北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

北海道開拓の先駆者 2020/2/2

[標茶町]明治17年 根室管内旧土人救済方法

 

前回の【北海道開拓の先駆者】で北海道の全小学生に配布されている副読本の教師指導書で「北海道『開拓』和人の人口が増える→狩や漁では生きていけない→多くアイヌ民族がうえ死に」という「板書例」を紹介しました。この板書例の根拠となる記述を『標茶町史考』(1985)からご紹介します。
 
たしかに同書で引用された「復命書」には明治12(1879)年、標茶地方のアイヌは貧窮し、十数名のアイヌが餓死と見られる死を迎えたことが報告されています。教師指導書は開拓がアイヌを死に至らしめた──というように子供たちに教えるよう教師に求めていますが、本をよく読むと反対の印象を受けます。どうか北海道は、私たちの子供たちに正しい事実を教えてください。
 

 

■飢餓に襲われるアイヌ

開拓使時代になってアイヌの人たちにとって、思いがけないことばかりが起った。
 
それはこれまで狩猟に絶対的なものであった毒矢が禁止され、馴れない鉄砲を渡されたことであり、さらに明治12(1879)年の春に鹿が越年する地方一帯が大雪の為に鹿が餓死したこと、大雪で動けなくなっている鹿を無茶苦茶に撲殺して鹿皮にし、それを酒や煙草と交換してしまったこと、更に内地からの密猟者が入って鉄砲で穫るといったために、鮭と共にアイヌの人たちの米にひとしかった鹿が絶滅に追い込まれた。
 
沿海漁業の規模が次第に大きくなって川に遡る量が次第に少くなったばかりでなく、少くなった鮭の種を保護する為に、川上でアイヌの人たちの獲る鮭の制限が加えられ、西別川のウライ漁の禁止というような状態になったため、最も重要であった鮭と鹿が少くなった上に、更に漁猟に制度が加えられために、十勝地方では
 

「飢餓の甚しかりしは、昨年末より今春野草の生するところなりき、土人の言によれば、此際死去せしもの現に十余名ありと(果して餓死なりや否やは保し難し)飢餓のいかに甚しかりしや、その例証を挙ぐれば、一度棄捨したる鹿骨を煮てその汁をすすり、鮭、鹿皮の切れ等をも食し、凍寒中池沼へ入り貝類を探り、積雪中寄生木(やどりき)を求めてこれを食したるののみならず、父子兄弟の間にも食物を争ふにいたれりという」(明治17(1884)年・梅野四男吉『復命書』)

 
以上の記述が
『アイヌ民族:歴史と現在 教師指導書』「北海道旧土人保護法」の「板書例」になったものと思われます。
 
指導書に具体的説明はありませんが、『標茶町史考』531p「明治十二年の春に鹿か越年する地方一帯が大雪の為に鹿が餓死」が副読本本文の「1880年ころには、多くの和人のハンターがシカ猟をして、シカをとりすぎたり、大雪でシカ が死んでしまったため、シカが急に減へってしまいました」(36p)にあたり、年代的にも一致します。そして「板書例」の「多くのアイヌ民族がうえ死に」が「此際死去せしもの現に十余名」にあたると思われます。
 
もっとも、梅野四男吉『復命書』は「果して餓死なりや否やは保し難し」と言っていますから、「多くのアイヌ民族がうえ死に」は当時でさえ疑わしかったのです。
 
飢餓の原因は大雪による鹿の餓死と狩猟の制約ですが、「毒矢」が禁じられ、その代わりに「鉄砲」が渡されたとありますから、狩猟そのものが禁じられたのでありません。副読本でも「シカ猟もやりにくくなった」と表現しています。
 
さて、こうした事態に道(当時の根室県)はまったく目をつむっていたのでしょうか。そうではありません。事態を憂慮し、あらゆる手立てを尽くして、アイヌを救おうとしました。
 
『アイヌ民族:歴史と現在 教師指導書』38p[北海道旧土人保護法 板書例]

『アイヌ民族:歴史と現在 教師指導書』38p[北海道旧土人保護法 板書例](出典①)

 

■根室県 アイヌの救済に立ち上がる

とあるような惨状であったので、根室県では明治15(1882)年の置県の年の末に、県令は県内のアイヌの人たちの窮状を訴えて、その救済費として毎年500円ずつの特別下附を内務省と大蔵省に申請したが、その認可を待っていられないほど事態が切迫していたので、16年に最もひどい足寄郡に役人を派遣して、農具や種子を与えて、アイヌの人たちにとっては全く新しい農耕の方法を教えたのであった。
 
下附金の認可は「本年ヨリ向フ五ヶ年間、毎歳五千円宛別途下付」するということが、16年の8月になってから認可になり、その実施方法を詳細取調べ提出しろということであった。
 
実施方法書は次の通りであった。
 

根室県管内旧土人救済方法
 
第一条 此方法ハ管内土人ヲシテ農業ニ従事セシメ、独立自営ノ道ヲ得セシムル為特ニ施行スルモノトス
第ニ条 此方法ヲ施行スルハ明治16(1883)年度ヨリ、20年度迄向フ五ヶ年トス
第三条条 旧土人戸数825戸、毎年総戸数ノ5分ノー、即チ160戸ヅツ、農業ニ従事セシムルモノトス
第四条 此方法ヲ実施スルハ、先山間僻地ニ居住スル者ヨリ着手シ、漸時海浜又ハ市街地近接ニ及ボスベシ
(原書に第5条の掲載がありません)
第六条 第五条二褐グル各郡中開墾ニ適当ナル地所ヲ選定シ、家族ノ多少ニ依り1戸5反歩乃至1町歩ノ地所を貸与シ、開墾二従事セシムへシ
第七条 開墾地ハ無借地料ヲ以テ貸与シ、竣功ノ上、私有地トシテ無代下附メベシ。無代下附シタル私有地85カ年以内地租を免除スベシ。
第八条 初年限り給与スル農具並種子左ノ如シ(以下略)
第九条 農業期節中毎年勧業課員ヲ着手地方二派遣シ、実地二就キ器械ノ作用開墾ノ仕方、種子播蒔ノ順序、収穫品ノ貯蔵及ビ其ノ使用等ヲ指示スヘシ
(27条までありますが省略します)

 
非常に行き届いた実施方法であった。しかし、この企画は狩猟を主体としてきた民族に対しての考慮がはからわれず、内地のこれまでの日本農業の経験者に新しい北海道の農業開墾を補助するというものと何の変りもなかった。これを企画した企画者は故意にそうしたのではなく、その知識を持ち合わせていなかったのである。
 
ともかく、この5000円の補助と右の実施方法を基礎として、明治17(1884)年から白糠、阿寒、網走と共に、川上郡のアイヌの人たちにも大規模な救済策として農耕の指導と補助を実施した。
 
救済策として根室県は、一家族に対して5反~1町歩の土地を「私有地トシテ無代下附」し、「85カ年以内地租を免除」という特典を与えました。なお一般的な入植者に5町歩が与えられるのは、明治30(1897)年の国有未開地処分法以降ですから、1町歩だからといって和人よりも不利であったとは言えません。そして勧業員がつききりで指導するという「非常に行き届いた実施方法」でした。
 
もっとも、狩猟民族であったアイヌを農耕に誘導し、それがあまり成果を挙げなかったことを、アイヌに対する認識不足として非難することはできるかもしれません。しかし、時代はまだ明治10年代、『標茶町史考』が言うように「知識を持ち合わせていなかった」のです。和人に対する営農指導さえ確立していませんでした。この地方で酪農を主体とした農業が機能するのはこの50年後です。それでも当時の担当官はアイヌの窮乏を救うべく誠意を持って対処したのでした。
 

■農業が飢餓を救う

当時川上郡の全戸数は50戸であったが、そのうち救済を実施したのは塘路村の21戸、熊牛村1戸、弟子屈村8戸、屈斜路村13戸、西別村4戸の合計47戸であった。耕作させたものは馬鈴薯と大根が最も多かったようであるが、当時塘路での耕作状態は次の通りであった。
 
合計して2反1畝12歩のわずかな畑であり、馬鈴薯と玉蜀黍だけであったが、鈴木慶治が馬鈴薯13俵に玉蜀黍1斗5升、アイコテルキが馬鈴薯4俵玉蜀黍1斗、ヨミサクが2俵半と8升、シュンコハニが7俵と2斗、イソトシは馬鈴薯だけ6俵、テッカラリが6俵と1斗、ツナフカは4俵と4斗、コロヘエンが馬鈴薯2俵半、ムッスヘリが6俵に8升、ベトラムは6俵と1斗、チピカが4俵と5升、ヒシピカは馬鈴薯4俵、イタッヘリが馬鈴薯3俵と玉蜀黍6升、ヲヤラムは馬鈴薯だけ2俵半という成績であったが、鈴木慶治は50坪から13俵あげているが、シュンコハニは46坪から7俵よりあげていないというように相当に相違があった。
 
「川上郡ハ其収獲最モ少シ、屈茶路、西別村ノ如キ風害ノ為大ニ其収獲ヲ減シタルニ由ル」(明治17(1884)年久烏重義『復命書』)という状態であり、僅かな耕作地であったから、野鼠の為に食糧を作ってやったようなものでもあったにちがいないが、しかしわずかな収穫物ではあったが「釧路川其他白糠郡諸川ニ於テ鮭魚ノ取護甚ダ少シト雌ドモ、幸ニシテ農業ニ従求シタルヲ以テ、殆ド飢餓ノ惨状ヲ免レタル如シ」(明治18(1885)年久島御用係『明治17(1884)年旧土人救済ノ模様及事業之景況』)とあるように、この耕作が大いにこの年の凶漁を補う力になったと報告している。
 
ここで注目すべきは、この根室県の施策がアイヌの窮乏を救うことになったことです。「教師指導書」は何も述べていませんが、教師は「多くのアイヌ民族がうえ死に」と板書した次ぎに、この根室県の施策も合わせて教えるべきではないでしょうか。
 

■煙草の作付を奨励

もちろん、この塘路は他の地方と異ってベカンベという特殊の食物があったから、他の地方とよほど趣を異にしていると思うが、
 

肉食ハ彼ノ最モ好ム所ナレバ、容易ニ志ヲ農業ニ移サス。常ニ魚類ヲ採取セシ事ヲ欲セリ。陸産ノミヲ以テ彼ノ食用トナシガタシ。何トナレハ陸産ノミヲ以テ身体ノ強健ヲ保シ能ハス。且彼等ノ口腹ニ馴レサルモノナレハナリ。本年該地ノ景況ヲ視察スルニ、壮年ノ者、殆ト地方ニ赴キ、農事ヲ願ミサルガ如シ、共意肉食道ナキヲ以テ該地ニ居ルヲ好マサル容子ナリ(全同)

 
というわけで、せっかく農耕のことを奨励しても、肉食に馴れた者が穀物をとることは喜ぶはずがなく、働き盛りのものは魚のとれる漁場労働者として移動し、結局老人や婦女子だけが畑を守るという程度であったので、肉食の方法を得させる為に鶏や豚を飼わし、また一面では煙草や粟をつくらして煙草や酒のための出費を少くしようという計画もあったことは次の報告にもうかがわれる。
 

農業ノ志念ヲ起サシムルニ於テハ、煙草及粟二若クモノナシ。此二種ヲ栽培セシムルトキハ酒料等ノ冗費ヲ省キ、生計上利益頗ル多シ。煙草ノ如キハ彼ノ最も嗜好スル所ニシテ、男女二係ハラズ皆之ヲ喫ス。然シドモ目下生計余裕ナキヲ以テ、煙草ヲ購求スル甚タ難シ。
 
故ニ今之ヲ栽培セシメナバ、独リ生計ヲ助クルノミナラス、思欲ノ盛ナル時二際スル為メ、大二農業ノ志念ヲ起サシムルニ足ル可シ。故ニ明年白糠村ニ於テ苗床ヲ構造シ、以テ煙草ヲ仕立テ之ヲ各土人ニ配分セン事ヲ欲ス(明治17(1884)年・久島重義『復命書』)

 
この企画は実際には実現しないで終ってしまった。明治18(1885)年の実施についての詳細は不明であるが、川上郡の救済戸数は前年よりも4戸増加して51戸となり、墾成反別が前年の10倍の5町歩以上にまで増加したことは17年の鮭の不漁のせいであると思われる。
 
この報告で面白いのは、アイヌに農業に就いてもらおうと煙草の栽培を計画しているところです。この時代のアイヌは男女を問わず愛煙家でしたらから、煙草を栽培すると好きなだけ煙草を吸えるし、煙草代も浮く──と持ちかけてアイヌに農業に興味を持ってもらおうとしたのでした。ここに良く言われる「農業を強制」という臭いはまったく感じられません。
 
アイヌの伝統的な狩猟採集生活から農耕生活に誘導したことが、北海道の開拓政策の「同化政策」として批判されています。しかし、世界的に文明が急速に進む中で、アイヌだけが永遠に狩猟採集生活を続けることはできません。誰かがどこかでアイヌを狩猟採集生活から別な生業へと誘導していかなければならなかったのは間違いないことです。当時の道の担当官はそうした課題に対して非常に誠実に取り組んでいったと見てとれます。
 
 

塘路湖(出典②)


 

■明治19年の塘路アイヌの暮らし

北海道庁になった明治19(1886)年のものと思われる『北見釧路国巡回日誌』に、当時の塘路の状態を次のように記している。
 

土人ノ現今ノ生活ヲ視ルニ、概シテ暮ラシ安キモノノ如シ。何トナレハ標茶ノ開市ニヨリ、或ハ雇人ト為り、或ハ其他ノ方法ヲ以テ利ヲ得ル、又昔日ノ比ニ非ス。故ニ衣服二食類に漸ク風化シ、今日ニ至テハ毎戸一日一回以上ハ必ス米ヲ食スニ至レリト云フ。
 
土人食料ノ種類ハ主トシテ魚類ノ干燥シタルモノ、或ハ焼灸シタルモノヲ食ス。又ハ献肉及天産野生ノモノヲ食スト雖モ、或ハ混煮シ、或ハ生シテ食ス。近来ニ至リテハ、米及馬鈴薯等ヲ魚類ニ混煮シ、食スルヲ以テ常トス。又塘路村ニ於テハ、冬間沼ヨリ産スル菱ヲ取り、皮ヲ剥キ、之ヲ乾燥シ、米ニ和シ或ハ餅ヲ造リ、食スルモ亦多シトイ云フ。
 
開墾着手ノ状況ハ、客歳当川上郡五ヶ村旧土人ノ墾成反別ハ平均一戸五畝歩ニシテ、五十二戸ヲ通シテ一町六反歩二過キサリキ、然ルー本年春季二至リテ墾成セシ反別ハ、毎戸一反歩二降ラス。秋季二至ラハ尚一反歩宛開墾セシムヘキ見込ナリト云フ。
 
客歳ハ士人等季節二際シ、他二収利ノ道アリシ為、耕転播種共少ク、遅レシヲ以テ全キ収獲ヲ得サリシモ、本年ハ充分季節二注意セシメ、且大ニ耕作ノ利ヲ悟リシヲ以テ、奮励従事、目下ノ景況一ニ拠リテ充分ノ収穫ナラント云フ

 
この道の報告は注目すべきものです。標茶のまちが設けられたことから、土地の状況をよく知るアイヌにはガイドなど、さまざまな仕事が生まれ、生活が向上したというのです。和人の入植者が白い米を食べることができなかった時代に「毎戸一日一回以上ハ必ス米ヲ食スニ至レリ」と言ってます。
 
おそらく開拓時代に入って、伝統的な狩猟に依存したアイヌは困窮していった反面、新しい時代に対応していったアイヌは幕藩時代に比べても豊かになっていったと思われます。
 
参考リンク:
[新冠町] 郡随一の資産家 一世を風靡したアイヌ ─ 古川アシノカル
 

■悪徳商人からアイヌを護る「扱所」の設置

なお根室県では、アイヌの人たちが人の毛買商人のために騙されて借金をして苦しめられたり、病気が流行しても届け出る者がないので、みすみす病気の惨害を拡めるというようなことがあるので、川上郡と阿寒、足寄の三郡に監督を置く扱所を新設するようにという意見書を釧路郡長から提出された。
 

郡内川上阿寒足寄三郡各村ニ扱所設置ノ義上申
 
当郡内川上阿寒足寄三郡之義ハ、従来旧土人ノミ散居候処二有之候処、地理遠隔ニシテ行路不便ヲ極メ、夏中草生ノ比及冬期降雪ノ際ハ殆ン卜往来ヲ絶シ、土地ノ事情ハ相通セス、土民ノ景況ハ相分ラス。
 
宛カラ他管轄卜一般ノ感アラシメ候次第、例へハ一昨年ノ秋ヨリ、昨年ノ春ヲ掛テ、数十名ノ死亡者アリテ、或ハ一種ノ流行病力又風土病ニアランカト想像被仕候儀二候得共、当時一名トシテ届出シ者ナク、随テ聞知スルニ由ナキ程ノ仕合二候処、今般戸籍検定際シ初テ其之アリタルヲ相覚候次第。
 
又土民力常ニ「タビウド」ト唱フル一種ノ好商久シク部落ヲ徘徊シ、騙欺龍絡ノ手段ヲ以テ不法ノ金銭ヲ貧り、現ニ土民ヲシテ三千余円ノ借財ヲ負ハシメシカ如キ事アルモ、厳重取締ノ方法ヲ設ル事能ハス。負債ノ為メニ強テ身体ヲ引立テ、漁雇二人夫ニ殆シト売奴二等シキ幣習アルモ、之ヲ矯正スル事能ハス。彼ノ鹿猟ノ如キ、年々札幌県下ヨリ数百ノ狩人混入シテ、公然之ヲ猟獲シ遂ニ県下ノ名物ナル此鹿ヲシテ、地ヲ払フニ惨状アルニ至ラシメシモ、亦之ヲ奈ントモスル事能ハス。
 
土地監督ノ法ハ立タズ、土民撫育ノ実ハ挙ラス。誠ニ歎息ノ至り。遺憾ノ極ニ有之就テハ左ノ各村ニ之ニ監督ヲナシ、之力撫育ヲ任スヘキーノ扱所ヲ新設シ、准等外御用掛以上ノ老一名ヲ以テ之ニ充テ。戸長ノ事務ヲ授ケ、兼テハ教育衛生及勧業ノ事ヲ扱ハシメ、又諸通信ノ任ヲ負ハセ、傍ラ鹿猟及好商等ノ取締ヲナシ。専ラ土民ノ撫育ニ従事為致候ハハ、是迄他管轄卜一般ノ感アラシメタル三郡モ、忍地相開ケテ気豚相通シ、多年ノ積幣モ一時ニ相除カレ候様相成可申卜愚信仕候。
 
乃チ川上郡ノ中央ハ熊牛村に候ヘドモ、今般同村ニハ集治監御設置ニ付、別ニ戸長役場新設ノ義上申仕置候次第。依テ同郡ニハ弟子屈及塘路ノ両村ニ、阿寒郡ニハ舌辛村ニ、足寄郡ニハ天足寄村二、扱所御設置相成。其近傍各村ヲ兼督為致候様仕候。別残図面井経費概算調相添此段上申仕候也。弟子屈外二ヶ村扱所経費概算ノ如キハ大抵塘路村同様二付省略仕置候
 
釧路郡長 三澤秀二代理
郡書記 宮木千万樹

 
この意見書は根室県のアイヌ保護に関しての諮問会で、今後の方策についてそれぞれ調査を命じられたのに対して提出されたものであるが、この意見書が出されると間もなく標茶に戸長役場が設置されることになったので、アイヌの人たちに対しての注意は「充分該場ニ於テ取締相立候事ト見倣シ」(『旧士人救済書類』)塘路、弟子屈の事務所はその必要がないという意見書を更に五月に提出している。
 
以上が役場設置までのアイヌ政策の姿であった。
 
「旅人」と呼ばれる狡猾な商人がアイヌを食いものにしていた実態が報告されています。釧路郡長は、このことに心を痛め、アイヌを護るために今の言葉言えば民生局のような部局を設置することを求めています。
 
当時の根室県、ならびにその後を継いだ道の担当官は、アイヌの現状を絶えず心配し、長期的な視点をもって彼らの福祉の向上を図ろうと努力していました。そのことは正しく子供たちに教えるべきではないでしょうか。
 

 


【引用出典】
『標茶町史考 続編』1985・標茶町・531~542p
【図版出典】
①『アイヌ民族:歴史と現在 教師指導書』2018・公益財団法人アイヌ民族文化財団・38p
 ②北海道無料写真素材 DO PHOTO 

http://photo.hokkaido-blog.com/html/03/touroko.html

 
 

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