャースピリットは、北海道の開拓者精神として長く記憶されるべきでしょう。
【主要参照文献】
『和寒町史』(1985)
https://www.kincho.co.jp/cm/ueyama_eiichiro_story/index.html
①『北海道農業写真帖』北海道農会・1936