北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

【沼田】大正12年 幌新ヒグマ事件(下)

人食いクマ、駆除隊を襲撃

 

大正12(1923)年8月22日未明、空知管内沼田町の新幌でお祭り帰りの一行がヒグマに襲われ、3人が亡くなりました。クマは二人をかみ殺した後、一行が避難した民家にも押し入り、逃げ遅れた女性一人を加えたまま山に逃げました。翌日、沼田町始まって以来の大捕獲作戦が行われますが、そこでも……。苫前のヒグマ事件に続く史上二番目のヒグマ惨事の惨事である幌新事件の後半です。

 

 

■勇敢な長江さんもついに帰らず

そうして、ようやく東の空か白みかけ、悪夢のようだった夜が明け始めるとともに、女子供は早々に家路へ帰らせ、男たちはすぐ役場、駐在所へ連絡し、そうして沼田開拓以来未曽有の大がかりなクマ退治の協議が行なわれることとなったのである。
 
一方、当時留萌線の鉄道工事に関係していた管信太郎氏は、10数人の人夫を繰り出してウメさんの死体を捜しに山に入ったが、その日はついに発見することができず、翌早朝この母親の食い荒らされた見るも無残な屍が東側の山際で発見された。
 
この事件を聞いた豊志内(恵比鳥)の長江政人郎さん(56歳) は、幌新の山田さんの猟銃を肩にして朝8時頃、一人でに出かけていったのである。
 
長江さんは身長五尺八才(1.74m)もある、ヤマ狩りに慣れた豪胆な人だった。しかし、午前11時頃、山の中で村田銃の数発の音が山にこだまして聞こえたきり、ついに長江さんは帰ってこなかった。
 

■クマ狩り隊からも犠牲者が出る

24日からは沼田から在郷軍人、消防組、青年団等、その他総勢300余人が幌新に到着、4、50人を1班とした大々的なクマ狩り隊が編制された。
 
当時は鉄砲があっても銃弾がなかったから、旭川の二十六連隊から借用した弾丸を各班に分配、鉄砲組を先頭に一列縦隊となって沢から山へ登っていった。また幌新部落からも60歳未満の男子は一人残らずクマ狩りに出動したのである。
 
さて午前11時頃である。
 
部落民を主体として編制した一隊が、小沢から山上へ藪を分けて登りかけようとしたとき、その部隊の一番最後を歩いていた2人が、突然「ウーン」と言って横倒れになってしまった。一同がびっくりして振り返ると人食いグマあった。
 
クマは真っ赤な囗をあけて形相凄まじく次の人を襲うとしたとき、皆は大声をあげて散りぢりに隊列を解き逃げ出した。
 
その時、現役を除隊し在郷軍人となって間もない鉄砲組の中村さん(幌新) は、すかさず一発目ズドンと発砲した。
 
それが運よく見事に命中し、一瞬よろめいたクマを目がけてさらに宮村さん(沼田市街、この人も除隊間もない在郷軍人)も一発を打ち込み致命傷を与え、続いて鉄砲組の打ちまくる銃弾にはさしもの凶悪無残な人食いクマも地響きをあげてどうと倒れた。
 
しかし、先ほど襲われた2人はいずれも重傷を負ったが、そのうちの一人折笠徳治さんはようやく一命は取り止め、あとの一人上野由松さん(57歳) は全身血だるまの打撲のため間もなく絶命した。
 

沼田町に伝わる人食いクマの毛皮①

 

■90貫の人食いグマ、胄袋の中に人肉

かくてこの数日間にわたり、幌新地区はもちろん、沼田全村を震撼させた人食いグマも、多くの人々の協力によってようやく退治された。
 
しかし一同がクマを取り囲んで集まったとき、申し合わせたように「長江さんはどうなったのだろう」という話が出され、皆が手分けして捜しに行くと、ある沢に入った一隊が無残な長江さんを発見した。
 
その大きな体はきれいに食べられて、左の足首だけがそこに転がっており、猟銃はへし曲げられてその側に投げ捨てられてあった。
 
おそらく長江さんは咄嗟にクマに襲われ、数発は発砲したが、いずれもクマに命中せず、あとはクマと格闘したが、ついに力尽きて食われてしまったものと推定されている。
 
そのクマを林さん宅の前で解剖したところ、胃袋から出た人の骨が大きなザルに一杯になり、また指などは消化されずに原形のままで、その悲惨なありさまに人々は目を覆い、いまさらのようにこの残虐な行為に憤怒し、そして4人の犠牲者のことを思い出して泣かない者はなかった。
 
後日この人食いグマは、なぜ人家近くまで現われて人間を襲い食ったかについて詮議したところによると、事件の4、5日前に馬が崖から落ちて死んだため土中に埋めたが、その臭いをクマが嗅いでそれを食べ、たまたまそれが肉食性の強いクマであったため、運悪くお祭り帰りの一団がそれに出会ったものであろうといわれている。
 
また一説では、よそで飼われていたクマが檻を破って逃げ出し、山また山を越え、幌新の人里に現われたところ、お祭り帰りの一行に出会い、人間を食ったのではないかともいわれている。
 
この凶悪なクマの皮は、長らく幌新小学校に展示されていたが、現在は幌新部落会館に保存されている。
 

  


 
【出典】
沼田町史編纂委員会編『沼田町史』179p~177p(1970)
①百年前新聞https://twitter.com/100nen_/status/1694530211168075962

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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