北海道神社仏閣由来 ④
[帯広][広尾]十勝神社・帯廣神社 (上)
北海道百年記念塔の保存運動に関与し、北海道開拓倶楽部の記事の更新が滞りまして申し訳ありません。新年より少しずつ再開してまいります。北海道尾開拓倶楽部の年始恒例企画は「北海道神社由来」でした。最初に札幌の「北海道神宮「を取り上げ、旭川の「護国神社」、函館の「函館八幡宮」と紹介してきましたので、今年は道東、十勝の「十勝神社」と「帯廣神社」を紹介します。

十勝神社(①)
■道東最初の神社
「十勝」の名を冠する十勝神社は帯広市にはありません。それは広尾町にあります。十勝地方ではもっとも古い神社で、初代松前藩藩主・松前慶広の弟である蠣崎蔵人広林が奉納した円空仏が神社に遺されていることから、創建はすくなくとも広尾が広林の給与地となって運上屋をもうけた寛文(1661−1666)年間より以前であることは確かです。社宝の円空仏には「願主 松前蠣崎蔵人 武田氏源広林 敬白」「寛文六 丙午天六月吉日」とあります。
神社に残る言い伝えによれば、茂寄村字シマウス海岸に神龍に似ている流木が流れ着き、尊拝をあつめて祠を起こしたところ、以来豊漁が続き、以降いよいよ信仰を集めて「十勝大明神」と呼ばれるようになったことが十勝神社の起源とされています。

十勝神社社宝・円空仏(②)
■近藤重蔵の「東蝦新道記」
寛政10(1798)年、北方領土に「大日本恵登呂府」の標柱を立てた近藤重蔵が、広尾と日高地方を結ぶ猿留山道を開き、これが十勝地方開発の端緒となります。重蔵の従者・下野源助は工事の模様を漢文で記録して篆刻した「東蝦新道記」は、道の指定文化財ともなっている同神社の宝物です。
この「東蝦新道記」ですが、長らく行方不明でした。大正10(1921)年に大阪朝日新聞の催しに展示され、行方が明らかになったのです。このことを知った帯広神社の社司加藤辰蔵が問い合わせると、浦河の住民が所有していることが分かりました。交渉するとその人物は「生活が苦しい」といって当時としては大金100円を要求したそうです。宮司加藤辰蔵を中心としてなんとか資金を集め、どうにか社宝を買い戻しました。
「巾一尺三寸四分、長さ三尺六寸の新道記を持ち帰ることは至難な業であった。あわや大波に呑まれようとするところを、辛うじて岩にしがみつき難を逃れるなど、苦心は実を結び、往昔の社宝は再び十勝神社に奉安されることとなった」と広尾町史は伝えています。
文化1(1804)年以降は、厚岸の国泰寺の支配を受け、「観音堂」とも呼ばれたこともあったように仏神混合の社となっていました。明治8(1875)年に神仏分離令により、仏教に関わりのあるものがことごとく取り除かれたことも原因となったのでしょう。これだけの歴史がありながら、明治9(1876)年の新法により「郷社」に指定されました。

近藤重蔵(③)

東蝦新道記(④)
■郷社から県社へ
十勝最初の神社としての誇りは強く、広尾の人々は十勝神社を県社に昇格させる運動を長く続け、昭和15(1940)年の紀元2600年祭の記念事業として本殿と社務所を新築し、県社にふさわしい陣容を整えました。そしてついに昭和20(1945)年5月1日にときの内大臣阿部源基から県社昇格が認可されました。
大本営は本土決戦に向けて昭和19(1944)年7月に「捷号作戦」を立案し、北海道決戦を用意します。十勝地方の海の玄関として広尾には水際陣地の構築が夜に日を継いで進められますが、町民には決死の覚悟が求められました。心の拠り所としての十勝神社の社格を上げることで人心を鼓舞しようとしたのではないかと思われます。
こうして十勝地方で最も早く創建された十勝神社はようやく県社に引き上げられますが、それよりも早く昭和5(1930)年に県社に指定されたのが「帯広神社」です。この神社の創建をただるとやはり十勝の開祖・依田勉三に着きます。(続く)
《参考文献》
『帯広市史』1984・帯広市
『帯広市史・平成15年版』2003・帯広市
『新十勝史』1991・十勝毎日新聞社
① 広尾町観光協会公式サイト https://hiroo-kanko.jp
②④ 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/112507
③ ウイキペディア https://ja.wikipedia.org/wiki/近藤重蔵