北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

北海道神社仏閣由来 ④

[帯広][広尾]十勝神社・帯広神社 (下)

 

十勝神社に代わって十勝の総鎮守となった帯廣神社の創建は明治43(1910)年ですから相当新しい神社です。しかし、その起源を探ると十勝の開祖・依田勉三率いる晩成社に辿り着きますし、その歴史からは北海道遺産ともなったばんえい競馬の発祥も見えます。そして競馬と神社を繫いだ高倉安次郎という男の物語に出会うのです。
 

 

帯廣神社①

 

■晩成社、地神を祭る

キリスト教の印象の強い晩成社ですが、その印象は、幹部の鈴木銃太郎、渡邊勝、勝の妻である渡辺カネが熱心なキリスト教であり、依田勉三自身もスコットランドの宣教師ワッデルの教えを受けたことから来るものでしょう。しかし、依田勉三自身は曹洞宗の宗徒であり、キリスト教徒ではありません。
 

※参考リンク:依田勉三の菩提寺であった帯広市曹洞宗十勝山永祥寺のサイト
https://eishouji.info/2022/08/25/【お寺ヨガ】依田勉三と食事について/

 
明治15(1882)年、依田勉三が組織した北海道開拓会社·晩成社がオベリベリ(帯広市)に入植します。依田勉三が残した『備忘』というメモに「明治19(1886)年7月16日このには明治15(1882)年初めてこの地にたり。この地をトせんとし日を以て記念のため、休業して地神を祭る。家人休み火酒を飲み、栗飯を食す」という記録があります。晩成社自体はキリスト教の団体ではないため、祭事は日本の伝統に則して神式で行われたようです。そしてこの「地神を祭る」が帯廣神社の始原とされています。
 
この地は、現在の帯広市東8条6丁目で、ここには大洪水があったときアイヌの人たちがこの木に丸木舟を繫いで救われたという伝説がある柏の巨木があり、敬われていました。やがて入植者は、この柏の巨木に「天照大神」と書いた紙片を貼って、しめ縄を巡らせてお詣りしていたそうです。
 

依田勉三②

 

■神事から生まれた帯広競馬

依田勉三たちはまさに血の滲む苦労をして帯広を開きますが、やがて開拓もどうにか軌道に乗り、人口も増え、明治27(1894)年9月、柏の木の祭祀の余興として競馬を始めます。はじめは直線コースをただ走らせるだけでしたが、東3条から7条までの国有地を借りて競馬場を整備しました。明治30(1897)年、「帯広共同競馬会」が賞金総額200万円の競馬会を開きます。これが翌年以降も定例化し、地域を挙げた大イベントに成長していきます。
 
一方、依田勉三たちが柏に札を打ち付けた社も、明治33(1900)年頃には簡素ながら社殿や鳥居も整備され、神社のたたずまいを見せるようになりました。この頃から社は正式な認可は受けていないものの「帯廣神社」と呼ばれるようになります。
 
帯広の競馬は年を追う毎に盛んになり、明治40(1907)年、第28回競馬をもって運営が「帯広馬産組合」に引き継がれると、組合は東宮殿下行啓記念事業として約4000円を投じて競馬場を大拡張する計画を打ち出しました。馬場を18間(32m)に広げ、観客スタンドも整備した本格的な競馬場でした。
 
しかし、このために神社の社が妨げになるとして、明治42(1909)年頃に現在地に仮殿を造営して移転となりました。このとき参道の用地は晩成社が所有地を寄進しています。神事として行われてきた競馬だったのに、競馬場建設のために神社を移転させるという本末転倒ですが、開拓時代の十勝で牛馬は神様にも等しい大切なものでした。
 
この競馬場は市街地の中心にあったため、市街地発展の妨げになるとして昭和7(1932)年に約10万坪という高大な用地を与えられて西に移転し、いよいよ盛んに競馬が催されます。現在の「帯広競馬場」です。
 
この競馬が戦後になって北海道遺産にもなっている「ばんえい競馬」になるのですが、ばんば競馬が生まれたのは、戦後24年に競馬の再開が占領軍により許可されたとき、戦争中の徴用でサラブレッドが壊滅状態にあったため、その代替として農耕馬を出走させたことが由来となっています。
 

ばんえい競馬③

 

■帯広・十勝の土台を築いた高倉安次郎

 
一方、移転させられた帯廣神社はどうなっていったでしょうか? 移転地には従前を遙かに上回る立派な社が用意されました。このことを契機として、明治43(1910)年に氏子総代が連名で神社の創立を道庁に届けました。初代の神職には、十勝神社の宮司だった荒井重矩が就きました。これが帯廣神社の正式な創建です。
 
このときに総代には高倉安次郎がいました。この高倉が帯廣神社の事実上の創設者であり、また帯広競馬場の産みの親でもありました。高倉について『帯広信用金庫百年史』(平成29年)はこう述べています。

「帯広信用金庫の前身、帯広信用組合の創業者高倉安次郎は、帯広・十勝の開拓期から発展期にかけて経済的土台を築いた功労者である。十勝の草分けとして安次郎ほど多くの仕事を成し遂げた人物はいない」

晩成社の開拓で知られる十勝・帯広の開拓物語ですが、さまざまな困難の中で道半ばで終わった晩成社の事業を引き継いで、今の十勝・帯広の基盤をつくった人物なのです。
 
高倉は明治6(1873)年に滋賀県甲賀郡土山村の茶商の家に生まれ、関西でお茶関係の商いをしていていましたが、明治20(1887)年に志を立てて北海道に渡り、函館で行商人となりました。持ち前の商才で商売を発展させていきますが、所有する商船が沈没し、廃業に追い込まれます。
 
高倉はいったん郷里に戻り、明治31(1898)年に再起をかけて帯広へ渡りました。ここで商店を開いて開拓移民のための商店を開くのです。このとき、函館時代に交遊した商売仲間が高倉の再起を後押ししたといいます。やがて高倉の商売は帯広を代表する商社『高倉安次郎商店』として全道に名が響くことになります。
 
高倉は、農業開拓を商社の立場から支援する目的で「農産商組合」を設立。明治時代に北海道の農産物を世界に輸出することを構想し、「北海道東部農産物移輸出組合」を設立しました。第一次世界大戦の特需により帯広は空前の雑穀景気に湧きますが、その道筋をつくったのが実に高倉安次郎だったのです。
 

高倉安次郎④

 

■十勝総鎮守へ

明治39(1906)年、高倉は「十勝畜産組合」を設立して牛馬の改良普及に取り組み、馬産王国十勝の礎を築きます。十勝畜産組合は、十勝における畜産振興の呼び水として帯廣神社を移転させてまで大規模な競馬場を造営しました。その一方で、移転後の帯廣神社に対して立派な社殿と境内を与え、正式に神社としての格式を与えたのも高倉安次郎でした。
 
こうして神社としての姿形が整うと、明治43(1910)年9月、高倉はじめとした帯広の人々は道庁庁官に神社創設の願いを出します。これが認められ札幌神社(現北海道神宮)から分霊を授かります。そして明治44(1911)年に無格社ではありましたが、正式に神社として認められ、大正7(1918)年郷社に昇格、昭和5(1930)年に晴れて県社となり、十勝地方の総鎮守となったのです。
 
なお、高倉安次郎の長男は、札幌農学校に学んでそのまま研究の道に入り、昭和43(1968)年の北海道百年記念事業として編纂された「新北海道史」の編集長を務めるなど、北海道史の大家として知られたかの高倉新一郎博士その人です。
 

 

 

 


《参考文献》
 
『帯広市史』1984・帯広市
『帯広市史・平成15年版』2003・帯広市
『新十勝史』1991・十勝毎日新聞社
『帯広信用金庫百年史』2017・帯広信用金庫
①https://ja.wikipedia.org/wiki/帯廣神社
②松崎町公式サイト https://www.town.matsuzaki.shizuoka.jp/docs/2016020300172/
③北海道公式観光サイト https://www.visit-hokkaido.jp/spot/detail_10256.html
④十勝を食糧王国に変えた開拓群像 ─北海道 十勝 34p https://www.mizu.gr.jp/img/kikanshi/no63/mizu63m.pdf

  • [%new:New%][%title%] [%article_date_notime_wa%]

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 当サイトの情報は北海道開拓史から「気づき」「話題」を提供するものであって、学術的史実を提示するものではありません。情報の正確性及び完全性を保証するものではなく、当サイトの情報により発生したあらゆる損害に関して一切の責任を負いません。また当サイトに掲載する内容の全部又は一部を告知なしに変更する場合があります。