明治5(1872)年5月14日、仙台藩岩出山領旧家臣・吾妻謙(主人公・阿賀妻のモデル)たちが厚田村聚富から新天地を求めてトウベツ原野の調査に出発しました。本編はその探査行の後半を舞台にしています。『当別町史』(1972)に引用された当時の記録には次のように記されています。
5月14日鮎田如牛、吾妻厳、安倍旃三郎、戸田定之亟、横尾喜平、小野省八郎、湯山陽平らにより、前回の如く指導者を用いず、熟知の者に就き磁石によって方位を定め、前回の如く知津狩沢に入り進むこと二里余、地蔵沢附近に至りて露宿し、翌日高岡分水嶺を超え、更に進むこと二里余にして小川の水源に出づ。けだし今の西小川の水源なり。
厚田から当別で途中1泊。今は札幌近郊のリクリエーションスポットとして人気の当別川エリアですが、当時はアマゾンの最奥地を探検するのと変わらない秘境だったのです。
(3)
「しからば先導仕(つかまつ)ろう」と大野順平は、逞しい体躯を揺ぶって立ちあがった。
オヤフロの野にはいっての数時間は、ヤチダモ、アカダモの密林につづき、次第にカシワ、ナラなどの節くれ立った木が目につき、白い肌の樹が点在する粗林となった。やがてギシギシ、ヨモギなどの野を越えて、ススキ、ヨシの湿地にはいった。
まだか、まだか──と、そうせき立てられた案内人が見つけたのは、風に吹き折れて枯れたヤチダモの立木であった。荷を投げだして攀(よ)じのぼり、彼は木の股に足をかけてしばらく東の方を睨んでいた。
「見えるか──」と下から催促した。
「見える」と、ようやく彼は答えた。
「どの方角?」
「この──」と彼は腕をのばした。
指さす方角に添って阿賀妻は磁石をのぞきこんだ。戸田老人は地図をひろげるのである。玉目三郎は、青く書きこまれた川を辿ってその方向をのぞいていた。
「この山──トウベツ山のふもと」
「ふん、どれ、念のため──」と大野順平もヤチダモの樹にのぼって行った。
あぶなかしく足をささえて、彼は樹上の人夫に重なって、そのものの指さす方を眼をしかめて見入った。
なだらかに波うってる一帯の山つづきであった。湧きだした雨雲の下に、あお黒く静かに拝み合っているひとつの峯がそれであった。
「あれに間違いはないか」と彼は片手を脇差にかけて見せた。
「山の恰好がそう変っちゃたまらない」
「しかし、貴様の見たのは冬だというのではないか」
「夏だってあなた──遠くから見れば同じことです。第一、あそこには、あれより高いのは無えんだから」
「では許してつかわす」
「冗談でしょう──」と彼らはおりて来た。
高いところで見渡すと、それは指呼の間にあった。けれども、野の中に身を没してしまうと、はてしもなく遠方に離れているのだ。見えるものは、草また草のひと色である。
風が吹き荒れて来た。野に低く雲がおりて目路を蔽った。青い草の海は逆巻くのだ。行く手にふさがる樹林や丘陵は測りがたい悪路を示していた。
「日も傾きはじめた」と云うのは戸田老人であった。真実行く手の困難を案じた年長者が、それとなくあたえる注意であった。
「人夫どもに聞けば、用意の糧食も残り少ないとか」
「それというのも、貴様がよい加減なことを申し、安うけあいをしたためだ」
玉目三郎はそう云った。すると案内人も、ここまで来ればなかなか負けてはいなかった。
「ま、誰れにでも、間違いということはありまさア──山は見えたじゃござんせんか」
「そう──山は見えたり、だ」と大野順平は笑った。
阿賀妻は磁石と照して野のはてを見入っていた。
「あの木──あの盛りあがった樹木のなかに一本黒く見える松の木、お判りか?」
その方向に一先ず目標を置いて、この野を横切れと命じていた。
浮き沈みして、草の海を泳ぎ抜こうとする一行であった。見ず知らずの山野を踏みわけて、夢にも描かぬ土地を探している彼ら自身は、ふっとその姿を、どこか遠いところから見おろしていた。
行けども行けども湿っぽい土であった。この地つづきに、云うが如く、考えたような肥沃なところへめぐりあえるであろうというはかないのぞみも、つきつめていけば、消えてとびそうな願いでしかない。これは落人の姿であった。しかもたたかわない落人であった。
危ぶむ思いがきざしたとき、失った死に場所に対する深い悔恨がよみがえる。雲井龍雄が呼びかけた『討薩の檄』はその一例でしかない。
まだ起てた。何度でも起つべきであった。そして斬り死にすべきものであった。機会は次々と齎(もた)らされていたのに──会津救援には何を措いても駈けつけるべきであったのに──拱手(こうしゅ)傍観を強いられた彼らは、むざむざと数百の生命を屠(ほふ)らしたではないか。
意地はつぶれてしまったのだ。土民のように追い立てられた。首鼠両端を持した藩の重役どもが、今荒野の中に連れ込んで、のたれ死に導いている!
えり首がひやりとした。雨の滴くがおちかかったのだ。はっと我にかえった玉目三郎は、思わず大声に呼びかけた。
「阿賀妻どの」
「何でござる」と、彼はふりむきもしないで答えた。目的に向って余念もないふうであった。すると玉目は、云いたいことも云いそびれた。
「予想のとおり、降ってまいりましたぞ」と戸田老人が云った。
「大したこともなかろうと思うが」
「なかなか」と老人はあたりを見まわした。
ひろい空はすきまもなく、鼠色にかわっていた。厚い雲がのびたと見るまに雨は野面をたたきつけて来た。
「夕立ちでござろう」と事も無げに云う阿賀妻であった。
「溶けて流れる気遣いはあるまい」
体力に自信のある大野順平はそう云って、もう五六歩先に進んでいた。
笠にしぶく雨が野を暗くした。草原は一時にざわめいてうねり廻り、まきあがった風が横なぐりにふきつけた。雲は走った。名も知らぬ小鳥がとび立った。はじめ驟雨(しゅうう)のように断続して降りだした空は、おもい雲を重ね、野面をうす暗くおさえつけていた。
雨にうたれた草葉々々はしずくを散らして人々の着物を濡れびしょにしてしまった。水に洗われ、風に吹きはらわれた原野の気温は、ぞくぞくするほど下っていた。蓑(みの)を出して手早く着たけれども、鳥肌だつ冷気は一層強まるばかりであった。
間もなく四辺は、篠(しの)つくような雨に煙っていた。大野順平も立ちどまった。直(す)ぐうしろに続いていた阿賀妻は、彼の太い首根に自分の笠をぶっつけ、驚いて、しかし咎めるように云った。
「どうなされた?」
「目標が見えませぬ」
「ばかなこと──まっ直ぐに行けばよろしい」
果して前向きのそのまま進むことがまっ直ぐであるかどうかを躊躇していたのだ。一切はしぶきの中に沈んでいた。雨を受けてはげしくざわめく草葉の音に耳も遠くなっていた。夕ぐれがかって、模糊とした灰色の幕に包まれはじめた。
「拙者が替ろう──」
そう云った阿賀妻はながく立ちどまることを拒むのであった。
「それには及びませぬ」
踏み抜いた草鞋を蹴とばして、大野順平は前屈みになって急ぎだした。
なるほど、ひとつの定めた目標は好ましいが、今はそれだけに執着しなくても宜いのだ。前方一帯に見えた丘陵にたどり着けば、そこから先の山つづきに、道はおのずから開けるに違いない。磁石と地図とを持って、あとは感の強さにたよるほかない。そういう風にして何度となく山野を跋渉した阿賀妻であった。それを援け、つき従っていた大野順平であった。
数時間のあいだ、上から殴るように降りつけられ、下は湿地と水溜りをこいで歩くのであった。全身あますところなく濡れていた。樹液のにおう木立ちのなかにはいったときには、血の気をうしなった唇の奥で歯ぐきが打ち合っていた。とりあえずもう暖を取らなければならない。木立の下はもう夜であった。次第によってはここにまた一夜を明かさなければならない。
別に相談するともなく、最も暗い木かげを探して進んで行った。雨風のあたりを少しでも避けたいためであった。里程にすれば何程でもないに拘らず、予測と実際のちがいは彼らの気持を重くしていた。
わけても疲労の甚だしい戸田老人は日ごろの諧謔も出ずげっそりしていた。彼の穏かだった半生にくらべて、この二三年はあまりに激しい変りようであった。彼もまた空しく老いた身をぶつぶつとかこつのである。
しげり合った樹木の下まで来て、太い点滴の音をたしかめて立ちどまった。ここは一体どこのどの辺にあたるか。だが、ここからどんなに歩いたとしても、在るものは、山と谷と密林であろう。人家を求めることは出来ないのだ。自分らが人家を置こうとして入って来た最初のものなのだ。
「火を焚け」と阿賀妻は命じた。
黙々として従いて来た人夫は、立木の根もとにばさりと背の荷をおろした。
「水を見付けて来よう。玉目どの」と彼はふいに誘った。
「立っているのはよくない、貴殿らも薪など探して置いて下され。火が燃えだせば明るみが見えるであろう。それを目当てに立ちもどればよい」
先に立って木立ちを縫い、低みへ低みへといそぐ阿賀妻であった。玉目三郎もおくれてはいなかった。ここまで来ては後にかえすも前に進むも、自分ひとりの考えでは始末が出来なかった。そう思った刹那彼の心は阿賀妻の意志の下に繋がれていた。
「流れる水がある筈だ、玉目どの──」と、阿賀妻はときどき立ちどまった。
耳を澄まして聞きわけようとした。雨の音だけであった。樹林はそうそうとざわめいていて、遠い潮騒を聞くようであった。
また立ちどまって阿賀妻は云った。
「聞えて来ましたな?」
玉目三郎は耳をそばだてて暗やみを眺めた。
「まさにこの下に当る!」
重ねてそう云った阿賀妻は熊笹のしげみにさっと身を躍らした。
あッと云うまもなかった。がさッと鳴った葉ずれの底に彼の身体は消えていた。笹は弾力のある茎をはねあげ、ひろい葉の表に雨はばさばさと砕けていた。しぶきをあげる水滴が夜目にも白かった。
「在った、あった!」
やがて底の方でそう叫ぶうれしげな声が聞えた。太い余韻がひろがって行った。谷におりたならば水があるのは当然であろう──玉目三郎には、それほど歓喜する阿賀妻の気持が測りかねた。自分も行くべきであるか否か、まだ思いまよっているとき、折りかえすように阿賀妻の声が遠くから命じていた。
「行って呼んで来て下され、あの、そら、案内の男を――おお、ついでに鍋なぞ、米なぞを持たせて──」
うしろの木立ちにぼーっと明らんだところが見えて、火も燃えて来た。ぬるぬるとすべる足もとを踏みしめて彼は焚火のそばに戻って行った。
一度燃えついた火焔のいきおいは、積みあげた木の間に這いまわっていた。湿りけをぱちぱちとはじきだすのだ。焙りだされてまっ赤になった戸田老人は、あきらかに生気を取り戻した。
ま向うから、わめくように話しかけた。
「阿賀妻どのはどうなされた?」
「おい」
玉目三郎は幾らか不機嫌に、背を向けている人影を呼んだ。案内人は首をすくめて、ゆっくりうしろをふり仰いだ。
「呼んで居られる、水があると」
「えッ?」と云った。彼はつっ立って叫んだ。
「やっぱりそうだ、トウペツ川の枝沢にかかっとる、どちらですね?」
玉目三郎はとび立つように元気になったその男をじろじろと睨んでいた。
「こちらですか」
「うん」
そのまま駈けだそうとする男を、彼は「おい──」と呼びとめた。
「なんですか?」
「飯を煮る用意をして行け」
ほかの人夫も立ちあがった。
「ついて行け」と、玉目三郎はそのものたちにどなった。
谷間に向って「お──い」と呼びかける案内人の声が木立ちの低みにひびいて来た。
「玉目さん、着物を乾したがよろしかろう──」と、薪を投げ込みながら戸田老人が云った。
照り出された頭上の青い木の葉が、吹き上げる焔にちらついていた。そこから大粒の雨滴がばざッばざッとおちていた。
いつの頃か吹き倒れたであろう枯れたトド松を、大野順平はひきずって来た。むらがっている枝葉をぼきりぼきりと折って火にくべた。蓑の先から滴がきらきらとび散った。
「空腹はいかがでござるか?」
「されば──」と大野は、話しかけた老人の方を見ないで言った。
「追々と目的地も近づきましたな、踏み分け路のようなものがこの裏にありましたよ、阿賀妻どのは?」
限をあげて玉目三郎を見た。
「間もなく見えられましょう」
短かくそう答えて、彼は焔に背を向けた。濡れた背中を温めだしたのである。
しばらく彼らはお互いの思いにおちていた。
「殿も気遣われて居られるだろう、今頃は──」
ぽつりと戸田老人が云った。
それは疲労を感じたこの場合の彼らに、思いを同じ流れにまとめたのである。
海鳴りの聞える草葺き小屋のなかで、身を寄せあうようにした彼らの家族たちは、ひたすらにのぞみをかけて待っている――その姿もありありと見えるようであった。
「玉目どの、そなたのご婚礼は、一昨々年でござったかのう――。左様、あのとき、白河口のたたかいに、そなたの父御は斬り死なされ、生き残ったそれがしは――」
「ご老人――」と大野順平がさえぎった。
「それはもう昔のこと、云わぬが花でござろうよ」
「生き恥じをさらしおります」と、戸田老人は鼻をおさえた。
(4)
しかし、めどはついたのであった。南西に向って流れる渓流は彼らの目ざすトウペツの地へ、沼から来る川となって灌漑しているものに合していた。いるべきであった。
とにも角にも、地図に示された一筆の青いうねりはそれに該当していた。この地附近を一度踏んだことのある案内人もそう裏書きするのだ。更に一押し進めば、見るからに肥沃なというトウベツの原野に出ることが出来るであろう。
按(あん)ずるに──と彼らの行路を説明する阿賀妻であった。──北西の海から吹きあげる冷気を間断なく防いでいる屏風のごとき山つづきになやまされたのだ。踏みまよい拒(いりぞ)けられて、オヤフロの野と交わる尾根のふもとを歩かせられた。
ここは、二つの地形の岐れ目にあたる。すでにご承知でもあろうが、見らるる通り、これから一気に駈かけおりようとするわれらの原野は、三方に山を背負い、南にひらけて際涯ないイシカリの野につづいている。そこでわれらの使命は八分目まで達したというも過言ではない。
「──が」と彼は言葉をきって、燃える焔の白い煙に変るあたりに眼をやった。樹と樹のあいだに菰(こも)を張った即席の屋根から、溜った雨水がごぼりと落ちた。灰かぐらを立て、ひと魂りのおきを黒くした。焚火のあかりを取って、彼の膝に斜めにひらかれていた地図の上から、彼らは思い思いに顔をあげた。
雨はまだ降りつづいていた。人夫は枯木を投げ入れた。焔に照らされて、木株に腰をおろした彼らの顔は異様に赤らんでいた。今し方かきこんだ炊きたての飯が、身内に充血させたのかも知れない。悶えるように燃えつづける火を見て、阿賀妻の言葉を待った。
「あとの二分じゃが──」
首で、眼で、顔色で──それぞれに頷くのだ。
「これがまた、なかなか侮りがたい。いや、お聞き下さい。云わば踏査はこれからはじまることになる。随って、今までの道は、踏査のうちでは、まさにその序論と見るが至当でござろう。この意味で、ご推察下さるか、さ、そこで」
彼は──ひざ乗り出すようにした。
「われら迂濶にも、両三日の糧食以外を携帯致して居りません。折あしくもこの悪路、明日倖い所期の地に着したとしても、一両日の滞在は覚悟いたさずばなるまい」
「なるほど」と戸田老人がうなった。
「食糧不足のため、一たんこの地より立ち戻るべきか、乃至は」
「むろん行き着くべきでござろうよ」と、また戸田老人が云った。
「大野どのはどう思いなさる?」
「されば」と彼は相変らず火を見ていた。
「玉目どのは?」
「同感ではございますが──」と、彼は瞳をあげた。きらりと焔がうつっていた。
あとは改めて云う必要もなかった。ここまで来た阿賀妻の心がどう定っているかも判っていた。糧食を補足して、その土地を検分しなければならぬのである。
今か今かと帰えりを待ちわびているものたちに、期待をもたらした二日三日の遅延は大したことではない。素手で帰えることがしのびがたいのであった。その動揺落胆はむしろ恐ろしいのである。獲物は眼と鼻との間に見えている。当然、中途はんぱに引きあげられない立場である。問題はここ二三日の食糧を何とかして手に入れることだけである。
しかもまた、それにはたった一つの方法しか無かった。誰かがそれを取りに戻って来なければならないのであった。人の嗅いでも感じられない荒野の中に、手軽く求められないことも解りきっていた。木の芽草の実のある季節でもないのだ。
「おたずね申すが──」と、ふいに大野順平が云った。
「トウベツとやらは、まことに人跡未踏でござろうか」
「だんだん検(しら)べたところによれば、そう考えたが間違いないと思うが──何か?」
「この裏にどうやら踏みわけ路のようなものが見受けられたが」
「それは?──」と、眉のあいだに立皺をよせて、阿賀妻は猫背の案内人を見やった。彼はふくみ笑いを浮べて云った。
「鹿の路ででもございましょうよ」
「鹿が通るか?」と大野が向きなおった。
「それは奴めの勝手ですがな、通るには通りますな」
「ふん──」と彼は唇を舐めて暗い闇をふりかえった。食われるように出て来るわけでもなかった。
雨は絶えまなしに降っていた。焚火のなかでは、トド松の節がぱちぱちとはじけていた。玉目三郎は、これ以上その沈黙に堪えられなかった。むろん戸田老人の出るべき場合ではなかった。ひしひしと、一番年若な自分が、それを云わなければならぬ場合と思ったのである。
「阿賀妻どの」と彼は云った。誰も身じろぎも見せなかった。
「拙者にそのお役目をおまかせ下さい」
一気にそう云った。けれども同じ静寂であった。何か――その声だけが空にふわふわ漂ったようであった。あたりの闇に白々しく描かれて宙に浮かんでいる。取りつくしまもないのだ。やっと阿賀妻の口が動いた。
「路すじはそのものが存じておる」
そのもの──と指された案内人は、衝かれたように腰をひょろつかせた。それほど声はきびしく圧えつけるものがあった。われ知らず頭がさがって、心より先に身体が平たく畏ったように見えた。いずれにしても、それらは翌日の予定であった。
焚火の焔は伸びたりちぢんだりした。そして、夜明けの冷気は、山に寝ている彼らの骨身にまたしてもこたえるのである。馴染なじまない土地の息吹きは荒々しかった。彼らの皮膚は脅えている。小粒になったが雨はまだ降りつづき、木の葉や草の葉はしょうしょうと鳴りつづける。
身近かで一発の銃声がとどろいた。
「どうなさった?」
彼はちらりとふり向いただけであった。
近づいて行く玉目三郎に、彼はあちら向きのまま太い声で云った。
「門出の血祭りと思いまして、な」
貫ぎ徹(とお)った先程の銃声が、山や木に当って遠ざかっていた。あちらこちらにゆるい反響が伝っていた。大野順平の視線の先では一頭の鹿が斃れたところであった。
「やはり、なるほど、あれは鹿の路でござったよ」
彼はそう呟いた。昨夜見かけた踏分け路らしいものにこだわっていたのだ。自分を納得させた深い声で云った。
「やはりおぬしに行って貰わにゃなるまい」
玉目三郎は素直にうなずいていた。川に沿って急ぐならば、中一日をおいて再び引きかえして来れようという計算も胸に収めていた。
本流では、あるいは手近かなところに土人の漁場を見出すことが出来るかも知れない。イシカリの河畔に点在するという鮭場所の話は彼も聞いていた。どこでもよろしい、早ければ早いほどよろしい──と、そういう阿賀妻の心も判っていた。
買入れに必要な準備の金も渡され、すでに彼のふところに納められていた。二人は、爪先あがりになった草やぶを、樹々の間を縫って歩いて行った。落ちかかる雫が、ざんぎり頭の毛を濡らした。射止めた鹿の生命はまだ微かにその四肢の先に残ってぴくんぴくんと痙攣していた。
「火を慕って来おったのかも知れませんな」
「そうかも知れぬ」
大野順平は腰をかがめて、その後脚をつかみあげた。
そのとき斃れている鹿の眼がしわりと瞬いたのである。玉目三郎は思わず一足うしろに退った。
「どうした?」
「いや」
「気をつけて行って貰いたいものだ」
年輩の男は、舎弟を見るようなやさしさをこめてそう云った。
燃え残りの木に土をかぶせ、蓑や笠の緒をしめた彼らはまた出発するのであった。谷川の水はひどく殖えていた。せっかく乾した足ごしらえも長くは保てなかった。岩にくだける水流に追われて彼らの一行は下って行った。
進むにつれて平原に出ていることは、岸と水面との差が追い追い小さくなって来るのでもそれと知ることが出来る。草の色もちがって来た。アヤメの花がべったりと、樹林の切れめに咲いていた。水の流れも落ちついて来た。
「よく降る」
「されば──」と戸田老人が註釈をつけた。
「郷里ではあたかも梅雨の季節でござる」
枝川の流れは湿地のなかに散らばり、右手から押し出して来る、より大きな流れに呑まれていた。雨水を集めて両岸の草の根まで幅をひろげ、はるかなとどろきを立てていた。間違いもなく、これが探しもとめた彼らのトウベツ川であった。上目づかいに見わたす上流の平原は、ひしめき叢(むらが)る樹木つづきの緑の海であった。天をかぎる巨木が青葉の波濤をつくり──それが五月の雨にけぶっていた。
水はその隙間にこぼれ、低みをえらんで寄り集った。年々歳々のはてもない月日が、土を穿ち岩をかみくだいてこの川筋を掘り下げたのであろう。地底の砂礫も抉られている。白くむき出しになった深い木の根や、浅いところには笹の根やイラ草の地下茎などもとびだしていた。
撫でさするようにあたりの地形を眺めまわしていた彼らの眼は、期せずして向う岸のそういう懸崖に吸いついた。地の底を割ってみせたのである。一尋もあるかと思われる黒い壌土の層が、水気をふくんだうるみ顔をこちらに向けている。むツとする土の香が匂ったようであった。
おお、これがわれらの土。虚脱されたような幾秒かが過ぎた。へたへたとくず折れそうになった。彼らの身体に、そのときあつい血が湧きあがって来た。
撥(は)じかれたようにとび出しだのは阿賀妻であった。彼は流れの中に駈けこんだ。川は彼の膝でしぶきをあげた。遮るものに当って不遠慮な音をたてた。両手を左右にひろげ、のしのしと進んで行く阿賀妻はそれよりもなお倨傲(きょごう)であったと云える。簑の裾を浸し、腰まで沈んでもなお進んで行った。立ちなおり立ちなおり、胴体で水をかきわけて押しきった。
彼はその崖にとびついたのである。下半身からしずくの滝を流しながら、木の根につかまって匐いあがりだした。砂礫がざらざらとこぼれ落ちた。
石はもんどりうって川にとびこみ、飛沫をあげた。片手を土にさしこみ、他の手に熊笹の根をつかんだ彼は、木の根にかけた草鞋がけの脚をちぢめ、ぐいと跳ねた。ひと揉み身体がまわって、彼は崖の上にとびあがっていた。すっくと立ちあがって、その手を天につきあげた。見おろした彼の顔は、感極ったときのあの醜さであった。それも一瞬であった。
「玉目どの──」と、そこから呼びかけた彼の声はいつもの阿賀妻にかえっていた。
「ご足労願おうか、われらはこの川筋附近に於てお待ち申すとしよう」