北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

【岩見沢】岩見沢の士族移住(5)

これは明治天皇様の御思召だ

前回に続いて、若林功『北海道開拓秘録』「岩見澤町の開拓」(1950・月寒学院)、『岩見沢市史』(1963)、『岩見沢百年史』(1985)に掲載された入植者の証言をお届けします。士族移住は、困窮した士族に営農の地を与えましたが、その条件はあまりに苛酷で意欲を失うものも多く決して成功したとは言えなかったようです。この経験が屯田兵制度に活かされ、士族授産は屯田兵に一本化されていきます。それでも北海道開拓の黎明期に原生林に入った彼らの活躍は、間違いなく新生北海道の骨格となっていきました。

 
 

明治23年10月、士族移住者集合写真①

■開墾

周囲の森林の伐採がすすむとようやく空き地が生まれます。ここに作物を植えて営農を目指しますが、士族であった入植者のほとんどははじめての作業でした。このため見本となる模範農家を連れてきましたが、本州とのあまりの境遇の違いに逃げ出します。道庁は営農アドバイザーを配置しましたが、遅々として進まない営農に対して指導は厳しさを増していきました。
 

こんな滑稽なお百姓なので、仕事の能率は上らず、国から連れて来た師範農家も伐木開墾は初めてで一向師範にもならず、道庁は巡回教師を時々派遣指導てくれてもたいした効果もなく、自ら大木を伐り倒し、大枝を梯子で積上げて焼くのだから、林の中は大火事だ。ようやくして大木の幹や大枝で網状になっている間を数坪づ開墾した。
 
開墾の事業も苦しかったが、思いがけなくブヨや虻、蚊に刺され、誰も顔は土左衛門の様に、手足は大根のように膨れ上った。これには男も女も閉口し、後には窮余の思付きで布片を編み、火を付けて腰にぶらさげたが、思ったより効果があった。
 
こんな有様で開墾は意の如くならなかったが、道庁は不馴れの士族農の成功難を虞れ、監督を厳にし勧業課から原直五郎を常置監督させた。この人は極めて真面目な堅い人で、一週間毎に工程表を作らせ、1組に1人づつ置いた総代にこれを各戸から纏めさせ、原は雨が降っても大吹雪でも、泥寧の悪路を冒して木蔭から密に働き振りを覗き見、それから各戸をこっそりと裏口から入って不意打ちに訪ねた。怠けて工程表通りに出来ぬ者、または無届外出したものは罰されるのだ。
 
監督は工程を監督するほか、耕作も命令するので、蕎麦時には「蕎麦播け、蕎麦播け」と大声でふれ歩くので、子供らは何時にかその声音を巧みに真似る様になった。大人達は「そら勧業が来た!」 とお互い相警戒して罰を免れんことに務めた。(開拓秘録)

 

移住者の大部分はかつては両刀を腰にした武士で、開墾課業の辛さは想像に余るものがあった。時刻に応じて割当てられた日課を告げる鐘の音を千万無量に悲壮な思いで暮らした。樺戸町役場には開拓使勧業課の出張所があり、官員様は農耕だけでなく保護うける移住民の行動の一切を取締る昔の目付役のようなもので一般から恐れられていた。片手にはフロックコート、片手にはステッキといういかめしい方でした。(川戸清人)

 

2年目には2戸に対して1頭の耕馬が貸与されたが、これを使用する術を知らぬ始末。当時は今日のごとき馬耕器具はなし、馬車もなしであったから冬になって馬橇を使うだけであった。
 
作物は麦、豆、黍、粟、芋等で、収穫はかなりであったが、売品としては話にならないほどの簾価で、ようやく小遣い取りという位のもの。一方、物価は酒1升8銭、煙草3銭くらいであった。(山本寿松)

 

2、3日目には勧業の役人が見に廻り、農業のやり方を教えて仕事を見て行き、1週間に1回づつ仕事の報告書を出す。雨が降ってもただ休んでは居られない。雨降りはわらじ造りとか、米つきとか、何の仕事をしたかを報告しなければならない。
 
12歳の頃と思うが、我が家にも馬を飼ったが自分はまだ使えず、父も使えずただ飼うだけだったので何の用もできず、両親ももてあまして馬舎の戸をあけて逃した。すると約1里程ある幾春別川の辺に山本という人の飛地があって、その所に開拓に行っていたが、うちの馬を日頃見て知って居り、畑に来たから捕えたと夜中に2人で連れて来て「あなたの馬か」と問うて来た。
 
「一人では夜中熊が恐ろしく連れて歩かれんので、線路工夫の人を頼んで来たからこの人に五十銭だけ払ってくれ」と言われ、自分で逃したとも言われず、50銭損をしたと言っていたが、おりおり私が乗って見たことはあるが、恐ろしくて何とも仕方がない。なぜ馬を飼うたか……それは馬飼金も役場からもろうていたのだから、飼わずには置かれん。士族ばかり277戸が明治17・8年に移住開村したものにて、何れもなれぬ開拓百姓で初めは困ったものであった。(高井右一)

 

■生活

ようやく開墾を終えても生活は厳しいものだった。出身地では。下級武士ではあったが士族として平均以上の格式を保った暮らしをしていた彼らには耐えられないものでした。
 

こうしてともかく開墾は出来たが、楽であるべきはずだった生活は、決して予想通りでなかった。給与米の御倉が東部落の学校と向い合いに建っていて、玄米を給付され、それを手臼で引いて食うのだが、その分量は主食糧分としての量にはもちろん足らず、米5合に麦1升5合を混じても米飯でまだ良い方で、多くは蕎麦団子、薯団子等のが常食だった。
 
冬は馬橇で運搬稼ぎをした。ある冬の夜、いつものとおり一時に起きて米を十里の夕張まで運搬し、二円を稼いで帰途、大吹雪に遭った。帰りに人を乗せれば二円儲かるのだが、多くの人はこれをホマチとして一杯飲むのが慣例だった。しかし豊蔵は酒は飲まなかった。
 
寒さは肌を刺し、骨に徹した。家族は帰りの遅いのを心配してると、遠くから馬の鈴音と嘶声とが聞えたので、主人の這い入るのを待てども待てども来ぬ。不審に思い出てみると、橇の上に半死半生で臥ていたので家内に担ぎ込んで介抱し、恢復はしたが翌日顔面は紫色に腫れ上った大凍傷であった。
 
郷里ではたいして立派ではなくても士族の家に住んでいたが、今の家はというと3間に5間の柾茸ではあるが、全くのバラックで、真に6畳2間と台所とで壁は土ではなく、わずか4分板の1重板壁だから乾くにつれ節穴が出来る。 
 
板の割れ目が出来るので、夜には雪が吹き込み、朝になると布団の上は人の体温で融けてるが、周囲は真白に雪が積ってる。その布団も暖地の煎餅布団でかつ敷布団が一枚と掛布団が一枚だけで丹前もない。そうじて素布団は寒いものだが、その煎餅布団一枚でよくも凌いだものだった。
 
天井はないので尚のこと寒かったが、柾釘の先が数分出てる。それが凍りついた霜で銀色に光ってものすごかった。煙管は唇に凍りついて引張れば皮がはげて血が出る。
 
井戸は凍結しているので、水を汲むには男が棒で氷を打ち割って穴をあけ、縄で鉄瓶を下げて汲むのだ。その水も真赤な鉄気水で、かつて見たこともない汚水だ。炊事洗濯等、水を使う女の身として水の悪いほど辛いことはない。だから多くは川から汲んできた。(開拓秘録)

 

畳はなく、薄縁りに内地で用うる薄布団を敷き、その上へ転び寝という有様。家は荒板一枚張り、節穴もあり、割れ目もあり、もとより天井はなく、内地では不足のない家に育った私共とて、そぞろに家郷が偲ばれていくど父の膝にすがって泣いたことであったろうか。物こそ言わねど両親とても故郷を想って心で泣いたことであったろうと思う。
 
灯火は1合入りの石油を7カ月くらい使用した。しかし大人玄米5合、小人2合5勺、塩味噌料1銭5厘までを給与されたので、まず生活は安定していた。毎日の仕事は空俵を解いて藁沓を作ること、鋸の目立や斧の砥石掛けなどであったが、これらも自然に覚えたことは夢想だにしなかった。
 
なお特記すべきは当時より飲料水に恵まれず、川縁の清水の流出する個所をさがしては汲み取りの競走、また幾春別川水汲取の人々が朝夕列をなし、中にはこれを職業とする者が4・5戸があった。湯屋は馬車で運搬したが、今日の水道使用を想えばまことに隔世の感がある。(山本寿松)

 

■成果

郷里で思い描いていた姿とのあまりの違いは、移住士族たちを意気消沈させます。しかし、入植時の厳しい契約は故郷に帰ることを許しません。入植士族は歯を食いしばって開墾を続けますが、明治26(1893)年、入植10年で満期となり、土地が自己の所有地となると多くは、土地を貸し、自身は士族としての読み書きの力を活かして官吏などサラリーマンに転出していきました。
 

この時代の好況に誘発されて移住者中でも土地を離れる者ますます多く、あるいは雇人に、俸給者に、職工にと職を求めて277戸の先住者が現在は100名内外となった。その原因は祖先以来の農家でない関係から、その労苦に比して業績を挙げられず、経済上転職の止むを得ない事情にあったのだろうと思考される。(山本寿松)

 
しかし、この開墾地を明治天皇の思し召しとして感激し、子々孫々に受け継ぐように伝える者もおりました。
 

こうした実情を察せられたのか、初年の暮に道庁から「夜具でも買え」と1戸に付金10円をと贈られた。美直は「これは明治天皇様の御思召だ。此の有難い御聖旨を永久に忘れず、土地はいかなる事があっても手放してはならぬ。また陛下の御軫念(しんねん=天子の心配されること)遊ばされる北門の堅守を忘れてはならぬ」と感激して、私たちに訓され、目を瞑るまで「陛下の御恩沢を忘れず誠を守り売らぬはもちろん、質入、書入等しては相済まぬぞ」と訓し続けた。この様に陛下の御恩徳に感激して一意専心開墾に従事した者も少くない(開拓秘録)

 
また岩見沢を離れた鳥取士族の中には、早来町(現安平町)に新天地を求めて再移住する動きもありました。明治27(1894)年、岩見澤村移住士族鳥取県人森松太郎ら27戸が早来町瑞穂部落に再移住し、「新鳥取」と呼ぶ理想郷づくりに励みました。
 
このようにして277戸の士族移民は昭和初めまでに115戸が岩見沢を離れましたが、この間、彼らを頼って岩見沢に移住する地縁、血縁も多く、こ移民団が岩見沢の核になっていったことは間違いありません。
 
 

 


【主要参照文献】
『岩見沢市史』1963
『岩見沢百年史』1985
若林功『北海道開拓秘録』月寒学院・1950
①焚火コネクト岩見沢https://www.takibi-connect.jp/town/iwamizawa/project/118
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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