北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

[江別]樺太アイヌの移住(6)

 ネガティブだけを抽出する歴史観から
共生社会は生まれない

 

明治開拓期におけるアイヌ民族受難の代表的事件として語られる「樺太アイヌ強制移民事件」を検証するシリーズの最終回です。明治19年と20年と連続して発生した疫病で多くのアイヌ移民が命を落としました。その後、アイヌ移民はどうなったのでしょうか? 道はどのように対応したのでしょうか?
 
6回にわたったシリーズのまとめとして、ネガティブだけを抽出して一つの真実であるかのように見せる歴史観から、それぞれの民族の歴史や文化を相互に尊重する多文化主義・共生社会は生まれない──と主張します。

 

■順調に推移した共救組合

対雁樺太アイヌ移民事業を「強制移住事件」として取り上げた本の多くは、明治19(1886)年から20年の伝染病の蔓延で多くの死者が出たことで、アイヌに帰郷願望を高まり、日露戦争後南樺太が日本領となると、樺太アイヌ移民はほとんどが帰郷し、共救組合は瓦解したとしています。
 
しかし、実際には、上野正を組合長とする対雁移住共救組合は上野が組合長を辞する明治30(1897)年頃まで10年以上に渡って経営が続けられていました。次は、『石狩町誌』掲載の「対雁移民組合年度別収支決算表」で、明治15(1882)年から25年までの収入と支出が記録されています。
 

 
町史などでこうした表を見るとつい読み飛ばしてしまいますが、これも『直段史年表』(朝日新聞社)による「日雇労働者の賃金」で現代の貨幣価値に置き換えてみましょう。なお『直段史年表』は明治15(1882)年は日給22銭、16年は19銭、18年は16銭、25年は18銭としていますので、それに準じています。
 
明治15(1882)年から25年の10年間に現代換算で総額145億0639万5471円の収入があり、支出の126億7587万0377円の支出を引くと、18億8452万5095円の差し引き、すなわち営業利益があったことがわかります。1年あたり1億9千万です。
 
不思議なのは伝染病があったとされる明治19(1886)年と20年に収益の影響が見られないことです。明治9(1876)年対雁に移住した樺太アイヌは108戸・841人ですが、このうち300数十人が命を落としたとしたならば、明治20(1887)年・21年は漁業どころではなかったはずです。
 
しかし、組合の売上推移を見ると、そのような疫病など無かったかのようです。どの書もこの疑問には答えてくれませんが、ここで組合を倒してしまえば疫病からアイヌ移民が立ち直るすべを失います。組合長上野正の非常な努力があったのでしょう。
 

■移住事業を破綻させた不漁と洪水

現代換算で1億3863万円の赤字を出した明治16(1883)年を除くと、最も少ないときで4515万円、多いときで5億2298万円の売上をあげていた共救組合ですが、明治25(1892)年に6377万円の赤字に陥ります。この年から石狩前浜は長期的な不漁に陥ってしまうのです。『石狩町誌』はこう書きます。
 
表のごとく、前半期については必ずしも悪い成績ではなかったが、明治25(1892)年以降漁業が不振となっため、結局1万7000千円(6億5384万円)の負債を担ってしまった。さらに明治34(1901)年には、負債が3万2000円(8億6486万円)余りにもなり、ここに到って組合は、石狩鮭淮場1カ所と厚田の鰊漁楊を売却してその負債を支払い、翌年その他の漁場と宅地を北海道庁長官の管理に任せることになった。[1]
 
対雁移民共救組合では明治30(1897)年に組合長の上野正が経営不振の責任を取って辞任、組合員のみの経営となりました。追い打ちをけけるように明治31(1898)年に石狩川の大洪水があり、生産財である漁網が流されてしまいました。こうしたなかで、樺太移民の中には墓参りと称して樺太に帰郷するものが続出し、組合は事実上解散同然の状態に陥りました。
 
樺太アイヌ移民による共同事業組合が立ち行かなくなったのは、伝染病が原因ではなく、前浜の不漁、そして石狩川の洪水だったのです。
 
共救組合破綻の原因にこれら自然災害と並んで、樺太アイヌ移民が続々と樺太に帰郷していったということも背景の一つに挙げられています。
 
この樺太アイヌ移民の帰郷は日本の迫害から逃れるために故郷に渡ったという印象をいだかせる解説も多く、当時の日本政府・北海道庁は彼らの帰郷を警戒し、阻んだと思われがちですが、そうでもありません。
 
樺太アイヌ移民・山辺安之助も日露戦争終結待たずに樺太に帰郷した1人ですが、口述筆記『あいぬ物語』(1913・山辺安之助 著, 金田一京助 編)のなかでこう証言しています。
 

そこで、石狩からはるばる函館にあった役所に行って私共一同、古郷の先祖の墓参りに行きたいから、旅行免状を下附して戴きたい、と願って見たら案外容易に免状が降りた。[2]

 
ロシアとの対立が深まるなかで、樺太アイヌ移民の帰郷は日本に有利との判断があったのではないかと思われます。事実、帰郷した彼らは日露戦争中に日本側に立って活躍します。
 
 

■樺太移民のために財産を管理・分与した道庁

負債整理として漁場宅地を受け取った北海道庁は、これをアイヌの共有地として還元します。
 
北海道庁は明治35(1902)年7月3日、庁令94号を持ってその海産干場と宅地を、同年12月21日、庁令第159号をもってその鮭引き網漁場を『北海道旧土人保護法』第10条に基づく旧土人共有財産とした。[3]
 
この北海道庁の処理は、アイヌ移民の立場にものと評価できるものではないでしょうか。しかしながら、3年後、樺太アイヌ移民のほとんどが帰郷を選択するのです。
 
さらに、それからまもなく、明治38(1905)年8月、日露戦争の結果、南カラフトが日本領となると、移民の中に帰郷の意志を固める者が次々と増し、結局、翌年8月、彼らは終身懲役者、行方不明者および日本人と結婚して北海道へ残留する者合わせて27名を残し、全員が掃島することを決定した。なお、その帰島は、全員漁場雇の名目でなされ、明治39(1906)年10月までに完了された。[4]
 
この時、アイヌ移民は北海道拓殖銀行から1200円(2857万円)を借りて、帰郷のための費用に当てました。アイヌ移民は明治39(1906)年6月31日に北海道庁から55町2反の未開地の貸下げを受けていますが、まったく開墾を行わず、早々に銀行の担保に入れて、帰郷費用に充てたのです。
 
「北海道国有未開地処分法」の明確な違反ですが、道庁がまったく不問にしたところを見ると、樺太アイヌの帰郷を支援するために道庁が考えたスキームだったのでしょう。
 
樺太アイヌ移民が北海道に残した共有地を道庁は没収することもせず管理を続けます。小作人を入れて収益が上がるようにしました。
 
そして、以上の土地にもとづく収入が、明治41年からの3カ年で、すでにカラフトヘ帰島してしまったその共有権者たちの負債に達するまでとなり、それ以後も着々と積み立てられていった。しかし、北海道庁としては、いつまでも単に積み上げて行くだけというわけにもいかず、大正13年に至って、その処分法について樺太庁と協議する運びとなった。なお、同年6月におけるおける既述の土地に基づく蓄積は、7816円49銭にも上った。[5]
 
樺太移民が残した土地から上がる収益はとうに拓銀の負債を償却し、大正末には7816円にも積み上がったというのです。『直段史年表』によると大正14(1925)年の日雇賃金は2円13銭ですから、現代換算で3669万円になります。
 
北海道庁は樺太庁と協議し、次のように定めました。
 
共有財産は現金を除き、その他全部を管理者北海道應長官において売却し、その代金と現金とを共有権者の持分に応じて分配することっとし、樺太に現住する共有権者に属する分は、樺太庁長官において引き継ぎを受くること、ただしその配当額の1割5分を北海道在住旧土人のため北海道社会事業協会に寄付するものとする。[6]
 
すなわち北海道庁と樺太庁は、北海道に残された共有地を道の責任で売却した代金と積立金を樺太アイヌ移民に分配することにしたのです。土地の売買額は3万5348円(1億6595万円)でした。このうち共有地に子作として入植した和人農民への慰労金と道の管理費を控除した3万3654円(1億5800万)と土地収益の積立7816円を合わせた4万1470円(1億9469万円)から、「北海道在住旧土人のため北海道社会事業協会に寄付」6220円を引いた3万5249円(1億6548万円)がアイヌ移民の持ち分に応じて分配されることになりました。
 
この件を内務大臣に許可を求めた道庁の「旧土人共有財産処分認可稟請」によれば分配の対象者は「共有権者又ハ其相続者ヲ調査スルニ、現二樺太二居住スル者百二名、本道に居住する者2名」[6]の104名ですから、1人当たり339円、現代換算では159万円です。
 
この額を少ないと見るとか否かは見解の分かれるところとですが、もともとの原資は道(国)の財産を運用したものです。寄付として徴収した1割5分も道内在住のアイヌの福利に当てることを約束しています。
 
道庁はこれを没収することもできただろうし、そうしても当時ならば批判を受けなかっただろうことを思えば、アイヌ移民の財産を護り続けた道の姿勢はもっと評価されても良いのではないでしょうか。
 

対雁樺太アイヌ移民①

 

■「対雁の丘」で行われたのは民族迫害なのか

次の文は最も新しいアイヌ史の概説本『いま学ぶ アイヌ民族の歴史』(山川出版)77pの『対雁の丘』というコラムです。
 

江別市郊外の小高い丘に、「対雁」の墓苑がある。その墓苑に樺太アイヌの墓が3基ある。その一つには、「乗仏本願生彼国」と記されている。「仏の願いにすべてお任せすれば、必ず浄土に往き生まれる」という意味であろう。樺太島から強制移住させらた彼らにとって、対雁での生活は過酷であった。中心的生業である漁業では、数カ所の漁場があったが、実際は収支で赤字が続き、移住してからの6年間で2万円余りの負債となった。奨励された農業も、投資した費用の半分の収入にとどまった。そんな折、コレラと天然痘が彼らを襲った。1886(明治19)年の7月から流行が始まり、翌年2月までのわずか8カ月間で住民のほとんどが罹患し、実に300人以上が死亡した。
 
1964(昭和39)年、墓苑周辺で土砂崩れが起こり、「樺太移住旧土人先祖之墓」と記された墓の周辺から多量の人骨が現れた。それまでも,周辺地域から骨片や玉、刀剣といった明らかにアイヌ民族を示す副葬品が出土していた。江別市は本格的な遺体掘り起こしと供養を始め,北海道大学医学部は調査に入った。その報告によれば、土葬遺体6体と火葬遺体100余体が確認できたという。記録によると、1886(明治19)年は毎日死者が出ており、多い時には1日に10人を超えたとされる。[7]

 
これを読むと、江別市対雁でナチスのユダヤ民族迫害に匹敵する参事が行われたような印象を受けます。しかし、今回、対雁の地元である「江別市史」、樺太アイヌ移民が移り住んだ石狩市の『石狩町誌』を読み解いたところ、私たちがこれまで聞かされてきたこととはまったく異なる印象を持つことができました。
 
6回にわたる連載の要点を記すと次のようになります。
 

①樺太から日本への移住は決して「強制移住」では無かった。
②最初の移住地宗谷から対雁への移住は強引なところがあったが、当時の開拓使は決して「力」に訴えず、話し合いでことをすすめた。
③対雁で開拓使は、まさに至れり尽くせりの厚遇を行った。
④道庁から3県時代、そして北海道庁時代になったとき、官僚を辞めてアイヌ移民のために「対雁移民共救組合」を立ち上げた上野正がいた。
⑤疫病の発生は残念な歴史だったが、近代医学による救済から背を向けたアイヌの医療観念が被害を拡大した面もあった。
⑥樺太でも残留したアイヌは疫病に襲われた。
⑦樺太に残ったアイヌはロシアの圧政で、人身売買、拷問、処刑という迫害を受けていた。これがために日露戦争で樺太アイヌは日本の味方として活動した。
⑧共救組合を破綻に追い込んだのは、漁業の不漁と石狩川の氾濫であった。これがなければ事業としては成功していた。
⑨樺太に戻ることを選択したアイヌ移民に対して、道庁はさまざまな仕組みを案出して、彼らの帰郷を支援した。
⑩道は樺太アイヌ移民のために共有地を用意し、彼らが樺太に戻った後も、小作人を入れて管理を続け、収益を積み立てて土地売却代金とともに移民に還元した。

 
 

■ネガティブだけを強調する歴史観に多文化主義はあるのか

この事案において、樺太アイヌにしろ開拓使・明治政府にしろ、相手の存在を否定する〝悪意〟は認められません。
 
樺太アイヌは日本の政府の呼びかけに応えて民族としての可能性を開こうとしたのでしょうし、開拓使・明治政府もアイヌのために自分たちができる最大限を努力を払いました。
 
期せずして悲劇的な結末になりましたが、それは当時の人権意識、医療などさまざま社会基盤の未発達、すなわち明治初期という時代の限界に、疫病、不漁、洪水といった不可抗力が重なり招いた不幸というべきでしょう。
 
樺太アイヌが対雁に移った3年後、1879年、和人入植者の口に入ることができなかった白米を開拓使から支給されていた2月20日、オーストラリアでは「ケープベッドフォードの虐殺」が起こります。クックタウンに拠点を置く白人警官が谷間にあったアボリジニの集落を谷の両側から襲い、銃で24人を撃ち殺した事件です。4人のアボリジニが逃げ出しますが、警官により海に追い詰められ、そのまま行方不明となりました。[8]
 
同じ年、年クイーンズランド州北西部のセルウィン山脈で、白人警官と白人入植者によって約300名のアボリジニが理由もなく銃殺されました。「バーナード・モルボの虐殺」と呼ばれます。[8]
 
いわゆる「樺太アイヌ強制移住」と言われる言説は、このような新大陸における白人入植者の先住民族迫害のイメージを巧妙に借りて北海道開拓に対して悪印象を与えるものです。
 
今日、アイヌ協会は「和人とアイヌの不幸な過去の歴史を乗り越え、それぞれの民族の歴史や文化を相互に尊重する多文化主義の実践」[9]を提唱していますが、この樺太アイヌの移住事業のなかで、開拓使・明治政府が払った努力や善意を覆い隠し、ネガティブだけを拡張する歴史認識は決して多文化主義の実践につながらないことは明らかです。
 

 


 
【引用参照出典】
[1]『石狩町史 中巻』1985・58-59p
[2]同上61p
[2]同上63p
[4]同上64-65p
[5]同上65p
[6]同上66p
[7]加藤博文・若園雄志郎 (編集)『いま学ぶ アイヌ民族の歴史』2018・山川出版・77p
[8]https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_massacres_of_Indigenous_Australians#1850s
[9]https://www.ainu-assn.or.jp/ainupeople/history.html
①『対雁の碑─樺太アイヌ強制移住の歴史』1992・樺太アイヌ史研究会・北海道出版企画センター・160p

 
 

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