昭和34年『旭川市史』 アイヌ族 6つの功績 (下)
我が国土を保持する重要な地位にあり、帰趨を誤らなかった
昨日に続き『旭川市史』(昭和34年)に掲載されたアイヌ民族の「功績」、その後半です。後半は近現代です。自然と共生しながら豊かなに暮らしていたアイヌが日本の進出により〝一方的〟に日本に組み込まれ、同化を強制されたという「侵略史観」がウポポイ・国立アイヌ民族博物館の主張ですが、こうした歴史観が主流になったのは比較的最近のことです。昭和40年代まではアイヌ自身がまた北海道開拓の先駆者であることを誇りとしていました。そうしたアイヌ民族の功績、4~6をお届けします。

明治3(1870)年、黒田清隆を案内するアイヌ、大正7(1918)年・開道50年記念北海道博覧会「拓植館」ジオラマ①
■第4の功績 ロシアを退ける
北海道の副読本『アイヌ民族:歴史と文化』では、アイヌは〝一方的に〟日本に組み込まれたと記述がされています。日本が強大な国力を背景に嫌がるアイヌに無理矢理帰属を迫ったという記述です。実際には19世紀後半にロシアと日本という選択があるなかで、アイヌは日本を選んだのです。
このことにより、北海道を含む領土が確保され、今日の日本がある。ことを思えば、この功績は最大の評価を与えられるべきです。教科書にも記載して、日本人すべてが学ぶべきでしょう。民族共生の原点はこの事実が出発点になるのではないでしょうか。
第4に、近世、日露両国間に領土関係で重大な間題が起きた時、わがアイヌは国土保全の上に大きな力となっている。本道の松前氏が為すところなく局地に無能ぶりを発揮しているとき、ロシヤはシべリヤ平原をたちまちになめ尽くし、千島・樺太を蚕食、やがて本道をうかがって根室・厚岸の海岸に出没し、アイヌに酒食を饗し、衣服を与え、自国の風習に変え、自国の宗教を布教、これを懐柔しようとした。
樺太・千島のアイヌはロシヤの撫育する人民であるから、アイヌの住むところはすなわちロシヤの領土であると主張する。
寛永の鎖国令出でて200余年、徳川幕府は敵と云えば西国の大名と考え、軍事政策も仮想敵国を国内大名にのみおいて、兵備も之に対応するだけのものであった。それが今や敵は鎖国の障壁をうち破って外部より迫って来たのである。
幕府の驚きは想像以上で、松前氏より本道を取り上げて幕府直領とし、近接の諸藩に命じて警備にあたらせるとともに、一面アイヌ保護政策を立て、善政を布く。
まずアイヌとの交易を正し、金品を与え、松前藩では厳禁していたとは反対に和語を教え、アイヌ婦人の入墨を禁じ──これは徹底しなかったが──ロシアの千島に於けるキリスト教布教の向うを張って有珠に善光寺、様似に等澎院、厚岸に国泰寺を建立して仏教をひろめ、我が国もまたアイヌは日本国の撫育する人民であるから、アイヌの住むところは日本の領土であると主張した。アイヌはまさに日露両国の引張凧になっていた。
このときもしアイヌがロシヤの懐柔に心を傾けたら北海道の運命ははたしてどうなっていたろうか。
アイヌがいかに我が国土を保持するに重大な地位にあり、そしてよくその帰趨をあやまらなかったかを思うべきである。[1]
■第5の功績 経済に貢献
侵略史観に立つアイヌ支援者は、自然とアイヌを自然と共生した無辜の民として描きます。狡知に長けたと和人がアイヌを騙して領土を取り上げたと──。こうしたアイヌを過度に聖人視した見方も偏見・差別ではないでしょうか?
狩猟民族として知られるアイヌですが、彼らは交易の民でもありました。アイヌが北方交易に果たした役割は今大きく注目されています。交易を通してアイヌは幕府よりも、少なくとも松前藩以上に国際状況を知っていたことでしょう。そうしたなかで彼らは少数民族が生き残る選択としてロシアではなく、日本を選んだのだと思います。
第5、アイヌがまたいかにわが国経済上に大きな貢献をなしたか、記録の上では、安土桃山時代、奥地の蝦夷が八幡の符ある鷲の羽を献じ、また渡島の獣皮が京都で貴ばれたことを伝え、延暦21(802)年夷地より純白のラッコ皮を出し、元和1(1615)年、メナシの酋長がラッコの皮数10枚を持している。
蝦夷の産物は古くより熊や鹿・貂などの獣皮、鰊・鮭・鱒などの干魚や昆布・ラッコ、オットセイなどの海産物、それに鷲の羽などで、和人と交易をし、和人は更に内地や朝鮮・中国に輸出したもので、アイヌ語のコンブ・ラッコ・ウネウが中国では昆布・猟虎・膃肭臍の漢字をあてはめて漢語とさえなっているのも、その古くより盛んであったことが知られる。
その上川アイヌについて見ても、後の「石狩場所と上川アイヌ」の条で述べるように、あらゆる不利を受けつつよく和人の生産経済を援けた功績は十分認めねばならぬ。[2]
■第6の功績 開拓に協力
旭川市史は功績の最後に開拓への協力挙げ、アイヌの協力がなければこれだけの成果は不可能だったと言っています。市史は例示として、開拓区画測量の挙げていますが、アイヌが北海道の自然に不案内な入植者をさまざまに助けたことはこのサイトでも報告してきたところです。
19世紀の世界情勢の中で、ロシアではなく日本を選んだアイヌはロシアに対抗するには北海道をいち早く開拓し、北の防波堤にするという明治政府の意志に同調賛同し、積極的に開拓に協力していった──これが歴史の真実ではないでしょうか。事実、明治に入ってアイヌによる開拓に対する組織的な反対運動、抵抗運動はひとつもないのです。
第6、これも後に述べるように和人の探検測量に当って常に案内や運搬の労をとったものはアイヌであった。
たくましい体力と困苦に耐える忍耐力、それに獣を追って山野密林の中を奥深く駆馳しながら、いざ帰るとなると最短距離をまっすぐに取ってかってあやまることのないという神秘的な方向感とで誠意を以て和人を助けるのでなかったなら、いかに和人が努力しようとも、あれだけの成績をあげることはもとより不可能であったことは明かである。
終りに上川アイヌの和人につくした佳話を例として挙げておく。
明治3(1870)年、開拓使は田中鋭次郎義信・史生平田貞治広利らに命じて上川・空知両郡の郡界を調査せしめたことがある。
一行は札幌の乙名イコレキナ、琴似のアイヌ又市ら20余名を率い、1月下旬、札幌発、中川地方を経て上川に入り、4月10日に札幌に帰っているが、一行の肥塚貴正の書いた『上川見聞奇談』によると上川で糧食が乏しくなって毎日1合のかゆで過すようになり、その上雪とけ水が増して帰ることもできず、調査も終らず、進退窮した。
この地の総乙名クーチンコロに話したところ、クーチンコロは「心配なさるな。吾々のたべるものをたべるなら必ずこれを間にあわせてあげよう。万が一この地でニシパ(旦那)方を飢えさせては上川アイヌとして申し訳がない。私もこの冬石狩に出てこの1月に帰ったばかりで貯えも少いけれども御心配なく仕事をすすめて下さい」
そして干鮭(からさけ)などをみついでくれて、おかげで無事任務を果して帰ることができたと。そしてこう結んでいる「土人は野蛮の俗たりと雖も仁を以て接すれば、彼も亦仁をてす。義を以てすれば彼も義を以てす。何ぞ常人と異なることあらんや」と。
その感謝感激の情、察すべきである。
総乙名クーチンコロは探検記の記事中にも出るように、松田市太郎や松浦武四郎の内部探検によく道案内の労を取っているばかりでなく、中々の人物で、これも創業期に述べるように、明治2(1869)年、よく老樞をひっさげて石狩役所に出、正論をはいてさすがの兵部省役人の無謀をくじいて上川アイヌの難儀を救っている。[3]
本サイトの一貫した主張ですが、北海道の開拓、さらには19世から20世紀初頭の時代に日本の独立にもっとも貢献したのはアイヌであり、そのことに対する感謝を私たちは忘れてはなりません。しかるに、今も差別や経済格差が残っています。私たちは十分に彼らに対して感謝したでしょうか。今、国や道のアイヌ政策は起点を侵略したことへの謝罪においていますが、そうではなくアイヌ政策の起点、民族共生の原点は、日本の独立と北海道の開拓に最大の貢献をしたことへの感謝に置くべきです。