北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

【旭川・比布】 上川盆地の水稲耕作の発達 ⑥

大冷害から北海道の米づくりを救った「温冷床栽培」

 

中山久蔵が生み出した「赤毛」はどのように現代の北海道米につながっていったのかを『比布町史』から学ぶシリーズの最終回です。「赤毛」は上川で改良されて大きく飛躍しますが、昭和初年の連続大冷害が寒地稲作の夢を打ち砕きます。それを救ったのは和寒ではじまった「温冷床栽培」でした。
 

ぴっぷスキー場から眺める比布町の水田①

 

 

■昭和6(1931)年大冷害

大正2(1913)年の破壊的な大冷害によって 上川の稲作は大きな打撃を受けましたが、 大正時代後半から気候が安定し、欧州で始まった第一次世界大戦には雑穀契機にも助けられ、 上川の稲作は大きく進展しました。
 
しかし、昭和に入ると一転して低温傾向が続き、 農家は厳しい経営を強いられます。追い打ちを掛けるように昭和4(1929)年に入ると世界的な金融恐慌の嵐が農村にも及びます。昭和5(1930)年はかつてない豊作となりましたが、かえって農作物の価格低下を招き、稲作農家は「豊作貧乏」の状態に陥りました。
 
こうして迎えた昭和6(1931)年、北海道農業を破滅の淵に追い込んだ昭和初年の連続大凶作、その第一波が上川盆地を襲います『比布町史』(1964)は次のように語ります。
 

窮乏のあとをうけた昭和6(1931)年は、4月から連日のように低温かつ降雨の日が続き、ようやく発芽したばかりの水苗はいちじるしく生育が阻害され、5月には晴天の日が13日、14日の2日間であったほか、月のうち10日間は雨もちの曇天、19日間は降雨のなかに閉じこめられるという状况で経過した。
 
6月もまた同じような天候で推移したが、7月に入ると土用になってから雨まじりの北風が吹き、秋の冷気をおもわせるような日が続いたうえ、8月の24日25日ならびに29日・30日には異常低温が襲来して時ならぬ冷気に出穂開花中の水稲は決定的な打撃をうけた。
 
さらに9月中旬からは毎日のように結霜の危険にさらされ、ついにこ冷気に出穂開花中の水稲は決定的な打撃をうけ、ついにこの年の作况は反当収坦が上川地方平均6斗1升2合(実収高は358,587石)となった。
 
比布村は8斗6升9合という凶作となり、上川地方でも稲作の北限地帯である美深町では一粒の米も稔らないという惨状を呈したのである。[1]

 
比布村では、全国から寄せられた義援金の配付とともに、困窮する農民に対し食料や薪炭の支給が行われ、 救済土木工事の実施、 種苗給付、肥料代の貸付、農具の購入補助、えん麦の食糧化などの対策が行われました。
 

■昭和7(1932)年大冷害

救貧措置によってどうにか冬を越すことができましたが、翌昭和7(1932)年は前年以上の大冷害に襲われるのです。
 

昭和7(1932)年にふたたび前年同様の冷害にうちのめされることになったが、この年は6月末に沿海洲方面から移動した高気圧が、北上してくる低気圧をオホーツク海で押えて本道を低気圧のもとにおき、不連続線は豪雨を誘発して6月16日には28mmの降雨とともに降雹をもたらし、上川全域に被害を与え、さらに8月15日および9月1日には天塩川流域に大洪水の惨禍を招き、低温による般作物の被害を決定的なものとしたのであった。
 
その結果前年の凶作における応急対策で急場をしのいだ農民はさらに窮乏の度を強め、それとともに農村に依存する商工業者も糊口に窮するといういう危機に見舞われた。[2]

 
昭和6(1931)年の大凶作は上川北部地区の被害が甚大で、比布町は比較的被害が軽くすみましたが、昭和7(1932)年の冷害被害は上川南部で大きく、比布村では石高わずか8889石という惨状となりました。
 
村では直ちに「比布村救済対策委員会」を組織し、食料困窮者301戸(1777人)に対して食料を供給するとともに、日本赤十字や恩賜財団厚生会などによる無料巡回診療、乳幼児に対するミルク缶の支給などの対策が取られ、かろうじて大量の餓死だけは防ぐことはできました。
 
昭和8(1933)年は打って変わって好天に恵まれ、豊作となりましたが、米価の大暴落によって豊作貧乏が出現し、農家経済はますます困窮しました。
 

■昭和9(1934)年・10年冷害

そして昭和9(1934)年は雪解けが遅れ、7月に入ってからオホーツク海高気圧が停滞したため、夏になっても温度が上がらず、上川地方の北部では昭和6(1931)年に相当する例外の被害となりました。そして翌昭和10(1935)年──
 

5月に入ってから北西の風と雨をもった低気圧のために連日冷雨となり、6月になると梅雨的な曇天のために日照時がすくなく、8月もまた穿照低温で終始し、夏作物、秋作物ともに冷害の被害をうけ、水稲の実収高は昭和9(1934)年を下まわる凶作となったのである。
 
こうした恐慌と連続凶作による般家経済の悪化は、かつてみない負債の累積となり、困窮農家の子女は1カ年20円から50円の前借によって、子守、女中、作男、女給、酌婦等に身売りする現象もみられたのである。[3]

 
私事になりますが、筆者の母は昭和7(1932)年に石狩に生まれています。母の実家の墓参りの折、母の兄弟がこの頃に幼くして立て続けに亡くなっていることを、若い私は不思議に思っていました。昭和初年の連続大冷害は石狩でも酷く、母の兄弟もはこの冷害の犠牲者だったのでしょう。
 

■温冷床栽培の実証試験

昭和初期の連続冷害が壊滅的な打撃を与えたことは、北海道の稲作に深刻な反省を迫りました。そして改めて注目を集めたのが「温冷床栽培」です。
 
この「温冷床栽培」は大正2(1913)年の大冷害のときに農事試験場で試されました。
 

本道稲作栽培法において、第二の転機といわれる温冷床栽培の普及は、昭和6、7、9、10と続いた凶作あとに大きくとりあげられたものである。
 
この温冷床栽培の試験は大正2(1913)年の大凶作のあと、大正4(1915)年から6年にかけて北海道農事試験場が普通水苗代に対し、被粒水苗代・無蓋苗代・冷床苗代・温床苗代の比較試験を行つたことがある。
 
その結果では温床苗代は27%、冷床苗代は17%の増収を示したが、ただ苗立ちがわるく不揃いとなり、ムレ苗や立枯病の発生が多いうえに、苗仕立と移植に多くの労力が必要であるところから奨励するまでにいたらず、かつ試験も一時中止していたものである。[4]

 
大正2(1913)年の大凶作の後、農事試験場で「温冷床栽培」の実証試験が行われ、増収効果を見せたものの課題も多く、苗床から田に移す手間も嫌われ、大正後半から気候が安定したこともあって忘れらていました。
 

■和寒で蘇った「温冷床栽培」

この「温冷床栽培」を蘇らせたのは、農事試験場の技師ではなく、和寒村の農業者・佐藤徳治でした。
 

昭和5(1930)年になると和寒村の佐藤徳治がそ菜の温床に準じて釀熱物を3寸程度とし、床土は畑の土に砂と灰を混じたものを2寸5分の厚さに入れ、4月23日に走坊主を坪当り5合の割合で播き、本田には7寸5分角の1本植えにしたのが実用化のはじまりとなった。
 
昭和7(1932)年には同じ三和第一農事実行組合の大西、赤塚、伊藤などという人々が共同で温床苗代による育苗を行ったのである。[5]

 
前述したように大正時代まで北海道の米づくりは田んぼに直接種を撒く「直播法」でした。これは収量は落ちるものの労力がかからず、広大な田んぼを用意することのできる北海道に適した方法でした。
 
これに対して佐藤徳治が試した方法は、木枠で囲って寒さを防ぎ、床土に落ち葉や堆肥などを敷いた苗代で種を育ててから田んぼに移す方法です。
 
佐藤徳治の呼びかけで同じ和寒村の仲間が「温冷床栽培」で成果を挙げます。
 

このように和寒村における温冷床苗代の実用化は、木道における温冷床栽培普及の先駆をなしたのであるが、当時全道に約4000町歩の小作地を所有していた北海道拓殖銀行では、稲作の安定を図ることによって小作料の収納を確保し、あるいは小作地晡入の可能性をもたせる目的などから「床苗による稲作法」などというパンフレットを配布して普及につとめており、これもまた本道における温冷床代の普及に大きな影響を与えたということができる。[6]

 
和寒村の農民たちによって始められた「温冷床栽培」は、昭和初年の大冷害を経て北海道の稲作を救う方法として注目を集め、官民の積極的な普及によって戦後大きく花開くのです。
 
麻生前財務相の発言をきかっけに始まった北海道稲作の歴史を探る連載でしたが、北広島の中山久蔵が生み出した「赤毛」は道北の上川で改良され、また度重なる冷害を克服するなかで新たな農法が考案され、現代の姿に近づいていきました。
 
ここで覚えておきたいことは、中山久蔵を初めとして寒地稲作の転換点には必ず地域の業者がいたことです。ややもすると「官」からの「上意下達」で進めらたかのように思われる北海道の寒地農業ですが、農事試験場の技術者と農民の共同作業によって困難が克服されていったことを覚えておきたいものです。
 

 


【引用出典】
[1]『比布町史』745-346p
[2]『比布町史』750-751p
[3]『比布町史』756p
[4][5][6]『比布町史』444-447p
①ぴっぷ町観光情報サイト 
http://pippu-kanko.sakura.ne.jp/05_pippu_midokoro.html#iinagamedai

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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