北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部


 
 

【解説】本庄陸男並びに小説『石狩川』については
こちらご覧ください。今回のお話は史実では次のようになっています。(※『当別町史』(1972)参照)
北海道開拓を志した仙台藩岩出山領主伊達邦直は明治4(1871)年、180名の移民団を率いて厚田村聚富に渡ります。しかし、ここは砂地で農業に適さず、作物は育ちませんでした。
 困窮した一行は、明治5(1872)年5月3日、現地を視察に訪れた開拓使長官東久世通禧に願い出て、入植地の移転を許可されます。
5月8日、適地とされたトウベツ原野に向かうべく、吾妻謙、安倍旃三郎、戸田定之亟、横尾喜平、小野省八郎が調査に出発しました。長官の視察からわずか5日後。それほど状況は切迫していたのです。しかし、1回目の探査は失敗。1週間後、新たに湯山陽平らを加えて再挑戦しました。
今ならば山を迂回するところですが、一行は聚富から山を超えて直線距離で当別に向かおうとしました。小説は調査団が当別の山中で難渋するところから始まります。
 小説中の阿賀妻は岩出山家老の吾妻謙をモデルとしており、小説『石狩平野』の主人公です。地域の「土民」が案内に雇われていますが、当時、一般の和人は「土民」、アイヌは「土人」と呼ばれていました。

 

 

(1)

 
もはや日暮れであった。濶葉樹のすき間にちらついていた空は藍青に変り、重なった葉裏にも黒いかげが漂っていた。進んで行く渓谷にはいち早く宵闇がおとずれている。足もとの水は蹴立てられて白く泡立った。が、たちまち暗い流れとなって背後に遠ざかった。深い山気の静寂がひえびえと身肌に迫った。
 
ずいぶんと歩いたのである。道もない嶮岨な山を掻きわけて登り、水の音を聞いてこの谷に降りて来た。薮と木の根を伝い、岩をとび越えまた水の中を押し渡り、砂礫を踏みつけた。午食を使って間もなく、踏みぬいた草鞋を履きかえた。次第に挟ばまり細くなる流れを逆にさかのぼっていた。
 
この尾根を越えてしまえば目ざしている土地に出ることが出来るであろう。出来るはずだ──と云うのであった。まだか、まだ来ぬのか──と彼らは心のどこか隅の方で叫んでいた。口には出さなかったが、脛から腰にかけての、この硬ばる疲労はどうすることも出来ないのである。
 
たのみにするのは四五間先を歩いている案内人であった。早急に思い立った踏査に、取りあえず、大急ぎで雇い入れた附近の土民であった。
 
──それほど狼狽していたのだ。辛うじて許可を得たその土地では開墾の見込みが立たなかった。
 
前の年の経験が痛々しいのだ。携えて来た種子は何ひとつ実らなかった。風土の変化ばかりではない。脆い土はざらざらと手から洩れ、冷たい風が終日海から吹きあげ、針葉樹も満足に育たないような荒れ地であったから、彼らの顔に浮ぶ不安と動揺は見のがせない。ようやく納得してやって来た最初の年のことなのだ。
 
祖先の地を追い立てられて、こういう方策を取らなければならなかった彼らは、ともに哀しい境涯であった。それ故に、一切の将来を政府の誠意に任せて信じていたのだが、これは余りに冷酷な扱いであった。
 
これでは仕方がない。しかし、こうして呉れと云う要求も出せない破目になっていた。それもまた、みんな承知している。云わば敗れたものにあたえられた窮命である。にも拘らず、だからどうにかしなければならぬと云う悶えも胸を去らなかった。
 
はじめて知る長い極寒の雪に埋れてそれを考え、それを相談した。いまだに贖われないほどの罪科を犯した自分らであったろうか。──内心の不平は、思いあまった人々の限を血走らせるのであった。
 
それをたしなめて、もとの家中の重役にいた阿賀妻は、とに角、春の来るのを待っていた。日本海の水が緑を帯びて、日毎に南の風があたたかくなって来た。うっ積した人々の気持にも季節のめぐみは一脈のやわらぎを伝えるのであった。
 
政府の方針が開拓に向けられてるのであるならば、まだ殆んど手をつけていない広いこのえぞ地に、彼らの住む恰好の土地が無いはずはなかった。えぞ地をおいて、生きる余地はすべて塞がれた、と、そう、思いつめた彼らだ。
 
新たな土地を探さなければならない場合であった。
 
あたかも開拓使長官の一行が巡視して来た。ありのまま見て貰えばよかったのだ。どんな素人にも判然としている悪い土地であった。眉をひそめた彼らは、速やかに肥沃な土地を選定して、至急貸付けを願い出ろと諭した。──ありがたき仕合せ、と、それを受けた。愁眉をひらいたのである。思わず頭を低げてしまった。  
 
その様子をじろじろと眺めていたのが玉目三郎であった。馬に乗って遠ざかる彼ら支配者を海岸路に消えるまで見送った。そして、阿賀妻らがほっと顔をあげたとき、彼の目に映ったのは、ひとり傲然と唇をゆがめているその男であった。
 
彼の肩先がどういう考えを現わしているか、聞いてみるまでもなかった。この集団移住を率先してひきいている彼らの主君がそこにいなければ、口を極めて罵ったかも知れない。──云う迄もなかった。憐慰をあたえるような態度で土地選定を慫慂した馬上の男は、ともに天をいただかずとした薩派系の人物であったことだ。しかしそれも時と所が変っていた。前途をきり拓こうと腐心している阿賀妻らの態度と、それを不甲斐なく見るもののあるのも是非ないことであろう。
 
はげしい時代の動きは、家中の地位によって概ね二派の意見を醸すのであった。陰に陽にあらそいながら、行くべきところに行き着きかけていた。そういうところへひょっこり現われた一つの躓きが、沈んでいた反目をまたしても掻き立てるのである。玉目三郎の不満げな態度がそれを代表していた。
 
お互いの心をすみずみまで知っているのは旧主であった。家中のものは彼の顔色を注視した。──裁断を待つのである。
 
古くからの仕来りによって「殿──」と仰がれていたその人の胸のうちほど複雑なものはあるまい。痩せた土地を投げるけるように与えられ、じっと我慢していた彼らの気持ちの大根(おおね)には、こういう旧主の心遣いが貫いていたのである。沮喪した家中のものと共に、生きもしよう、死にもしようと、両肌を脱いだ彼の決意を蔑しろにすることは出来なかった。
 
彼もまた「ありがたき仕合せ」と挨拶をした。屈服であったが、それもまた止むを得なかった。それでは──と、移住計画の主事に任ぜられていた阿賀妻の胸にひらめいたのは、トウベツという土地であった。
 
既に松浦武四郎踏査による地図によって先頃からひそかに調べておいたものであった。広姿百里、樹木鬱蒼たりと聞き伝えた平原であった。そこを灌漑する川は沼から来る川の意味によって、トウベツ河と名づけられていた。間もなく合するのは大いなる石狩川。流れ下った河口の海港に達するまで、この間はおよそ六里半か。河舟による交通や運送も不可能ではあるまい。
 
せまい開墾小屋の外まで居ならんだこの家中は総勢四十六人である。髷を切ったものも相当あったが、脇差だけは離しかねていた。こういう悲惨な姿で、こういう目的のために寄り集まろうなどと五年前の彼らは夢に見たこともなかった。小屋小屋の軒や戸口では女子供らがしのび泣くのだ。それは明治四年の旧五月四日であった。
 
梅雨の来ぬ間にという心づかいもあった。阿賀妻に一切をゆだね、まず踏査を試みることになった。主命を命じられた彼は、応急の処方も心得ている戸田老人、先ごろも行を共にした大野順平、それから玉目三郎どのにお願い申すと云った。
 
案内一人、荷物を運ぶ人夫二人。五月五日の早朝、方向を南東にとって出発した。絵図面の上での目測ではざっと十里。山越えをして行ったとしても二日の行程で足りよう。
 
歩けど歩けど一向にそれらしい平地は見あたらなかった。その日は一日歩きつめた。次の日も一日いっぱい歩いた。そうして三日目になっていたのである。ほの暗くなった谷峡は、またたく間に闇に埋められた。砂の上に立った阿賀妻は、前に行く案内人を呼び止めた。
 
「おい、ちょっと待て」
 
次第にこの案内人に信用が出来なくなったのだ。第二に彼が頼みにしていたのは磁石であった。図面はこの案内人も云う通り、奥に入れば想像で描かれている不完全なものであった。あとは自分の直感に頼るだけである。
 
「どういうことになっているんだ?」とつづけて云った。
「それを、あっしも今考えているところだ」
「なに?」
 
後のものは、そこの渓流をこちら岸に横切っていた。彼らの足で掻きまわされた水がじゃぶじゃぶと音立てて案内人の言葉を消してしまった。
 
「待て──」と阿賀妻は珍しく険しい声で云った。
 
相手はそれを予期していたふうであった。いくらか猫背になった道案内は、五・六間離れたむこうの岩に立って首をすくめていた。倒れ込んだ巨木の幹が問を隔てていた。うす闇の中に身をちぢめた彼は小さくなって次の言葉を待った。
 
「戻って来い」
 
思った通り。今度は取りひしぐような強い声であった。ごつんと膝頭をぶつけた彼は、あたりに木魂した声を遠く聞いて、ふるえ声で答えた。
 
「戻るには戻りますが…」
「どうなさいました。」と、中年の大野が笠の紐をゆるめながら訊ねた。
「方角がちがうようだが…」
「そうですか…」
「ちがいましたかな」と、戸田老人はふところを探った。図面を取りだしたのである。
「どこを案内しよったのでござりましょう、あいつめは」そう云って、きっと限をあげたのは玉目三郎であった。二言目には脇差に手がかかった。
「斬るぞ」
「まあ、まあ──」
 
岩の上に立ちすくんでいた頬かむりの男は、枯れ枝の先をつかんでおそるおそる向き直った。疲れた人夫らは湿った砂にべったりと腰をおろして背負縄をずらした。煙管を咥え、かちりと打った石の火がぼっと赤らんだ。
 
四人のものは頷を集めていた。阿賀妻の掌にある磁石の虫に見入るのだ。汗ばんだ硝子の底でぴくぴく動いている磁針に目をおしつけて行った。おもむろに老限鏡を取り出して戸田老人が云った。
 
「なるほど、これでは逆の方角になるようじゃな…」
「道にまよわしよったな、貴様は──」
 
そばに来ていた案内人は玉目の声に一足とび退った。
 
「それでもう、さい前からいろいろくふうして歩きましたが…」
「くふうとは何じゃ?」と阿賀妻が云った。
「へえ、つまり、その…」
「貴様──いつ、その地に参った」
「一昨──その前の年でしたかな。あれは何でも、兵部省とかの仕事で…」
「季節はいつじゃ、夏か、冬か?」
「それが冬で──」
「冬う?」と阿賀妻はうなった。
「しからば雪のあるときじやな」
「つまりそう云うわけで」
「この方面に相違ないか」
「──と、そう思ってご案内いたしましたが、こう山の中にはいり込んで、こう草木がしげっていたんでは、皆目見当もつきませんで──」
「ばかッ!」
「へえ」
「しかし、われらにも落度はあるというもの──」と、阿賀妻は仲間のものに向きなおった。
「ここらで夜を過して、明日はまた明日の日を待たずばなりますまい」
「どう致しましょう」
 
崖の下にその男を追いつめていた玉目三郎は、阿賀妻をふりかえってそう云った。星明りに彼の瞳が白く光った。指示を受けるように、彼が「どうしましょう」とたずねることは、この曖昧な男の成敗を意味していた。
 
一図に彼は思うのだ──大切な彼らの一両日を踏みにじってしまった、と。それはまた彼の若い心に消えていない硬論のなごりでもあった。思いは他の三人の胸にも通じていた。それを喰いとめて、た易くは爆発させ得ない年齢の垣が出来ていたに過ぎない。むしろ、同じ思いを胸にひそめて、ふきあげる激しい意志をこのような未開の地に捻じ向けたのである。主家の安泰ということが第一であった。
 
その理屈が判らぬ玉目三郎でもなかった。主家の安全のなかには、おのれ自身の安全も含まれていたからである。おのれと主君とは一つの囲いの中に棲んでいた。殊にそれが、先祖の位牌を譲り受けた戸主にとっては退っ引きならぬきずなであった。
 
「放つときなされ」と戸田老人が低く云った。大野順平も笑って云った。
「むしろ刀の錆でござろう。われらの斬らなければならぬものは、こんなものではありませなんだ」
「人夫ども──」と阿賀妻は、そういういざこざから話を避けて煙草をふかしている男たちに云った。「何分とも空腹を覚える。先ず火を焚かずばなるまい。飯を炊いて貰いたい。明日のために身休を養わずばなりますまい」
「この場所で?」
「結構結構」と阿賀妻はあたりを見まわした。選り好みはなかった。野宿の心を決めていた。
 

(2)

 
夜明けのうすあかりはいつまでもよどんでいた。立てこめた深い霧が、時とともに渓谷を満すのであった。ぞっとするほどの冷たさを感じて玉目三郎は眼をさました。乳色の靄に隔てられ、赤い焚火のあり場所がひどく遠いもののように見えた。
 
すぐに起きだした。その周囲にいる仲間の姿もぼやけていた。せせらぐ水音の中で話している彼らの低い
声もよく聞き取れなかった。それがあたりを埋めた霧のためであると気づいたとき、彼はすっくと立ちあがった。不覚を取った恥かしさを覚えた。ごめん──と口の中で云って彼は流れのそばに立った。その小さな川の水を掬って口を漱ぎ、顔を洗った。深山の水は切れるような冷たさであった。洗われた肌には爽昧の精気が浸みとおった。
 
「お目ざめか」
 
戸田老人が靄の中でふりかえってそう云った。彼の一言は何かの合図のようであった。それまで焚火を囲んでいた人夫たちが急にごそごそと動きだした。今は人夫に凋落した咋日の案内人は、彼の傍を通るとき、うやうやしく頭を下げていた。彼らは彼の眼覚めることを待っていたのだ。
 
人夫の一人は朝の食事をひろげだした。他のものは荷ごしらえにかかかった。木の枝に張り渡した菰をはずし、刈り草の上に敷いた筵を巻きはじめた。朝の挨拶を受けた阿賀妻は、目もとに笑みをたたえて彼のために席をあけた。
 
「そなたは苦労もなげによう睡っておられた。夢など見てはいなさらなんだか?」
「汗顔の至りで──」
「猛獣にも襲われず、まことにゆったりとして一夜を過しました。久しぶりの熟睡でした。さて本日の行程じゃが、この霧では…」
 
彼はきり立った岸べの木々を見あげた。それさえ半分は隠れていた。
 
「山越えは更に迷うばかりでござろう。今もその相談を致して居りましたが、そこで、こういう風に──」
 
夜っぴで燃しつづけていた焚火の上に、彼は更に一握りの枯れ枝を投げ入れた。火の粉が舞いあがった。膝をたてていた仲間の顔がぎらりと輝いた。
 
「大野どのも賛成なされたので──」と阿質妻が云いつづけた。
 
彼らはこんな困難な旅の経験者なのだ。だからそれは命令であった。けれどもまた相談でもあった。昔のように強制することは出来ないのである。各々のものは同じ立場で同等の権利で談合を進め、納得しなければならない。
 
「こういうことでござる──」と、阿賀妻は湿っぽい地図をひろげて、指さしながら説明した。
 
「幸い貴殿はあのものを生かして置いてくれたので、ひとたびこちらの原野──オヤフロの野と書きこまれているこの地点に立ち戻り、目ざすトウベツの山を見定め、しかる上はすべてわれ等の才覚にて行き着き得べしと考えるが、いかがでござろう? 予定の三日はむなしく過した。よって本日は最大の努力をいたしたい。ざっとこの間、七八里と見積もればよかろうか。──あやつ、捨て置き難きものなれど、残念ながらわれら一同、一向に土地不案内、トウベツはよき土地なりという風説のみにて、ありようは地形もしかと存ぜぬわれら──ご承知下さるか?」
 
無論それに異論のあろう筈はない。
 
「しからば──」
 
阿賀妻は人夫をさし招いた。椀にくんだ水で食後の口を洗った戸田老人は、ごま塩の長い眉毛をつきだして大野順平に話しかけた。
 
「見て下さらんか? 虫が喰いついとるようで」
「どこでござる」
「この中で──」と、老人は枯れた指で自分の眉毛を示した。
「ははあん?」
「まん中あたりと覚えるが…」
「これでござるか」
「それ、それ──おお!」碗を片づけていた人夫がのぞきこんだ。
「ダニですぜ、ご老体」
「ダニとは何じゃ?」
「毛のあるところに喰いつく虫で」
「さて血迷ったかこのダニめ。老人の血がうまかろう筈はあるまいに。──取って呉れんか」
「どれ──」と、近くの人夫は大野を押しのけていった。
「要領がありましてな。首だけ取るとまたあとが腫れる」
「奸賊めが!」
「そら!」と掛声した。人夫は爪に挟んだ豆粒大の虫を彼らに見せて「笹やぶに、どうも、多いらしい。これは熊か鹿に喰いつくやつでしたろう」
「極刑に処して下され。火の中にたたきこんで下され」
その虫は燠(おき)の上でぷちりと動転した。
「薩賊のごときやつでござった」と老人は立ちあがった。彼らは声を合せて笑った。
「よろしい、火を消して──」と阿賀妻も草鞋をふみしめていた。
「出発いたそう」
 
穿った谷底にいた彼らにとって、朝は、蓋のようにかぶさる頭上の霧からゆっくり近づいていた。流れに沿って歩く彼らの足は早かった。しばらくは、昨日無駄に歩いた岩根や草やぶを踏みつけて歩いた。揺れ動くこまかい水滴の雲に、おもてを割って進んで行った。着衣もべっとりと湿った。菅笠のふちには、いつの間にかしずくが溜っていた。
 
やがて、見覚えのあるシラツカリの渓流であった。横ぎって南に出て、ぬっと胸を突きだしたような段丘を越えねばならぬのである。露の散る草やぶを踏みわけて、這うように斜面をのぼった。蔓につかまり根木に抱きついた。つま先をさか立てて足を喰いとめた。手と足と──文字通り四肢をつかってあがって行った段丘は雑木に蔽われていた。丈なす笹やぶがつづいていた。参差する草木の海を泳いで、磁石の針に導かれているのである。
 
おいおいと消えて行く霧の彼方に、その土地の高低起伏が隠見した。木の間がくれに洩れる六月の陽が汗を滲ませた。羽虫が目先をちらついた。虻が追いかけて来た。しめった草の根から湧きだす糠のようなぶよが、脚絆のあいめ、手甲の結びめなどのやわらかい皮膚に忍びこんで来た。汗と垢と脂と、ぷんぷんとした体臭をまき散らした。それを慕って襲いかかる虫であった。
 
空は晴れたが風はなかった。樹木の底は蒸されていた。照りつけだした太陽は慌しく押しよせる真夏の暑気に近くなった。草の海はむんむんと熱して来た。押しおけて進む彼らは、地を這う虫のようにも見える。郭公鳥(カッコウ)がしきりに鳴いていた。
 
誰一人、一語も発しないで歩いた。ひとりでに先導者の立場になっていた阿賀妻が、終始先頭をきって進んでいた。菅笠のかげにある深い眼窩には冷酷なほどひかる瞳がすわっていた。するどい鼻唇線を横にさえぎって固く結ばれた口。手甲、脚絆の装束に尻からげをしていた。脇差をぶちこんだ中背の体傴は、けだものの足跡もない荒野の草木を胸で押し割っていた。
 
鍛錬した目的はちがっていたが、こういう困苦に向って彼の引き締まった肢体はいよいよ弾んでいるようであった。受け継いだ血と、思い定めた一旦の意志が炯光を放つのだ。引きずるように一行を導いていた。──めぐり合せた困難に対して、彼の心は沈潜した火を燃すのであろう。家中に於ける責任ある位置が、響きを立てて廻る目まぐるしい時世のうちに凝固した。
 
いかなる場合にも善処すること──と、そういったのは、早世した父の訓えであった。その一念を体して彼は主君の側近に侍った。それからの日々は、安政、万延、文久、元治、と聞くだけでも多事である。──そして慶応四年であった。たちまち改元されて明治の元年となった。
 
正月、戊申の戦いの意味もまだ分明しないうち、早くも同じく三月には奥羽鎮撫の征討軍が起された・順逆の態度を考えるひまもないほど、ことは矢つぎばやに起った。
 
奥羽の二十五藩は去就にまよっていたのである。彼らの小さな支藩といえどもその例に洩れなかった。しかし大勢の方向は決っていた。直接の目標とされた会津さえも降伏を願っていたではないか。それを阻んだ征討軍参謀の世良修蔵は遊興の巷で殺された。
 
その者の持っていた「奥羽皆敵」の密書が発かれたのが四月十九日であった。五月三日には、それならば──と、臍を固めて成り立った奥羽連盟。申し合せによって討伐隊の入城を拒んだのが彼らの宗藩である仙台。約定を破って唯々としてそれを招き入れたのが南部藩の盛岡。十月には、最後の決死の会津もついに落城した。
 
つづて下った厳しい処罰──宗家の削封は、彼らの支藩にいたって凄惨を極めた。降って湧いたような没落であった。一万五千石は文字通り一朝の夢であった。目ざめて見れば六十五石の俸禄になっていた。士籍を剥がれた家臣七百六十余名は数千の家族とともに一挙に土民となされ、路傍に投げだされた。
 
茫然自失している彼等の前に、疾風迅雷のように乗り込んで来たのは皮肉にも南部の藩士である。没収を宣言された彼らの土地や家屋には主はないはずであった。そして転封された南部藩士の所有に帰していた。
 
しかし、昨日までのあるじはいたのだ。それらのわが家に、今日は見も知らぬ他国のものを迎え入れ、退身しなければならぬという。家族をかかえた彼らは、身を避ける場所を見つけるひまもなかった──侵入者たちの情にすがって。
 
わがものであったが、わがものでなくった染馴みの物置に一夜の雨露をしのぐ境遇に墜ちた。身の振り方を考える暇もないうちに身の置き場をうしなっていた。悲憤や怨嗟をととのえる余地もない処分であった。
 
そこで思いはこの蝦夷地に走ったのだ。云わば新たに死ぬべき場所を捜さねばならぬ場合に立ちいたっていた。
 
「頓首再拝つつしんで歎願祟り候」と書いたのだ。
「区々の微功も相立てて少しくその罪もあい償いがたく日夜焦燥苦心まかりあり候えども庸劣にして」ともへりくだった。
「死力をつくして開拓つかまつるべく……御用途多端のことにござ候えば、何分にも自費をもって開拓仕り、千辛万苦、死力をつくし……前罪の万分の一にも相償い申したく」──とまで衷心を披瀝した。それらの文言は虚空にうかび目の先にちらついている。
 
手や頭にすり疵をこしらえ、草いきれの中を汗みずくになって阿賀妻は歩いている。新政府の基礎は日毎に固まり、北海道と改めて呼ばれる蝦夷地にも開拓の歩は進められていた。それ故彼にとって屈辱なく死を托するに足る土地を定めることは、一刻もあらそう心せわしさでもあった。
 
視界がふいにあかるくなって、腕をのばして掻きおけた草の彼方に、ひろい原野がひらけていた。段丘のはてまで歩きつめてしまったのであろう。吹き上げて来る野の風を胸に入れて彼は深い呼吸をはいた。
 
「おお!海が見える」
右手の方、地平のはてに浮きあがった青い一線は日本の海──日本海であった。
「海が見えるぞ、おぬしら──」と彼はふりかえった。
戸田老人の足はおくれていた。踏みわけた草の中をばさばさと近づいて来る彼のうしろで、玉目三郎はとびあがって叫んだ。
「見えますか、ご家老──トウベツが?」
阿賀妻はそっと顔をそむけた。目的は反対の東の方にある。
「なるほど、これがオヤフロの野か」と大野順平はかすかにほほ笑んでいた。
咋日の案内人が、そうだ──と頷いた。
「折柄時分どきでござろう──」と戸田老人は陽を仰いだ。
「このあたりで昼食をしたため、あとは即ち位置気呵成とまいろうか」
笠をはずして、禿げあがった額の汗をふいていた。
草を敷いて彼らの一行は腰をおろした。四五匹の虻が頭上を舞っていた。
 

 

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