北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

[音更] 明治14年 アイヌ部落の総収入
開拓でアイヌは貧しくなったのか?

 

【北海道開拓倶楽部】では明治10年代に道東地方で起こったとされるアイヌの大量餓死事件に注目しています。というのも全道の中学生に配布されている副読本『アイヌ民族:歴史と文化』にも取り上げられ教室で教えられているからであり、北海道開拓を攻撃する材料のひとつにされているからです。
 
けれども当方としては、本当にこのような飢餓地獄があったのか、客観的に見なければならないと考えています。そこで道内市町村史を読みながら、このことに関わる資料を集めています。今回は昭和55年に編さんされた『音更町史』から明治14年のアイヌ部落の収入をご紹介します。

 

●参照リンク 
 
 

■和人の鹿の大量捕殺 アイヌ食糧危機

そのころは十勝のシ力猟の最盛期でもあったようだ。明治14(1881)年の「諸物産表」によると、1月から6月までの半年間に十勝で約3万頭が捕殺されており、音更も820頭と記録されている。[1]
 
このシカの大量捕獲と1878(明治11)年から1879(明治12)年にかけての大雪によって鹿が大量に死んだことが、サケマス漁の規制と併せて特に十勝地方のアイヌを飢餓に追いやったとされています。
 
さて今回紹介するものは『音更町史』記載の明治14年におけるアイヌ部落の収入。もともとは吉田菊太郎氏が所蔵する『十勝国広尾外六郡旧土人共有配当金名簿』という資料の「諸物産表」で明治14年1月から6月までの半年間、音更町域内のアイヌ部落の総生産を調べたものです。明治14年という年代に注目ください。大雪で鹿が壊滅したとされる2年後です。
 

■対価を払った和人 ただ奪ったアングロサクソン 

ここで一言つけくわえますが、開拓期のアイヌを、米国のインディアンやオーストラリアのアボリジニ、ニュージーランドのマリオと同列に考え、彼らが受けたと同じような迫害を北海道のアイヌも受けただろうという根強い誤解がありますが、まったくの間違いです。
 
米国、オーストラリア、ニュージーランドを征服したアングロサクソンは、そもそも先住民族を「人」として考えませんでした。恐ろしいことに動物と同じにして狩りの対象にもしたのです。先住民族の産物をもらうとしても、キツネがくわえた果実を取るのにお金を払うことがないように、ただ奪いました。
 
一方、和人はアイヌが自分たちと同じ人間であることを当然のこととしていましたから、彼からに何かを頼む、またはもらう、には必ず対価を払っていました。その対価が適正なものであったかは別にして、アイヌの意思に反して奪い取るようなことは無かったのです。後の世から見て不当だったとしても、そこに和人のずる賢い欺術があったとしても、アイヌと和人の取引は双方の同意に基づいていたのです。
 

音更町①

 

■明治14年 音更村アイヌコタン 半期の総収入

明治10年代から20年代に鹿皮を求めて和人が大量に十勝に入りましたが、そこには和人からアイヌへの支払がありました。それらをまとめたのが次です。[2]
 
■音更村
◎生産物:アツシ140反、販売129反 (83円85銭)
・獣:鹿820頭、貂3頭、狐2頭、計825頭(951円50銭)
・有害鳥獣:熊2頭(手当計10円)
◎総収入:1045円35銭
◎戸数:20戸・118人(男61人・女57人)
◎戸主:(人名略)
 
■然別村
◎生産物:アツシ9反 (5円80銭)
・獣:鹿250頭(287円50銭)
◎総収入:293円35銭
◎戸数:2戸・10人(男5人・女5人)
◎戸主:(人名略)

 

『音更町史』61P

■東士狩村
◎生産物:アツシ43反、販売38反(24円70銭)
・獣:鹿910頭、貂5頭、狐6頭、計921頭(1062円)
◎総収入:1086円70銭
◎戸数:9戸・60人(男33人・女27人)
◎戸主:(人名略)
 
■西士狩村
◎生産物:アツシ23反、販売19反 (12円35銭)
・獣:鹿410頭、貂3頭、狐4頭、計417頭(481円)
◎総収入:417円35銭
◎戸数:4戸・20人(男12人・女8人)
◎戸主:(人名略)
 
■美蔓村
◎生産物:アツシ19反、販売16反 (14円40銭)
・獣:鹿440頭(506円)
◎総収入:516円
◎戸数:4戸・20人(男8人・女12人)
◎戸主:(人名略)
 
「アツシ」はアイヌの伝統衣装です。「販売」というのはちょっと分かりませんが、貴重な換金商品になっていたようです。音更村では「有害鳥獣:熊2頭(手当計10円)」とあります。開拓使が2頭の熊を駆除するのにアイヌに支払った謝礼でしょう。
 

■年収1000万超えのアイヌも!?

当時の金額で400円から1000円の収入が記載されていますが、これらは現代の価値に直すとどうなるでしょうか? 朝日新聞社の『直段史年表』(1988・週刊朝日編)によれば、明治13年の日雇労働者の1日あたりの賃金は21銭です。現代の土木工事労働の1日の賃金は9000円から1万5000円、計算しやすく1万とすると、明治13年の21銭が現在の1万円に、当時の1円は現在の4万7619円になります。これを元に明治14年のアイヌ部落の収入を表にすると次のようになります。
 

 
明治14年、音更のアイヌ部落では1戸当たり336万から961万もの収入があったことがわかります。しかもこれは1月から6月の半期です。単純に倍になるとは言えませんが、年間収入はこれより上回ることは確実です。
 

■アイヌを潤した開拓という国家事業

こう見ると、開拓によってアイヌは窮乏の底に落とされたという事ばかりが強調されますが、単純にそう断定することはできません。
 
北海道開拓は明治国家を総力を挙げた大事業で巨額の国家予算が費やされました。和人は必ず対価を払いましたから、そうした拓植予算の少なくない額がアイヌを潤したのです。
 
事実、明治19(1886)年頃の標茶の様子を報告した道庁による『北見釧路国巡回日誌』には
 
土人ノ現今ノ生活ヲ視ルニ、概シテ暮ラシ安キモノノ如シ。何トナレハ標茶ノ開市ニヨリ、或ハ雇人ト為り、或ハ其他ノ方法ヲ以テ利ヲ得ル、又昔日ノ比ニ非ス。故ニ衣服二食類に漸ク風化シ、今日ニ至テハ毎戸一日一回以上ハ必ス米ヲ食スニ至レリト云フ [3]
 
と、開拓に関わるさまざまな事業を請け負うことで昔日とは比べものにならないほどアイヌは豊かになり、和人入植者が食べたくても食べることのできなかった白米を毎日食べているアイヌの豊かな暮らしが報告されています。
 
開拓によってアイヌの伝統的な生活基盤が失われ、生活が激変したことは確かですが、一方的に困窮に陥ったとする見方は単純すぎるようです。開拓によって豊かになっていったアイヌの姿もあったことは忘れてはならない視点と思います。
 


 

【引用参照出典】
[1]『音更町史』1980・60p
[2] 同上61~62P
[3]『標茶町史考 続編』1985・標茶町・539p
 ①音更町公式サイト https://www.town.otofuke.hokkaido.jp/life/mainichi-seikatu/ijuu_teijuu/ijyuu-teijyuu.html

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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