【豊浦】3000人の山梨大移民団 下
新山梨の試練と困難
明治41年に山梨を襲った未曽有の大洪水。養蚕を生業をした東部の農民は生活の術を失いました。そして新たな希望を北海道に求め、3回にわたって660戸3130人が豊浦を中心に、倶知安、喜茂別に入植しました。北海道開拓史でも最大の入植団の命運はどうなっていったのでしょう?
山梨団体の第1陣は、明治41(1908)年4月13日に301戸1437名が3班に分かれて山梨を出発し、5月4日に弁辺港(豊浦港)に上陸。このとき弁辺周辺住民には動員命令が出て、入植者の荷物運搬に駆り出されたと言います。上陸した移民団は豊浦・京極・倶知安に別れまて入植しました。
第2陣は明治42(1909)年に106戸524名が3月2日に出発し、4日に青森港着。すぐに汽船に乗り換えて3月5日に弁辺に入り、豊浦を割り当たられた者は、その日のうちに豊浦弁辺原野に入りました。
そして明治43(1910)年に山梨全県で24人の犠牲を出す水害に再び見舞われた結果、明治43(1910)年の第3陣は253戸1169人という大人数となりました。4月12日に2班に分かれて出発して喜茂別へ入りました。これら中から豊浦には第1回で93戸、第2回で106世帯の合わせて193戸が入植しました。山梨団体全体660戸3130人の入植地は下図のようになります。

山梨団体の入植地①
通常の団体入植とは異なり、明治天皇の意を受けたいわば国家事業としての入植ですから、入植地に当てられた荘滝別には、あらかじめ5棟の共同小屋が設けられ、1棟に15戸ないし20戸が入り、ここから開墾の進展に応じて各自の貸付地に居小屋を建ていきました。

山梨団体の入植地到着①
現地には臨時事務所が設けられ、山梨県からの県吏、医師、看護婦、道庁からの事務官、技師、属官が詰めました。北海道庁からの出張員は移民に対し、北海道の事情、耕作に関すること、副業に関すること、農業経営法、共同事業、土着の精神養成などについて指導講習を行っています。
入植者には、あらかじめ次の物品が支給されました。原生林に分け入り、生活しながら開墾を進めるために最低限どのようなものが必要だったのかわかります。
【食料】
白米(1俵)・精麦(1俵)・みそ(700匁)・塩(1升)・漬物(1樽)・若布(400匁)・大根切(干400匁)。
【家具】
ござ(大人1人に付1枚、小児2人に付1枚)・鍋(大人3人まで小鍋1個、大人4人以上大鍋1個)・杓子(2個)・柄杓(1個)・桶1組 、バケツ(大小1個)・ランプ(1個)・金たらい(1個) ・金槌(1個)・草履(1人に付1足)・石油(4合)
【農具】
唐鍬(大人4人まで2挺、5人以上3挺)・鎌(大人2人まで1挺、大人3人以上2挺)・鉈(大人4人まで1挺、大人5人以上2挺)・鋸(大人2人まで1挺、大人3人以上2挺)・鐇(大人4人まで1挺、5大以上2挺)・荒砥(1個)・鎌砥(1個)・莚(5枚)・鉄線(10尺)
【種子】
馬鈴薯(大人3人まで2俵、4人以上3俵)、稲黍(5升)・大豆(1升5合)・蒙苔(2斗)・玉蜀黍(2升)・夏大根(1合)・夏蕪青(5勺)・南瓜(2合)・こんにゃく(5勺)
入植者の職業は、農業72戸361人で最大ですが、他に工業9戸42人、商業3戸55人、雑業12戸61人があり、農業者が1名の自作者を除き、みな小作農家で、小作反別は最大1町歩、最少は3畝歩という零細農民でした。雑業者中には煉瓦工、板金工、石工、大工、菓子商、売薬商、小売商、砿夫、車夫、船頭、日雇など多様な人々がいました。
このようにして開墾が始まると、このことを気にかけていた明治天皇は明治41(1908)年7月24日に北条氏康侍従をお差遣になりました。『豊浦町史』はこの模様を次のように紹介しています。
侍従はつぶさに各戸の生活を視察なされる途中、鍋の蓋までとって御覧なされたといい、当時、移民はその聖恩のかたじけなさに一同感泣したと云えている。そしてその場所に記念碑を建てて感謝の意を表した。また、そのとき侍従が記念に揮毫した「大山祗尊」は、現在山梨神社に御神体として祀られている。
侍従のことの詳しい視察は、山梨団について明治天皇が気遣われ、詳しい報告を求めていた現れでしょう。
こうして入植者たちは指定入植地を「新山梨」と「下山梨」と名付けて開拓を開始しました。しかし、入植地はもともと農耕に不向きで開拓が及んでいなかった傾斜地であり、入植者は北海道の寒地農業に不慣れです。
昭和42(1967)年の収穫期まで食糧を得たものは少数でした。入植から一年を過ぎると糧食補給が絶えたあとに生計に困難に陥る者が出てきました。そこで道は、技師対馬雄一の指導もあり、「実行会」を組織し、公休日の設定、集合時間の励行、道路指導標及び氏名標木建設、共同娯楽園、牧草地の設置、風致木の保護など決め事を定め、一致団結して開拓に向き合うよう入植団の組織化を強化しました。

説明を受ける山梨団体①
しかし、入植団に試練が襲います。明治43(1910)年7月に有珠山が噴火し、せっかく拓いた農地が火山灰に埋められるのです。そして明治45年7月30日、山梨団体を支援してきた明治天皇が崩御されます。新山梨は深い悲しみに包まれました。
さらに大正2(1913)年、空前の大凶作に襲われます。『豊浦町史』はこう紹介します。
大正2(1913)年は平年に比し各地共気温著しく低く、降霜も平年より約半箇月早く、9月14日初霜を見、加うるに8月27日、8の両日には暴風雨の襲来あり、之がため甚だしく作物の登熟を害し、遂に未曾有の大凶作を現出するに至った。以上の原因に依って平年に於ては優に60万石の産額ある水稲の如き僅かに石狩、胆振国の一部において3万石を収穫し、辛うじて翌年の種子を得たに過ぎなかった。
この大冷害の影響は、山間地であった新山梨では大きく営農を諦めて山梨に戻るもの、他所に転出ものが跡を絶ちませんでした。この後、戦争を挟んで戦後は高度成長に伴う過疎の波に洗われていきます。令和5(2023)年7月、豊浦町の統計によれば、「山梨」「新山梨」合わせて30戸・73名が暮らしています。

住民の手によって建て替えられた新山梨神社②
【引用参照文献】
①小畑茂雄【山梨県における明治四十年の大水害被災者の北海道団体移住報告書】「山梨県立博物館 調査・研究報告14」山梨県立博物館2020
②豊浦町公式サイト https://www.town.toyoura.hokkaido.jp/toyotopi/detail_sp/243.html
・『植民公報第34号』北海道庁・1908
・『豊浦町史』1972