昭和34年『旭川市史』 アイヌ族 6つの功績 (上)
武士道の本家本源は蝦夷族にあったと言わねばならぬ
ウポポイ(民族共生象徴空間)は、偏見と差別の解消、民族の復興を、アイヌ文化の発信を通して実現しようとするものです。方や私たちの父祖の時代、どのような視点でこの問題に取り組もうとしていたのでしょうか。昭和34年発行の『旭川市史 第1巻』の第3章アイヌ族に「功績」という節があります。とても興味深いものなのでご紹介します。
■我が国防と発展に大きな功績
この『旭川市史』は昭和34年発行で昭和31年に編集が始まりました。北海道では1970年代以降、マルクス主義唯物史観による侵略史観がアイヌ史学の大勢となりますが、119pから336pにわたる「第二編 先住民族」は、そうした歴史観によって〝修正〟される以前のアイヌ概説です。加えて『旭川市史』が貴重なのは、アイヌ出身の偉大なアイヌ学者である知里真志保氏が編集顧問として監修指導に当たっていることです。
「第17節 功績」は、冒頭で下記のように市史を書いた執筆者が生きた戦争を挟んだ昭和前半の時代に は、一部にアイヌに対して強い偏見・差別のあったことを教えてくれます。もちろん当方はアイヌ差別があることを否定するものではないし、その一日も早い解消を強く願うものですが、以下に見られる強い差別表現もあえてそのままにして紹介します。市史はこうした差別・偏見に対抗する論拠としてこの「功績」を掲載しているのです。
国史の上で日本武尊の東征・阿部比羅夫や坂上田村麻呂の蝦夷征伐、さては源頼家・義家父子の奥羽の乱鎮定、舞台が本道に移ってからも、しばしば起るアイヌの反乱、明治になって和人の天下になるや、今度は旧土人保護法の制定とか特殊の施設指導がその民族の存続向上に特に骨を折るなどの一面から、まさに我が国にとって有史以来の癌であり手足まといであるかの如く見る者も少くないが、思えばこれら和人との衝突の底に流れる真の原因は、優勢な大和民族の発展北進によるまことに止むを得ない必然の結果で、敗退後退せしめられたアイヌ(蝦夷)族に取ってはまさに窮鼠猫に歯向かうの類で、気の毒な同情すべき反抗であったことを知らねばならぬ。[1]
上記のような強い偏見があったとしても日本は、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドなどで、執拗な先住民族の虐殺を行い民族虐待を繰り返したアングロサクソンとは違う、と市史は述べています。
幸に我が国では外国の多くの例のように征服虐待に出ないで常に融合同化を図り、内地人の間に同居するものには数カ年にわたって免租するばかりでなく、奨励手当まで与え、その朝廷の命に従わず、反乱を起すに至って始めて軍兵を動かしたのであることにいささか慰められるのである。[2]
日本のアイヌへの偏見・差別は、そもそも先住民族を「人間」として見ない、人外のものと見なしたアングロサクソンとはまったく異なるものです。アングロサクソンの先住民族迫害は人類への犯罪と言うべきものですが、日本のアイヌ差別問題とアングロサクソンの差別問題を同列にすることで、あたかも日本でもアングロサクソンが犯したような犯罪行為があったかのように思われていますが、それこそ事実誤認です。
なぜ日本はアングロサクソンにならなかったのか──市史は数千年の時の流れの中でアイヌ民族の血統は大和民族にも流れ、今日の日本人をつくっていることに根拠を求めています。
徳川時代までも青森県岩手県の海岸地方に残っていたものも、いつしか和人との区別が無くなり、今より150余年前の文化3(1806)年に津軽藩で、外ヶ浜北部の蝦夷を解放して常民の班に加えたのを最後として、もはや本州には1人の蝦夷も区別せられるものがなくなる。
東洋の諸民族はいずれもほほ髯の少い中にあって、日本人にのみその著しく多い者の少くないのも、蝦夷の血が全国に行きわたっている証左とも見られる。[3]
こうした中で、旭川市史は5つの事例を挙げてアイヌが日本史の陰日向で日本の発展に多大な貢献をしてきたことを挙げて、アイヌに対する読者のリスペクトを高めようとしています。
一面、人はあまり言わぬが、我が国防と発展の上に、また開拓の上に経済の上に、縁の下の力となって大きな功績のあつたことを深く銘記すべきである。

朝廷軍と蝦夷の戦い(清水寺縁起絵巻上巻 室町時代 ①)
■第1の功績 大和民族の源流
アイヌの功績の第1は、その血脈を提供するすることで優秀な日本民族を産み出したということに置いています。
まず第1に、日本人の頭脳の優秀性は欧米先進国に優るとも劣るものでないことは、諸種の統計の示すところで、世界にほとんど異論がない。そして凡ての生物は縁遠き者との混血が近縁者のそれより優秀になることも学者の認めるところである。
して見ると日本人の優秀性は、日本人の大系統や南洋系統等異民族の混血からできて来たものと考えられ、従って前記の如く蝦夷の血の広く和人間に行きわたっているのもその優秀性の素因の一翼を担っていると見ねばならぬ。[4]
■第2の功績 警固鎮定に大功
旭川市史は、古事記や日本書紀など古代の文献に登場する蝦夷=アイヌであるとして、その功績を称えています。アイヌは歴史上、抑圧されるだけの弱小勢力ではなく、強い武力を持ち、日本の歴史の重要なロールとして活躍したと述べています。古代の蝦夷=アイヌであるかは諸説有るところですが、昭和の前半、おそらくはその前の開拓時代も、こうした認識が歴史の常識であったのでしょう。
第2に、その素朴勇猛な性資で、特に上代からしばしば宮廷警固に、変乱鎮定に、また防人(さきもり)として辺地の防衛にあたって、しかも大功を立てている。
その勇猛の1例をあげると、元慶7(883)年に上総の蝦夷40人が乱を起したとき、国司は1000人の官兵を遣したが鎮定できず、更に3000の兵を朝廷に要求している。
貞観10(868)年、新羅の海賊船が九州を襲ったときに、太宰府の兵を発して追撃させたが、恐れて近づかず、諸国にいる蝦夷を集めて別当100人に専管させてこれに備えることを政府に請うている。
こうして奥羽から出た蝦夷は、しばしば南に送られて遠く筑紫の兵の模範として用いられる。遠い西に於てさえこれである。まして東国はいうまでもない。
こうしてわが国の武士は蝦夷の刺戟鍛錬に負うところが非常に多かった。かの東人(あづまびと)が武士の典型として世にうたわれたのも、実にこんなところにその原因があった。
えみし一人に 百人(ももなひと) 人は言へども 手むかひもせず
これは神武天皇東征の時の慓悍さをうたったものと伝えているが、日本書紀にも、
山に登ること飛禽の如く 草を行くこと走獣の如し
これだけ和人に恐れられていたので、まさに蝦夷は全く一騎当千であった。その宮廷警護に当らしたのも、古いところで常風土記に
唐客の入京するや将軍等、騎兵二百蝦夷二千人を率ゐ、近く京城門外の三橋に接す。
また宝亀7(776)年紀に、
出羽の俘囚(フシュウ=蝦夷のこと)258人……その78人を諸司及議にわかちて賤(しもべ)となす。
などとあるのがその一例である。[5]
■第3の功績 武士道の発祥
旭川市史は、日本の世界に冠たる武士道精神の発祥も蝦夷族=アイヌに求められるとしています。アイヌへの同化政策は差別の根源として現在強く非難されていますが明治になって始められたものではありません。この日本列島で歴史が刻まれた最初から行われ、1000年を超える長きわたってさまざまな影響を両民族に与えてきたのでしょう。
第3に、中世宮廷人の頽廃は荘園の拡大強化と豪族の発生を来し、一方に群盗の蜂起となる。そこで荘園、豪族は侍(さむらい)とか与力(よりき)・同心・家の子・郎党などと云われる用心棒を置くようにになって武士の勃興となり、その主従の関係が武士道として発達する。
そして当時この用心棒に用いられた者の多くは帰服した蝦夷であった。主たる者は自己の勢力維持の上から郎党は無くてならないので、平素これに保護を加え生活を保証してやる。郎従もまた自分の生活の保護者たる主に一死報恩の忠貞を尽くす。こうした主従関係が道徳化して世界に誇った武士道となったのである。
武士道は武家社会の郎従より起り、初期の郎従はおおむね蝦夷であったとすれば、武士道の本家本源は蝦夷族にあったと言わねばならぬ。
源氏の代表将軍として後世にうたわれた頼義・義家父子も、蝦夷の大将安倍頼時・貞任らを討ったのであって、しかも12年間の長年月にわたり悪戦苦闘、ついにやはり出羽の蝦夷の大将清原氏の助けを得て辛うじて功を奏したのであった。そしてその勢力は東国武人を圧倒して、他日その子孫が東国を根拠として活躍するようになる。
由来、征夷大将軍は征夷の必要に応じ臨時に置かれたものであり、ことに頼朝の時代では討つべき蝦夷がいないのにかかわらず、これを常置の官として子孫に伝えるようになったのも、頼義父子の征夷の縁故による。
頼朝の鎌倉幕府についで源氏の足利幕府、源氏の徳川幕府と歴世征夷大将軍を拝するものは源氏のみである理由もここにある。頼朝以来700年、国史上の異例として国民の生命財産に対し生殺与奪の権を握っだ征夷大将軍もこうして生れたものである。[6]
[1][2][3][4][5][6]『旭川市史 第1巻』1959・旭川市・226−229p
①東京国立博物館デジタルアーカイブ ttps://webarchives.tnm.jp/