北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

[美幌]野崎政長と旧土人救済所 (上)

撫育ノ道ヲ尽シ、教化ヲ広メ、風俗ヲ敦フスヘシ

 

オホーツク管内美幌町は、近世から大きなコタンがあり、明治18(1885)年に道庁が置いた「旧土人救済所」からまちづくりがはじまるという歴史を持っています。この救済所の設置に尽力したのが西南戦争の落ち武者であり、初代美幌戸長であった野崎政長です。
 

明治10(1877)年代に「餓死者も出した」というアイヌの人々の困窮は道歴教協『はたらくものの北海道百年史』やや副読本『アイヌ民族:歴史と文化』にも取り上げられ、北海道開拓を否定する材料として教えられていますが、実際には文明社会が大きく進展していく中で、和人とアイヌの共存を双方が模索しあった過程のように思われます。明治10(1877)年代のアイヌ政策を『美幌町百年史』より学びます。
 

■美幌村の誕生

豊かな自然に恵まれた美幌には100名前後の人口を数える大きなコタンがありました。美幌の名前はそのコタンの名前に由来します。『美幌町百年史』は町名の起こりを次のように述べています。
 
明治5(1872)年3月に各郡の村名が定められた。4月には戸長を任命し、行政の基本体制づくりをし、翌年には戸籍調査の予定であった。村といっても住民はアイヌばかりであったから、住民の居住状況により、従来の村落名をそのまま村名とし、1村ごとに居住番号をつけた。明治6(1873)年の人別帳によると、17戸97人が記載されている。明治4(1871)年には18戸、101人がいたから、その間に1戸が転出したのであろう。
 
網尻部は、ヒホロ付、ケネタンヘ付、フレメム村、カックミ村、タッコフ村、ホンキキン村の6カ村が確定したが、美幌川沿いに21か村、網走川沿いに3カ村は、当時としては最も住みやすい地域であったと思われる。
 
村名はアイヌの呼び名に従い、片仮名を用いたが、明治8(1875)年5月には根室支庁布達により、管下1斉に漢字に改められた。「ヒホロ」「ヒポロ」「ビボロ」「ビホロ」などと呼ばれていたが「美幌」に統一されたのである。[1]
 

美幌峠(出典①)

 

■四民平等

このようにして美幌のアイヌも開拓使の施政を受けることになるわけです。明治2(1869)年に開拓使が設置されると、明治新政府はアイヌも和人も平等であると宣言し、封建時代の場所請負商人の隷属していたアイヌを解放しようとしました。
 
明治維新前は、山住の者にも浜に下げられ、漁場に酷使されていたが、明治2(1869)年になると政府は
 

「土人撫育ノ道ヲ尽シ、教化ヲ広メ、風俗ヲ敦フスヘシ。内地人民漸ク移住スル者アリ、宣ク心ヲ尽シ、土人卜協和シ、生業蕃殖風気開化ニ至ラシムヘシ」

 
と訓示があり、開拓使も土人の愛撫をもって開拓の第1要諦となすべきことを宣言している。
 
また、開拓使は、封建的な一切の束縛からアイヌを解放し、四民平等の原則に立って、内地人との間に差別を設けず、一国民としてこれを取り扱うことにした。
 
当時の階級制度は華族、士族、平民の三つであったがアイヌも4年には平民に加えられ、アイヌの男は耳輪をしてばならない。女は今後出生する者についてイレズミを禁止する。死者が出たときを家を焼き払うことを禁ずるとし、漁民の間に文字を覚えるよう指導した。[2]
 
この平等の精神は、アメリカやオーストラリアになどに進出したアングロサクソンと根本的に異なるものです。残念ながら旧来の風習を禁止したことばかりが強調され、その前提にある「土人撫育ノ道ヲ尽シ」を教える書物はありません。
 

■役土人の任命

開拓使はアイヌコタンの秩序を重んじ、コタンの首長を「役土人」に任命し、手当を支給しました。
 
役士人は、村落の代表として士人を統率し、また、官令の伝達、出生、先亡の報告など、官用事務の1端を補助していたため、特別な待遇が与えられていた。
 
役土人に対しては、役料と称して特別給があった。役には乙名、小使、ときには年寄・名主とも呼ばれたが、根室支庁では9年に、これを長と改称統一した。
 

「従来根室役土人惣年寄1ヶ月金五十銭、名主二十五銭、年寄二十銭ヲ給ス。自今役土人ノ称ヲ長卜改メ、給料ハ旧ニ依ル」

 
と達している。[3]
 
以前、週刊朝日編『値段史年表』掲載の明治13(1880)年の日雇労働者の日当を元に当時の貨幣価値を現代に換算しましたが、同じ計算式を使うと、1カ月に惣年寄21万3810円、名主11万1905円、年寄9524円。今の町内会の班長さん程度でしょうか。
 

■和名の戸籍登録

明治4(1871)年の戸籍法でアイヌも和名を名乗るようになります。これは「強制」と紹介されることが多いのですが、戸籍上の都合であって、アイヌ名を名乗ることに罰則もありません。「旧土人」という呼称もアイヌ政策を進めるための便宜上の名称だったことが知られます。
 
明治4(1871)年、戸籍法が公布され、アイヌも和人と同じく平民に編入されて、和名をつけた。アイヌは戸籍面でも和人と区別されることはなかったが、ただ旧土人の称を残したのは明治11(1878)年11月の次の布達によるもので、戸籍上の呼称ではなかった。
 

旧蝦夷人ノ儀ハ、戸籍上其他取扱向一般ノ平民同一タル勿論に候得共、諸取扱等区別相立候節ノ呼1定サザル点ヨリ、古民或イハ土人、旧土人等区々ノ名称ヲ附シ、不都合候条、自今区別候時ハ旧土人ト相称スベシ

 
その名は戸籍上のものであったから、同族間ではしばらくの間は旧名を用いていたようである。
 
安政元年に北海道のアイヌの人口は11万6136人と推計されているが、20年後の明治6(1873)年には11万6272人でわずか46人の増加に過ぎない。美幌は安政5(1858)年に94人であったが20年後明治10(1877)年には95人となっていて、1人の増である。[4]
 

■天然痘予防

開拓によって和人の病気が持ち込まれてアイヌ人口が減ったことが多くの書に書かれていますが、『美幌町百年史』ではアイヌに対して積極的に種痘を行い天然痘から救った様子が報告されています。
 
網走に官立の病院ができたのは明治5(1872)年で、最初は官舎を仮病院としたが、翌6年には62坪の独立病院を新築し、医師も1人が派遣されている。
 
貧窮患者には人院中賄料として1人1日玄米5号、菜代10銭を官給し、薬価も支弁している。患者の多くはアイヌの人たちであったというから美幌からも行ったものであろう。
 
明治8(1875)年には「天然痘予防則」が制定されて、徹底的に種痘が励行された。網走病院を訪れた松本大判官は「種痘もまた山網尻とも合せて近傍大概済み」と記している。この辺の人たちは皆、歩いて網走まで種痘を受けに出かけたのである。[5]
 

■鹿大量死と生活の困窮

本サイトで何度か取り上げている「明治10年代」の飢餓について『美幌町百年史』も言及しています。副読本では「シカ猟の禁止」が飢餓につながったとしていますが、『美幌町百年史』は和人のハンターに対抗するため、アイヌに猟銃を貸し与え、使用法を教えたとあります。
 
山住みのアイヌの人たちの重要な食料は鹿肉と鮭であった。鹿の皮は衣料等にも用いられたから、鹿は大切な狩猟産物として取り扱われた。猟具は弓矢が主であったから乱獲もなく、全道的に繁殖しており、特にこの地方にはいたるところに群れをなして飛び歩き、鹿道をもつくっていた。
 
ところが、明治になると和人猟師が統々と入り込み、猟銃による乱獲が始まり、足寄郡だけでも1年6000頭以上が獲られた報告されている。
 
そこで、根室支庁ではアイヌの人たちの生活を保護するため猟銃を貸与して使用法を教え、猟税を免除して指導にあたった。
 
明治12(1879)年1月から2月にかげて全道的に大雪があり、それに時折の降雨で積雪の表面が凍りついて鹿は動きがとれず、笹などを食べられずに多数が餓死した。
 
十勝・利別川付近は鹿の死骸が川をなし、雪溶け後腐って川沿い10数里の住民は川の水が飲めなかったという。この地方でも美和の川中に無数の鹿角が散乱していた。
 
この鹿の激減で、この地方のアイヌの人たちも大きな打撃を受け、また、アマッポ(仕掛け弓)は危険だと禁止されたほか、網走川の河口には10数か所に鮭の漁場が設けられたため、上流にはほとんど鮭の姿を見せず、食糧に窮して、飢餓寸前の者も現れるようになった。[6]
 

■旧土人の窮状

続いて『美幌町百年史』は明治15(1882)年に、根室県令が「旧土人の窮状」を訴える内務卿・農商務卿に宛てた要請文を掲載しています。わかりやすく現代文に改めていますのでそのまま紹介します。痛ましい窮状が報告されていますが、「飢餓寸前の者」はあっても餓死者そのものは報告されていません。
 

当県管内旧土人の戸数は別紙調書の通り八二五戸あり。これを過去にさかのぼり比較すると、年々減少しており、その原因はまだ不明であるが、過日定期管内を巡回し、彼等の生活の状況を親しく視察するに、従前から魚類と獣類とを獲って食糧とし、穀類を作るのは海辺居住の漁業に雇われる者のみで、総体の二~三割に過ぎない。
 
然るに両三年前から移民が増え、漁業・銃猟も盛んになり、このため旧士人の収穫が落ちるのも止むを得ず、これに加えて、明治十一年は天候不順で大雪となり、多数の鹿種を失い、激減したため、山中の旧士人等は食糧に窮し、飢餓寸前の者もあらわれた。
 
食料さえこの状態であるから、衣類においてはなおさらで、成壮の者は僅かに獣皮を着ているが、児童に至っては極寒中でさえ裸体である。その有様はさむざむとして見るに忍びない。
 
つまるところ彼等は無学で知識なく、時勢がどう動くのかも知らず、いまだ創造の精神なく、自から招いた困苦とは申しながら、無職遊惰の民と同一に論ずべきものではなく、その日常は漸次教育によって変えるより手段はない。
 
よって目下彼等を救済する方法として、穀物や野菜を耕作して食糧とするほか、利益を得ることが大切であるとねんごろに諭したところ、皆々耕作をしたいと申し出があったが、もとより無資力で、農具、種子を買うことはもちろん、耕作の方法も解らぬので、毎戸に本州の農具一通りを官給し、種子はこの土地にあう馬鈴善、大根を購入して毎戸に給し、土人中から選んで村々に伍長を置き、農事を取り締らせ庁員を派遣して耕作方を教示し、次第に農耕のよいことを知り、勉励するに至り、麦・麻等も作付けするようになれば、一は農業を興し、一は彼等の生計を助け、一挙両得ではあるが、ご存じの通り限りある県費では、これ等に応ずる余裕なく、さりとて彼等の飢寒困窮の限りを拱手傍観するのは大変忍び難いので、旧土人撫育として金五千円宛毎年御下付下さるよう、速やかに御許可のほど、このたび至急お伺いする。

 
この要請に対し政府も実情を認め、明治16(1883)年から5年の期限付きで許可した。そこで、県庁においては早速具体方法として、根室県管内土人救済方法を制定した。
 
網走郡は初年の明治16(1883)年から着手することになっていたが、何らかの事情で延期され、指令の出たのは2年後の明治18(1885)年で、実施年数は18年度より20年までの3カ年とし、毎年度300円宛扱所諸費として委任する。また扱所設置費として本年昨限り200円を交付する旨網走祁役所に同時に指示があった。[7]
 
この土人救済方法が美幌の「旧土人救済所」になっていくのです。先の計算式に従えば、取扱所の設置費として952万3809円、以降毎年14281万5714円が支出されることになりました。
 

 


【引用参照文献】
[1]『美幌町百年史』1989・美幌町・53~54p(一部略)
[2][3][4][5][6]同上56~59p(省略文章の入れ替えを行った)
[7]同上56~59p 61~62p
①https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/ec/Lake_Kussharoko_Bihoro_pass.jpg 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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