北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

[江別] 樺太アイヌの移住(5)

樺太アイヌ移民300人の命を奪ったのは誰か?

 

「1875(明治8)年、明治政府はロシアとの間で樺太・千島交換条約を締び、樺太や千島に住んでいたアイヌの人たちを強制的に北海道や色丹島に移住させた。移り住んだ人たちは急な生活の変化や病気の流行などに苦しみ、多くの人が亡くなった」。全道の中学校に配られている副読本『アイヌ民族:歴史と文化』の一節です。
 
今日、「樺太アイヌ強制移住」は明治政府によるアイヌ同化政策の最大の悲劇として語られています。それは、伝染病で300人ものアイヌ移民が命を落としたことから来るものです。強制移住がなければアイヌは命を落とさなかった──。それは本当のことでしょうか? この歴史に対して別な方向からライトを照らしてみたいと思います。
 

■順調な滑り出しを見せた移民共救組合

明治15(1882)年2月、開拓使廃止により、樺太アイヌ移民はそれまでの手厚い保護を失うことになりました。そこで開拓使の担当官だった上野正は管理を辞めて「対雁移民共救組合」を設立しました。この組合は定款の一条に
 

第一条 対雁移民組合を設くる所以の木旨は、移民750余人同心協力専ら農魚の事業を営み、自主就産の目的を謀るにあり。[1]

 
とあるように、開拓使の事業を受け継ぎ、樺太アイヌ移民の授産を目的としたものでした。
 
対雁においては1カ統18人づつの漁夫をもって、長さ140間・幅1丈5尺の網を使い、9月中旬から12月8日までを漁期とし、明治15(1882)年は欠損を見ているが、漁漁場でそれでも310束4尾(6204尾)、筋子62束の漁獲をあげ、約1280円(6095万円)の収入を見ている。[2]
 
と順調な滑り出しを見せたようです。しかし、明治19(1886)年から20年にかけて突如、病魔が部落を襲います。
 

 

上野正と樺太アイヌ移民①

 

■疫病の流行で300余人の病死

『石狩町誌』は次のように書いています。
 
明治19(1886)年にコレラの猛威に見舞われ、さらに同年と20年に痘瘡に犯されて次々と倒れ、この2年ほどの間に約300人近くをも失うに至った。また、その惨状について、喜多章明はその著『北海道アイヌ保護政策史』(1934年刊)において次のように述べている。すなわち、
 

「もとより対雁部落以外に1人の知己故旧を持たぬ彼等として、逃げたとて身を寄せるべき処もなかった。―進退極まった彼等は、石狩川口に出で舟によって、旧郷樺太を指して逃げようと考えた。一同の足は期せずして石狩海岸へさして飛んだ。置き捨てられたものは夢中になって後を迫ふたが、病患に堪えかねて途中でバタリバタリ斃れていった。海路逃げようとて舟の設備のある筈はない。石狩川口まで逃げてはきたものの、いずれもここに停った。かくて病死する者、実に400余名に達し、移住土人の大半は対雁原野の露と消えた。嗚呼悲惨の極」

 
と [3]

 

樺太移住殉難者墓前追悼法要②

この記述から対雁移住事業は、明治開拓期アイヌ迫害の代表事例として、北海道の副読本はじめ、明治期のアイヌの歴史には必ず登場する事件となっています。そして現在では「樺太移住殉難者墓前祭」というかたちで殉難者の追悼が行われています。
 
とはいえ、この喜多章明の文章は戦前特有の講談調で少々オーバーに描写しているようです。事実、病死者も300人から400人へと嵩上げされています。
 

■近代医学を信用しなかったアイヌ

一方、対雁の地元『江別市史』はこう述べています。
 
しかし、この樺太アイヌ移民の漁業も、その後明治18(1885)年まで続けられたが、コレラに犯される者が続出、当時予防、消毒、治療ともにいまだ幼稚であった上に、衛生知識のない彼等はこの流行をもっぱら魔神の所為と考え、呪詛、禁厭をもってこれを防ごうとし、患者があっても隠す者が多かったため、防疫上にも困難を来し、死者相つぎついに300有余名に達する悲惨事を呈した。[4]
 
『江別市史』を素直に読むと、樺太アイヌ移民は近代医学を信用せず、原始的な方法に頼ったために病気を広げたように思われます。
 
明治9(1876)年、対雁に樺太アイヌが移住したとき、開拓使は彼らのために医師を常駐させていました。「隠す者が多かったため、防疫上にも困難」という文言は、昨今の新型コロナでも同様のことがありましたが、救済の差し伸べたいが協力を得られない医療関係者のもどかしさが表れているように感じれます。
 

■樺太に残ったアイヌの運命は

一方、アイヌの衛生観念がどうであろうと、樺太アイヌの強制移住(樺太から北海道に渡ったのは彼らの自由意志で強制ではないのですが)がなければ、アイヌは伝染病にかからなかった。よってこの病死は開拓史の同化政策によるものである、と主張することもできるでしょう。
 
 

 

『サハリンの歴史』③

次に紹介するのはM・S・ヴィソーコフ他『サハリンの歴史』(2000・北海道撮影社)からの引用で、「第6章 19世紀後半から20世紀初頭におけるサハリンとクリル諸島』15節の「ロシアの構成員としてのサハリンの諸民族』です。
 
サハリンのロシアヘの併合と、ロシア人による島の開発の開始とが、先住民(アイヌ、ニヴフ、オロッコ)たちの生活に、炊的な変化をもたらした何よりもまず、早くも1880年代の初めに、サハリンの先住諸民族は、自身の故郷において少数民族に転じてしまう。1897年には、島の総人口に占める彼らの比率は、15パーセントを下回ってしまったのである。
 
植民地化によって、アイヌ、ニヴフ、オロッコの伝統的な生活様式に強烈な打撃が加えられた。それは、何100年にもわたって、サハリンの先住民たちが適応してきた自然環境の急激な破壊をもたらした。ロシア人と日本人がこの地に出現すると同時に、島の天然資源の露骨な収奪が始まっている。
 
サハリンに渡ってきた商人たちは、正真正銘の略奪者さながらに振る舞った。この点について、ロシア人研究者イ・エス・ポリャコーフは、次のように書いている。
 

「商人たちは、島を襲撃する際、互いに相手(商売敵〕に先んじようとした。つまり、ありとあらゆる商人が、いの一番に原住民の居住地に行き着き、秋冬の獣猟の獲物を集め、甘い汁を吸おうと望んでいた。
 
その際、最も重要な役割を演じたのはウォッカであった。これを用いて酔い潰し、馳走を振る舞い、しかる後に、原住民の手元から、狩りの最良の獲物を根こそぎ奪う目的であった。その上相当な量のクロテンの毛皮と引き換えに、つまり翌年の猟の獲物を担保に、使い物にもならない商品を貸し付けた……。
 
原住民たちには、商人に対する莫大な負債が累積したが、島の住民に特有の誠実さから、父の負債はその子が背負い込んだ。支払に陥った債務者は、しばしば商人から商人へと転売された」

 
酒に耽溺させることや見え透いた欺瞞を手管とする不等価交換、ロシア人および日本人企業家による狩り場・漁楊の大部分の強奪、露骨な暴利と取り立ての結果、アイヌ、ニヴフ、オロッコたちは、急激に貧困化し、またしばしば飢餓に陥った。
 
貧困と飢餓とは、サハリンの先住民たちが不衛生な環境に暮らしていたことと相まって、伝染病の流行に恰好の土壌を提供した。とりわけ心に痛むのは、天然痘の流行が、一再ならずサハリンの先住民の諸村洛を荒廃に至らしめたことであった。[5]
 
これが、樺太アイヌ移民が北海道に渡った以降の樺太に残ったアイヌの実情です。特に最後の段では、天然痘の流行が先住民の村を荒廃させたと述べています。アイヌの伝統的な医療への認識、呪詛に頼った防病策では、樺太に留まっていても「対雁の悲劇」は免れなかったようです。
 
 

■ロシア商人に拷問され、処刑された樺太先住民

この章を書いた国立サハリン大学のミハイル・スタニスラヴィオヴィチ・ヴィソーコフは、日本人とロシア人を並列して述べていますが、すくなくとも日本人の樺太アイヌ移民に対する厚遇は先に紹介した通りです。原文はロシア国内向けなので、ロシア人だけが悪者ではないと言いたいのでしょう。
 
「商人から商人へと転売された」というのは先住民が奴隷として売買されたということであり、私たちの祖先は決してそのようなことはしていません。さらにこの章の最後に「資料」として引用された下記一文は戦慄すべきものがあります。
 

【資料】
ア・ペ・チェーホフの著作『サハリン島』より
いつものように洒に酔わせたり、一杯食わせる等々のほかに、異民族に対する搾取というものは、時として一種独特の形で現われるのである。例えば、…ニコラエフスクの商人イヴァーノフは、毎夏サハリンヘ渡り、そこでギリヤーク人から貢税を取りてる一方、滞納する者を拷問にかけ縛り首に処したのである。[6]

 
政府や府県という公権力でも無い一商人が先住民に対して税を課し、あまつさえ滞納者を拷問、処刑していたのです。
 
ちなみに文中のギリヤークは、ウブフとも呼ばれる樺太の少数先住民族で、実は北海道にもギリヤークの血筋を引く人たちが今も暮らしています。現在のアイヌ復興政策のなかでは忘れ去られていますが……。
 
さて、この一文から伺えるのは、ニュージーランドやオーストラリア、米国で先住民迫害の限りを尽くしたアングロサクソンと同じロシア人の残忍さです。ここではギリヤークが取り上げられていますが、アイヌだけが違ったとは言えますまい。
 
後年、サハリンに戻った樺太アイヌ移民は、日露戦争時に日本側について密偵や物資輸送で活躍しますが、こうしたロシア人に対する恨みがその背景でしょう。この移住事業を非難する人はイヴァーノフと上野正を比較してから語ってほしい。
 
確かに明治19(1886)年20年の対雁の疫病は惨たらしい状況を生み出しましたが、ここまで見たとき、悲劇の責任をわれらの父祖に負わせ、北海道開拓を否定して良いものでしょうか? 
 
 

 
 


【引用参照出典】
[1]『江別市史 下巻』江別市・299p
[2]同上300p
[3]『石狩町史 中巻』1985・56-57p
[4]『江別市史 下巻』江別市・301p
[5]ミハイル・スラニスラヴォィチ・ヴィソーコフ他『サハリンの歴史ーサハリンとクリル諸島の先史から現代まで』2000・北海道撮影社112-113P
[6]同上・113P
①『対雁の碑─樺太アイヌ強制移住の歴史』1992・樺太アイヌ史研究会・北海道出版企画センター・170p
②浄土真宗本願寺派・廣間山真願寺公式サイト http://www.singanji.com/archives/7745.html/dsc00143
③ミハイル・スラニスラヴォィチ・ヴィソーコフ他『サハリンの歴史ーサハリンとクリル諸島の先史から現代まで』2000・北海道撮影社 表紙

 
 

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