北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

【豊浦】3000人の山梨大移民団 上

明治天皇の聖恩を受けて

 

明治41(1908)年から44年にかけて、山梨県から660戸・3130名もの人々が生まれ故郷を離れ、現在の胆振管内豊浦町に入植しました。これは明治・大正の北海道開拓において最大規模のものであったでしょう。この移住がどのようなものだったのか『豊浦町史』(1972)と『山梨県立博物館 調査・研究報告14』(2020)より振り返ります。

 

山梨県罹災移民入植記念撮影①

 
大移住の発端は、明治40(1907)年と43年に山梨を襲った未曽有の大水害でした。明治40(1907)年8月23日から降りだした雨は25日になって200ミリから700ミリという豪雨となり、大原村(大月市)では最大718ミリを記録しました。
 
平野部では川という川が氾濫し、山間部では土砂崩れが発生。特に北都留· 南都留· 東山梨· 東八代郡といった県東部で被害が激しく、犠牲者233人、破損・流失・浸水家・屋約2万6000戸、山崩れ3000箇所以上、田畑・宅地など平地部の埋没・流失約760町歩に達しました。
 
被害の大きかった県東部は、もともと一人当たりの耕作面積が狭く、多くが養蚕で生計を立てていました。しかし、水害によって養蚕施設が洗い流されてしまい、人々は生計の道を断たれてしまったのです。
 

水害に襲われた甲府の惨状②

 
災害に際して助け合う日本人の美風はこの頃も発揮されました。明治41年の災害に対しては全国から4210円もの義捐金が集まりました。なかでも明治天皇はたいそう心配され、被害の全容が見えた1カ月後の9月27日に、天皇・皇后両陛下の名前で実に5000円もの御救恤を下賜されました。
 

御救恤を伝える官報

 
この恩賜をいただいて山梨県では、明治22(1889)年に奈良県十津川村を襲った大水害により移住事業が行われた事例から、御救恤を原資にした北海道移民事業を立ちあげました。
 
移民事業が決すると山梨県は技師を北海道に派遣し、北見国渚滑(紋別市)・天塩国ピウカ(名寄市)・石狩国富良野および胆振国弁辺(豊浦)などを調査しました。そして「同一地方よりの移住民はなるべく同一部落に住居せしめ、移住によりて感する寂寥を慰む」との方針から、大人数の移民団を一か所に受け入れることのできる場所として胆振国弁辺の約3700町歩が選ばれました。
 
移住に関わる経費は前述したように大水害に向けられた両陛下の御救恤と全国からの義捐金で、不足額は国庫と県費の補助金により賄われましたから、自費入植が原則であった明治40(1907)年代では例外的な国家事業として行われています。移住者には、食糧・家具・農具・種子が支給され上、罹災の程度に応じて甲は12か月、乙は9か月、丙6か月の給付が与えられました(丁は無給)。
 

移民団の状況を伝える「植民公報」(M41・43号)

 
移民団は明治41(1908)年に301戸、42年に106戸、44年に253戸が移住しました。第3回移民団が253戸と増えているのは明治43(1910)年の大水害をうけてのものです。
 
明治40年の苦しみから立ち直ろうとした明治43(1910)年8月、再び大水害が山梨を襲いました。8月10日から数日間、台風により豪雨が続き、荒川流域や北巨摩郡を中心に水害に見舞われました。全県の犠牲者は24人。3年前の大水害よりは少なくなりましたが、それでも人々に絶望を与えるのには十分なものでした。
 
この頃の北海道入植は、行きの旅費こそ無料でしたが、入植後の生活費や営農関わる費用はすべて自弁が原則でしたから、山梨移民団は、他の入植から「大名移民」と呼ばれたそうです。
 
そうであっても、原生林に分け入っての開墾が彼らを待ち受けていたことは他と変わらず、移民団は次の誓約書を交わして不退転の決意を示しました。
 

明治天皇の恩賜を記念して甲府城跡に建つ謝恩被③

 

誓約書
 
明治四十年八月、我郷里山梨県管下、未曽有の大水害を蒙り、田園財宝悉く流亡し、幾千の民衆、住むも家なく、耕すに田なく、業を失ひ、職に離れ、身を親戚故旧に寄せて一家離散するの悲境に陥れり。
 
畏くも、聖上此の惨害を聞召され、特に内帑を割て救恤を垂れ給ひ、更に国庫より金八万円を支出して罹災者の移住費を補助せらるゝ事となれり。明治四十一年四月、我等先つ、此の恩沢に浴して、北海道胆振国虻田郡の一隅に移住し、茲に山梨県民の一新団体を組織す。
 
抑も開墾の事たる、素より容易の業にあらす。思ふに今日以後、幾多の困難と誘惑とは、絶へず我等を囲繞して、我等の初志を破らんとする者あらん。若し労苦を厭ひて、困難に屈し、小利に迷ひて、誘惑に陥らば、啻に開墾の事成らざるのみならず、遂に貸付せられたる土地を失ひ、永く路頭に迷ふの不幸を見るに至るべし。
 
是を以て、我等互に心を一にし誓て困苦に堪へ、誘惑を却け、美風を涵養し、必ず開墾の初志を貫徹し、一は我家の繁栄を図り、一は国家の遺利を収め、以て聖恩の万一に報ひ、奉らざるべからず。
 
乃ち茲に、左の条項を誓約し、必ず相共に違はざらんことを期す。
 
一、如何なる困難に遭遇するも、堅忍不抜の精神と、不屈不撓の勤労とにより、貸付せられたる土地は、必ず自ら開墾を成就し、成墾の後と雖、猥りに之を質入れ書入れ、又は譲り渡すべからず。
 
二、日常の生活は、勤勉を旨とし、朝は必す日出に先ち、業務に従事し、夜は相当の夜業を求め、寸時たりとも、安逸を貪り、無益に時を費さゝ(まま)るべし。
 
三、衣食は、勉めて自ら薄ふし、誓て奢侈に流れざるべし。
 
四、吉凶儀礼に当り、徒らに飲食するの弊風は自今全く之を破り、無益の失費を多からしむべからず。
 
五、一家幸福あらば、共に之れを慶し、一家凶事あらば、互に其の悲みを分つべし、病者あらば、共互に之れを慰め、死者あらば、共同して葬礼を営むべし。
 
六、一家和合し、近親相扶け、邪を悪み、正を愛し、逸を却け、勤を尊び、以て一郷の風教を保持すべし。
 
七、一致共同の美風を作り、礼譲を尚ひ、信義を重んじ、老弱を扶け、暴慢を圧へ、以て秩序の確立を期すべし。
 
八、年々の収益は、濫費を防きて、之を蓄積すると共に、又共有財産の蓄積を図り、凶変救恤の用に供すべし。
 
九、共有財産は、漸次蓄積して、之れか増殖を図り、別に管理方法を設け、確実に保管すべし。
 
明治四十一年五月

 

 


【引用参照文献】
①小畑茂雄【山梨県における明治四十年の大水害被災者の北海道団体移住報告書】「山梨県立博物館 調査・研究報告14」山梨県立博物館2020
②③https://ja.wikipedia.org/wiki/明治40年の大水害
・『植民公報第34号』北海道庁・1908
・『豊浦町史』1972
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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