北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

[江別] 樺太アイヌの移住(4)

微力をつくして移民と共に勉励仕度誠心に御座候

  

開拓使が樺太アイヌの対雁移住事業に費やした経費は現在のお金で53億円にものぼります。1戸当たりは約5000万円。明治初期、どの和人入植者よりも恵まれた待遇を受けたのが彼らでした。開拓使が定めた保護期間は3年。これが終われば独立自営の道を歩まねばならいのですが、開拓使はさらに保護を延長しました。そして開拓使の廃止。北海道3県時代。樺太アイヌ移民は今度こそ独立しなければなりませんでした。そうしたとき、アイヌは開拓使の担当官上野正に助けを請うのです。

 

■移民保護3年の成果

明治9(1876)年、開拓使は紆余曲折はありましたが、至れり尽くせりの厚遇で樺太アイヌ移民を現在の江別市対雁に迎えました。3年間は、漁業に行いたいという彼らの望みを聞いて、厚田と石狩川河口部に漁場を設け、残った女性たちには製網所をつくって収入の道を与えました。この3年間が樺太アイヌにとって決して不幸な期間ではなく、むしろ幸福な時期だったことは 山辺安之助の回顧録からも伺えます。

対雁製網所新築開業式①


 
この後、樺太アイヌ移民はどうなっていったのか──この移住事業については、さまざま論評があるなかで、予断を入れず、できるだけ真実に近づくためには、やはり当時の資料を読むべきです。
 
次は『石狩町誌 中巻』に掲載された開拓使書記官・調所廣丈が黒田清隆長官に保護期間3年を経た後の保護政策について意見を述べた文書です。一部、漢字を平仮名にしたほかはほぼ原文通りです。
 

『対雁移民授産之儀ニ付伺』
対雁移民の儀は、旧樺太より転住以来、扶助年限内において必ず永世着産の基礎を確立せんため、春秋2季漁業を始め、丁男には農業を授け、婦女には製縄を教へ、あるいは扶助金品を蓄積して融用利殖の方法を設け、あるいは雑穀を分給して米償減額の余剰を貯ひ、誘導撫育いたらざるなく、ゆえに挙村安全、今日の生活を得たるも、扶助は本年6月にして期限すでに満ち、漁業資本貸与の特典も今春の鯡漁季に止まり、事後は全く独立自衛の民たるべきはずに候。
 
しかれども、固陋無智の土人、遠く人里を離れ風土人情に慣れず、かつ漁労の外、他の業務を営むを知らず。その蓄積する所の現金母子を合して11万3000余円(53億8095万2381円)の巨額にいたるといえども、これを挙村の経済に見るとき、はわずかに3年の糊口を支へ得るに過ぎず。加ふるに漁場貸金の金額も不幸にして連年薄漁、当初予算の還納を了する能はず。
 
着手の初年、すなわち明治8(1875)年ないし11年、歳尾の損金を比較するに、通計1万4919円11銭4厘の負債を生じ、漁場ならび漁具現在の物品を代価に精算するも、なお8698円9銭3厘(7億1042万8571円)の損失にして、ほとんど填償の途なきに苦しむ。[1]

 
調所の報告によると、3年間の移民事業に費やした費用は53億円もの巨費でした。移住民108戸の1戸当たりでは4982万3633円となります。しかし、これだけの費用を投じながらも、移住者の生活をようやく支えるだけに留まった言っています。漁業事業としては7億円もの損出を見ました。やはり樺太で狩猟採集の生活を送っていた彼らに急に近代的な農業・漁業の経営を求めるのは酷だったのです。
 

そもそも移民授産の計画たるやもっぱら農事にありて、漁業はその資本に供するの目的に外ならず。ゆえに今後もこの方針を拡張してさらに事業の改良をはかり、漁場のごときとうてい損失の價はざるはこれを止め、その利益ある箇所を保存し、製網には当地所産の麻および当別移民収穫の麻を需要し、婦女子をしてその業に就かしめ、在村の丁男には主として農業を授け、学齢兄童には務めて教育を施し、老幼もしくは抑々、事にしたがうこと能はざるものの他は擧村、空手徒食の輩なく、勧懲、督視、成績を責め、その積金1万3000余円(4億1423万8095円)は一層利殖の法を維持し、教育処費および老幼・力役に堪えざるものにはその利金を分かちてこれを扶育し、漸次経年入学男女の成長を待てば、今より数年の後、始めて独立自営の良民に化し、授産保育の効果顕著なるべく存侯處。[2]

 

 

厚田村樺太アイヌ漁業の図②

この樺太アイヌ移住計画は、道内のアイヌをこれまでの狩猟採集生活から農業へと就かせるモデルとするものでした。彼らの得意とする漁業で得た利益を農業に還元して営農を確立するというのがこの事業のねらいであったようです。そこで調所は、保護期間三年終了後は、農業の振興をよりいっそう力を入れ、教育を強化する方針を提案しています。
 

いかんせん目下糊口の策、漁業資金還納の途すでに前述陳するとおり、ほとんど目途なきゆえ、ついては漁業負債1万4919円(6億1904万7619円)のうち、漁具その他在物品精算対価を除き、全く損失に係る金8698円9銭3厘(4億1423万8095円)はこの際別途交付あいなり、移民へ下賜せられ、漁場ならび漁具等残品はみな官に返納せしめ、さらに今秋鮭漁より向う3カ年間、従前の手続きをもって資本は無利息にて毎季漁獲より返納し、漁具の修繕は自費弁済せしめ候えば、農漁製網の緒を得、安堵就産の基礎必ず固定し、永世独立の方法これより確立候儀と存候。[3]

 
このため、6億円の漁業負債については、実費として支出した経費を除いた4億円をアイヌ移民への贈与として相殺し、残りについては向こう3年間、無利子で返済する案を提案しています。事実上、保護期間が3年延長になったのです。
 

■さらに手厚い農業授産

このようにして樺太アイヌ移民に対する保護はさらに3年延長されることになりました。漁業は明治13年には8020円96銭(3億8195万円)の利益を見るいたりましたが、石狩川の氾濫で漁具が流されるなどの不幸も重なり、3カ年で5858円41銭(2億7895万2381)の負債を計上するにいたりました。漁業は、開拓使の事業として赤字に陥ったとは言え、樺太アイヌ移民の授産としては軌道に乗った事業と言えます。
 
一方、調所が強化しなければならないとした農業ですが、当初3カ年の保護期間を上回る大幅な保護政策が採られました。
 
翌11年度からは試験場をさらに拡張し、従来の詰所附近の既耕地1町5畝をふくむ7000坪の畑地のほかにさらに4町8段歩の既墾地を持つ畑地2万坪を購入し、約870円(4142万8571)の予算をもって20人のアイヌをして農耕に従事させ、さらに延310人の出面アイヌを使って3町1反余の新墾地を加え、農具・種子を本庁から払下げしてもらい、収稜物は麻は製網の原料とし、その他はアイヌに撫育米のかわりに売り渡す計画をたてた。[4]
 
しかし、明治12(1879)年、扶助期間が終了するので、その対策として、各戸の勧業がいっそう重要な問題になって来た。そこで、勧業課では農業奨励法を設け、各戸に積立金をもって唐鍬2挺、鍬・鎌・山刀・中砥各1挺を与え、開墾は3期に分け、すなわち荒起しがすむと1円(4万7619円)、播種が済むと1円、土かけ除草がすむと2円(9万5238円)、すなわち新墾1段歩につき4円(19万476円)を与えることにし、年度内に2戸平均1段歩、全村で10町8段歩を作り、各戸に大豆3畝、馬鈴署3畝、玉蜀黍2畝、煙草1畝、雑菜(瓜類、大角豆、大根、蕪)1畝を耕作させることにした。
 
しかし労力が前にのべたとおりの状態だったので、とうてい予期した成果を見ることが出来ず、すすめにしたがって農業をした者が約40戸、その段別は総計1町8反9畝、は1段以下で、中には3坪というものすら少なくなかった。作物は大根、馬鈴署等、比較的作りやすく、収量の多いものが滋ばれた。この年5畝以上開墾したもの11戸に奨励金が与えられた。
 
11月、この年石狩川の大氾濫で漁網を失い、大被害を被ったため、移民の動揺がはなはだしかったので、係は移民各自に耕宅地の割譲を出願した。
 
すなわち、勧業課詰所のある豊平川左岸の地を中心に、石狩川左岸を走る札幌・江別間の道路にそって、東はモショッケショマナイから豊平川にかけて、西は雁来街道沿に1戸500坪ないし1000坪が区画された。ほぼ中央に100間4方の学校敷地をとり、両端に墓地をとった。ただし、いずれも、勧業課附属地として管轄がえになったもので、移民に所有権が認められたのではなかった。[5]
 
樺太アイヌ移民に農業に関心を持ってもらうように、土地や農具、種などを無償で提供するほか、農作業一つひとつこなすごとに開拓使は補助金を大盤振る舞いしました。しかし、漁労採集の民であった樺太アイヌはそれでも農業に振り向かなかったようです。
 
開拓使がもっとも力を入れた農業についていうと、対雁に農耕地49179坪が各戸割に当てがわれ、あるいは、移民世話所兼農事指導所の近くに7752坪の試作地が設けられ、農具が準備され、農業指導に専門家が招かれたが、健康な成年男子はもっばら漁労に出向く方を好み、農事に馴染まず、結局、農業は老人や婦人たちによってなされる副菜的なものにしかならなかった。[5]
 

■上野正、アイヌ移民のため「対雁移民共救組合」を立ち上げる

明治14(1881)年、開拓使10カ年計画の終了とともに開拓使は廃止され、北海道には函館県、札幌圏、根室県が置かれることになりました。これに伴い、樺太アイヌへの保護政策も廃止となり、これまでの6年間、官の手厚い保護政策を受けていた彼らは名実ともに独立自営を迫られたのです。

 

上野 正③

この時、樺太アイヌは開拓使の担当者としてアイヌと共にあった上野正に助けを求めます。そして上野は新設される札幌県で約束されていた地位をなげうって、樺太アイヌ支援のために「対雁移民共救組合」を結成するのです。
 
この樺太アイヌ移民事業は「樺太アイヌ強制移住」として明治期のアイヌ迫害の代表例として語られてきました。しかし、それは開拓使が尽くした保護策をまったく無視したところに成り立っています。ネガティブだけを摘まみ食いして語られた歴史です。なかでも上野正のことはまったくといいほど語れていません。上野がどんな思いで、官を辞めてまで樺太アイヌの支援に乗り出したのか、『石狩町誌』にある上野の「辞表」を紹介します。
 

『辞職願』
(わたくし上野)正・明治5(1872)年3月、開拓使へ出仕、本年2月廃使につき、さらに本県への拝任引き継ぎあたうるところ候ところ、旧開拓使において年来特別の御保護あいなり候対雁移民の儀は、今般御保護破廃、まったく独立の姿にあいなり候につき、将来の維持方法は組合を設け、営業の積もりにこれ候。
 
しかるに(わたくし上野)正、明治9(1876)年以来、対雁村に在勤せし縁故あるをもって、切にその民より総理を委託せられ、加ふうるに当春在京中、黒田開拓長官殿より、対雁移民、今時独立いたすべく楊合に相のぞみ候えども、いまだ一般人民と共に並立産業を営むあたあず。
 
これまで特別の保護もし水泡に帰し候さまにてはあい済まずにつき、今後その民、就学生徒は通常の学科を教え、他人に頼らず、業務を主とするまでは、ことさらに世話いたすべし旨の御内諭の次第もこれあり。
 
爾来、肺腑に銘じ、須叟(しゅうゆ=少しの間)も忘れず、かつこの際、維持の方法を確定せざれば、第一営業上の関係もすくなからず、安危の岐路にあり候については、(わたくし上野)正・不肖これよりその任にあらずといえども、前伸やむなき場合につき、微力をつくして移民と共に勉励仕度誠心に御座候あいだ、彼この情状量察、当分の御繁務の際、恐縮のいたりに存じ候といえども、本官ご放免下し、相願い候なり。[6]

 
今、ここでアイヌ保護事業を止めてしまえば、これまでの努力が水泡に帰してしまう。そのことを肝に銘じ、片時も忘れず、移民とともに勉励に努める──こう宣言して上野正は、アイヌ移民と共に歩む道を選びました。
 
明治の樺太アイヌ移住事業は結果的には不幸な結末になりましたが、上野正のような存在を無視して、アイヌが受けた受難だけを強調することがはたして「共生社会」を築く歴史と言えるのでしょうか?
 

 


【引用参照出典】
[1]『石狩町史 中巻』1985・48-49p
[2] 同上
[3] 同上
[4]『江別市史 上巻』江別市・210-211p
[5]同上210-211p
[6]『石狩町史 中巻』1985・55p
①『対雁の碑─樺太アイヌ強制移住の歴史』1992・樺太アイヌ史研究会・北海道出版企画センター・146p
②同上149p
③同上161p
 

 
 

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