北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

北海道開拓の先駆者 2020/1/30

[中川町]明治27年『天塩雑記』─旧土人保護法に悪意はあったのか?(上)

 

明治の「旧土人保護法」と言えば、アイヌを困窮に追いやり、差別の元兇として悪法の名をほしいままにしていますが、「旧土人保護法」をつくろうとした明治の人たちに、はたしてアイヌ民族を貧困に追い込み、富を収奪しようという悪意があったのでしょうか。そのことを考えるうえで参考になる事例を『中川町史』で拾いました。「旧土人保護法」の10年前に天塩川流域のアイヌを集めて農耕を教えようとした記録です。

 

 

■「天塩雑記」

『天塩雑記』については、誰が、いつごろ書いたのかわかりません。
ただ先に記述した蔭山・奥津の復命書と目次・内容・文書に至るまで全く似ており、当時の増毛郡長であった林顕三が書いたものか、あるいは『天塩雑記』の原本を所持していた加納久三郎(豊富の名付親で天塩地方の木材業の発展に尽した人)、またはこれら以外の人なのか今後の研究をまたなければなりません。
 

天塩川神路渓谷

天塩川神路渓谷(出典①)

年代については、『天塩町史』の基礎となった『新天地の天塩』(大正4年7月発行)の参考査料の中に「本編は今より20余年前に某道庁員の実地調査に係る『天塩雑記』というものより抄載したるものにして……」となっていることを考えると、明治27(1894)年ころと推定されます。
 
いずれにしても、天塩川流域の状況を極めて詳細に記録した書物で、資料の少ないこの地方としては誠に貸重であり、参考となるものが沢山あります。
 
特に、天塩川沿岸に散在するアイヌ(土人)を集合させる適地として、ボンピラ・アべシナイなどの名を挙げ、またアイヌの救済対策として農耕指導の必要性を説いていますが、筆者は高い見識の人であり、行政の上でも地位のある人と考えられます。以下、これらを中心に本町と関係ある部分を示しておきましょう。
 
続いて『中川町史』は『天塩雑記』で中川町に関わる部分を引用しています。なお文中に「土人」という言葉が頻出しますが、あえてそのままとしています。今では差別的な響きのある「土人」ですが、明治の頃は一般入植者、私たちのような一般和人住民は「土民」と呼ばれていました。「土民」と「土人」ですから、現代の私たちが思うほど「土人」は差別的な言葉でなかったとことを念頭においてお読みください。
 
なおこの引用文は、一部の漢字を平仮名にするなどいくぶん読みやすくしてありますが、後段に当方で現代風に読み下した文もつけていますので、そちらを先に読まれても構いません。
 

■土人救済の目的
土人をして応分の生活を為さしめ、その智力を啓発せんと欲せば、行政の便宜上、これをある一部に集会せしめて、保護するを可とす。
 
しかして、彼等の集会せんとなすや、漁猟に便なる地を利とするがゆえに、ただ一部にのみ多数集会するにおいては、種族の隣保緩急に救援するの利あるも、漁猟の如き、拙劣の漁法、その収獲限度あるをもって多数の供給を充たすに至らず。むしろ各地に散在して漁するときは反て収穫多くして生計容易なるをもって、ー所に集合することは策を得たるものにあらずとなすものの如し。
 
保護として多額の費用を投じ、これを企画すれば、ことごくその目的を達する事を得べしといえども、先づポンピラ、アベシナイ、ペケルル、ナイブツの4ヶ所に部落を定め、土地の貸下を許し、開墾せしめ、農具・種子を給与して農事を奨励し、まず家屋構造を改良して、衛生に資せしむるを最も緊要のこととして、保護のため、これらの事業を企てんと欲せば予算の許す限りは、年1回吏員を巡回せしめ、穀菜栽培の方法を教え、実況を査察せしむる急務たることを信ずるなり。
 
かつ鮭鱒の漁期においては近年各地より来たり、密漁を企つるものあるをもって、吏貝を天塩村に在村せしめ、天塩川において出入する船舶を監視すれば、鮭鱒繁殖、土人の保護にとどまらず、林木盗材の弊を防ぎ、森林の保護上においても必ずや得策あらんとす。

 

■土人部落の適地
現在、天塩・上川の土人は各所に散在し、その距離遠隔にして4里に1戸、5里に1戸、数所に散点し、陸路交通を絶つをもって、土人の往復は刳舟(くりふね)に頼り、幾多の淵瀬(ぶちせ)を上下し、緩急相応じ救済すること能わざるをもって、なるべく適当の位置に部落を作るべきは、将来土人保護上の得策たるをいう。
 
ー所に居住せんことを勧請せしに大いに感じ、年々期し「ナヨル」標津(士別)(シペツ)の川上に住する者は、字「ナイブツ」(内淵)に相集まり、部落になさんとする計画をなし、茅舎、敷地を物色せり。
 
しかしして部落を集会して、将来一部落をなす適当の位置は、字「ナイブツ」(名寄市=内淵)、「ペケルル(美深町)「アベシナイ」(中川町安平志内)「ポンピラ」(中川町誉平)の4ヶ所とす。
 
「ナイブツ」はナヨロ川の本流に合流する左岸にありて、ナヨロブト原野に入るの関門たり。現に土人小坂吾市、ここに住す。下流より遡行してはじめてここいたれり。南方の一面豁然(かつぜん=パッと開ける)として、山岳遠く連り、樹林際涯なく、宛然(えんぜん=そっくりであるさま)別天地に出たるの感想あり。
 
土地肥沃にして、ヨモギ・ナナッパ・虎杖(いたどり)等丈余に生長せり。対岸に殖民地撰定標及び防災予防調査会の磁力測定票等の標柱あり、屯田兵用地もまたここにあり。
 
「ペケルル」はナヨロの下流4里、川の右岸にして位置高燥、陽に面し、樹木少なし。笹の繁生せるをもって見れば地見はなはだ少われり。土人下田仁八、横山久兵衛、横山久作の3戸現住せり。その崖下水流淵をなし、鮭漁の漁獲に便あり。対岸は卑湿にして柳樹密生す。
 
「アベシナイ」はペケルルの下流およそ16里。アベシナイ支流合流の地の左岸にあり。土人佐々木元八現住す。土地肥沃にして肛豆(ささげ)・南瓜(かぼちゃ)・玉蜀黍(とうもころし)・大根を試作せるも大いに良結果を得たり。土人佐々木与八の茅含はアベシナイ川に入ること10町余の樹林内にあり。
 
「ポンピラ」はアベシナイの下流およそ4里の左岸にあり。樹林一帯肥沃高燥の地たり。土人藤浦安太郎(26年中に天塩村より移住)の居舎ここにあり。3畝計りの地を耕し、ばれいしょ・大根を栽培せるを見る。発育もすこぶる普良なり。
 
その他部落をなすに足るの地ありと認むるも、おおむね地形低くして融雷のころに出水、岸上に溢水して数尺を決すのおそれをもって部落の地となすに適せず。

 

■土人差配の任命
明治16(1883)年の頃、元札幌県属官、戸藉調査においてその生死増減の届出なさざるをもって、その実態を知ることを得ざりしをもって、よって遡行を機とし、土人の推挙すると認むるものに戸長より土人差配を命じ、人の生死はもちろんその他の利害得失に関する事件あるときは、戸長役楊へ便宜通告べきことを示達せり。そのの差配を命ぜしはペケルル下田仁八にして、ペケルルより上流に住居する一戸を管し、アベシナイ佐々木元八は、アベシナイ・ポンピラを管すべき事を命ぜり。

 
(原注)差配とは所有主に代って貸家または貸地を管理すること。またはその人をいう。また手わけして事務を取り扱うことをいう。
 
  

『天塩雑記』を現代風に読み下してみましょう。

 

■アイヌ救済の目的

アイヌの方々に通常の暮らしをしてもらい、彼らの能力を発揮してもらおうと望めば、行政上の便宜からも、一箇所に集まってもらい、保護するのが望ましいのです。
 
アイヌの方々も、一箇所に集まる方が互いに助け合うことできるのはわかっているのですが、散らばって住むのは彼らの生業である漁猟は生産性が低く、集落の多数に供給することができないため、散在した方が生計が容易だからです。
 
しかし、行政が相応の費用を投じて保護を行えば、一箇所に集まっても暮らしは成り立ちます。
 
そこで、まず内淵、美深、中川町安平志内、中川町誉平の4ヶ所に部落をつくり、農具と種子を給付し、農業を奨励すること、家屋を改良して、衛生状態を改善することはすぐに行わなければなりません。
 
この事業を成功させようとすれば、予算の許す限り、少なくとも年に1回は係官を巡回させ、栽培法などを教えることは急務です。このことは最近増えてきた密漁や密伐を防止するためにも役立ちます。
 

■アイヌ部落の適地

現在、天塩川沿いに散在しているアイヌの人たちは、12キロに1戸、20キロに1戸と離れて暮らしています。
 
陸路は途絶し、木をくり抜いた小舟を頼りに川を上がり下りしています。急な場合はもちろん、普段のときでも何かあった場合は助けに行くことができません。
 
そのため、できる限り適当な場所に部落をつくって集まってもらうのが、アイヌの人たちの保護のためにも望ましいのです。
 
一箇所にまとまって暮らすことを薦めたところ、アイヌの人たちも大いに感じ入り、すでに士別の川上に暮らしているアイヌは内淵に集まって部落をつくろうと計画し、住居や土地を探しています。
 
このようなことから、集約する部落は、内淵、美深、中川町安平志内、中川町誉平の4箇所としました。
 
続いて『天塩雑記』の原文は、4箇所のアイヌ部落予定地を紹介しています。読み下しは省略しますが、いずれも選び抜かれた一等地であることが見てとれます。
 

■土人差配の任命

明治16年頃に札幌県の戸籍調査でも、住民の人口などがわからなかったので、天塩川を遡ったことを好機として、アイヌの方々から推薦を受けた人を戸長から「土人差配」に任命し、出生死亡はもちろんのこと、困ったことがあれば戸長役場に連絡するようにしました。
 
 どうでしょうか? 明治の官僚=いわゆるお上の文章なので、今読むと強い〝上から目線〟は否めないのですが、それは書いた人の意識というよりも、明治の役人の文章とはこういったものだったのです。書いた人に罪はありません。
 
素直な印象として、アングロサクソンが新大陸で示したような激しい差別意識、アイヌを劣等民族(アングロサクソンは先住民族を「人」とすら認めませんでした!)として位置付け、収奪を当然とするような野蛮な意識が伺えるでしょうか? 感じとれるのは、アイヌの人々のよりよい暮らしを願う純粋な善意ではないでしょうか?
 
さて、この移住は強制的なものだったのでしょうか。「下」に続きます。
 
 

 

【引用出典】
『中川町史』1975・中川町・46-47p
【写真出典】
「中川町公式サイト」見どころガイド 

http://www.town.nakagawa.hokkaido.jp/sightseeing/midokoro.html

 

 
 

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