[美幌]野崎政長と旧土人救済所 (中)
他日善良ノ民タランコト敢テ疑ヒヲ容レザルナリ
大雪と乱獲によってもたらされた明治10年代のアイヌの窮状。これを救うべく根室県は当時、山網走と呼ばれた美幌のアイヌコタンに「旧土人救済所」を設けることにしました。明治19(1886)年事業は道庁根室支庁に引き継がれ、橋本喜之助が和人の一人としていない純アイヌコタンに派遣されました。
■旧土人救済所、美幌町活汲に置かれる

網走支庁境界図(出典①)
根室県時代に立案された「根室県管内土人救済方法」は、そのまま根室支庁に引き継がれることになりました。
根室県から道庁への引継書が『美幌町百年史』に掲載されています。原文はカタカナ漢字の明治の文語ですが、カタカナをひらがなに、現代ではひらがな書きが普通の文字を開いたものを下記に掲載します。
山網走旧土人救済事務取扱所建築に係る件
当所轄内「斜里網走両郡旧土人救済方」、昨十八年より施行され、そのうち網走郡山網走旧土人救済方当衙へ御委任あいなり候につき、その位置を活汲にとし、すなわち救済事務取扱所建築に直ちに着手せんとせしも、その際、郡役所、病院新築等あり、工事すこぶる多端にしてついに着手の余暇を得ず。
よってー時草舎をもって相弁し来たり。もっとも当融雪の期にいたり、速に着手をなし、落成の上は、その事務所に馬一頭、駄鞍一背備を置き、諸人各村奔走に貸与するをもって七里以内く旅費を給せず。三里以上七里までは昼餐料として一日金十銭を給す。
その他、事務取扱順序等規定すべき見込み。かつその山中は旧土人のみにして、宿泊すべき所これ無きがため、おうおうにして不便勘なからず。
よって取扱所備品として寝具並びに食器等を購求したり。その他、米味噌若干を送つきし、官吏宿泊に便ならしむ。
もっともこれがため消費したる物品は、原価をもってその代金を徴収する見込なり。かつまた救済事務取扱所詰人は農業練熟したる者を要するといえども、相当の者かつてこれ無く、やむをえずー時の見込をもって橋本喜之助を遣したり。
しかれども同人は農事に疎く、ここに近頃雇入たる不破直次郎なる者、従来農事に心を尽し、動植物等取り扱いに穎る適当の者につき、彼を差遣し、牛馬取扱方を旧土人に教授し、将来繁殖の計画をなさしめ、本年は洋牛の三歳を四、五頭を購求する見込。
その費用は、取扱所建築費の内、金百三十円をもって落成の見込。その上で取扱所経費を節倹せば、必ず余裕を生ずる胸算なり。果して生ずる暁にいたらばその筋へ上請、速に着手の見込なり。よってここに卿が意見を陳す。
明治十九年二月二十二日 元網走外三郡長 長尾 助信 [1]
■救済農事の御旨趣を懇諭せし
このようにして「旧土人救済所」が現在の美幌町活汲に設けられることとなり、指導者として橋本喜之助ならびに不破直次郎が派遣されることになりました。該山中は旧土人ノミニシテ──和人が一人も在住していない網走川の上流の深い森の中の純アイヌコタンです。
明治20(1887)年に美幌村戸長役場が設けられたとき、15戸93人のアイヌが美幌町管内で暮らしていました。この「旧土人救済所」の状況はどうだったのでしょうか。この1カ月後の報告が『美幌町百年史』に掲載されています。
山網走旧土人の義は、旧古の弊習未だ脱せざるが故に、一人一個にして起業の念なく、また常業相営み、朝夕食を全うするの念慮なく、壮者は海浜に出て他の雇夫となり、あるいは山中に入り獣類を捕獲し、老幼男女は近傍の原野に出て雑草を摘み、これを雑魚に混じ常食とし、また秋季に至れば網走川及び美幌川その他小川において雑魚を捕痩し、越年の食に供し、漸く生活を成すのみ。
これみな旧古の習慣なり。しかるに昨一八年救済の事務御委任あいなり候につき、監督のため当所雇員をして在勤せしめ、爾来救済農事の御旨趣を懇諭せしに、深くその仁慈を感佩(かんぱい=深く心に感じて忘れないこと)し、その村一統農事に着手せんことを望めり。
しかれども因襲の久しき、一朝にしてことごとく旧慣を脱する能わず。未だ農事の厚徳なるを知らざるものも有これ候によって、漸次この旧習を矯正せば、他日善良の民たらんことあえて疑ひをいれざるなり。
また昨年の如きは雑魚その他の貯蔵不充分なるが故に、種子物等悉皆糧用に尽せり。これすなわち旧弊の存ずるところなり。その他異状なき候によって状況及上申候也。
明治十九年三月に十八日 網走外三郡長 [2]
■深ク其仁慈ヲ感侃
報告書を書いた根室支庁官吏の、生活様式、文化の違いから来る〝上から目線〟は今であれば強く非難されそうなところですが、問題はそこではありません。アイヌに対する「強制」があったかどうかです。
辞書によれば「強制」とは「威力・権力で人の自由意思をおさえつけ、無理にさせること」(広辞苑)です。
爾来救済農事ノ御旨趣ヲ懇諭セシニ、深ク其仁慈ヲ感侃シ、該村一統農事ニ着手センコトヲ望メリ
と原文にありますが、この一文に少しでも「強制」の匂いを感じることができるでしょうか? アイヌの人たちに、農業に利があることを、丹念にそして切々と説明した様子が伺えるのではないでしょうか。
これがアメリカであれば、田畑を離れたアイヌは連れ戻され、リンチを受け、農作業を強要されたでしょう。それ以前に撃ち殺されていたかもしれません。
一方、北海道では「強制」の影もなく、アイヌは農地を離れて、自由に海や山に猟に出かけました。それでも──
他日善良ノ民タランコト敢テ疑ヒヲ容レザルナリ
と橋本喜之助、不破直次郎、そして網走支庁の官吏は、どこまでもアイヌの人たちの可能性を信じたのです。
この報文を読んで「アイヌ差別の動かぬ証拠」と捉えるのか、それとも「民族共生の可能性」を感じ取るのか──大きな違いです。現在の北海道では悲しいことに前者が大勢ですが、私は後者の可能性を取りたい。
ところが──というべきか、やはりというべきか、この「旧土人救済所」の農業指導は上手くいかなかったようです。美幌に戸長役場が設けられたこともあってか、「旧土人救済所」の指導は明治20(1887)年限りで終わってしまいました。
アイヌの暮らしも再び野生生活に戻ってしまうのでしょうか。そこに現れたのが初代美幌戸長、野崎政長でした。
【引用出典】
[1]『美幌町百年史』1989・美幌町・63~64p
[2] 同上・64~65p
① 同上52p