北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

 

岩出山伊達家当主・伊達邦夷(史実では邦直)の決断で、厚田村聚富から当別への再移住が決まりました。しかし、これ以上の事業続行に反対する空気は強く、家老の阿賀妻謙(史実では吾妻謙)のもとを大野順平ら数名が訪れます。生活物資を載せた船が行方不明になって資金も枯渇しようとしているのに、なお無謀な事業を続行しようというのか、と詰問するためです。
 
このとき、阿賀妻は「明一日だけこの場の決定を延ばして下さらぬか」と告げて、事態を救う腹案のあることを匂わせます。そしてその成否を確かめに、阿賀妻宅に押し寄せた面々とともに、これから出発するというのです。
 
阿賀妻はどこへ向かうのでしょうか? どんな腹案で伊達家主従を救おうと考えているのでしょうか?

 
 

 
第二章

 
 

(九)

 
馴れている大野順平は夜道のためにたいまつを持っていた。ガンビの白い樹皮をまるく巻きあげ、先端から火を焚くのである。まっ黒い油煙をあげる毒々しいほどの赤い焔が、濃厚な樹脂に執拗にしがみついて離れなかった。吹きおろす夜風も受けながしていた。たかだかとそれを捧げ、彼は先頭を、その堂々とした体躯でくら闇を押し割って歩いていた。
 
「苦労はたえぬものじゃ」
 
戸田老人は駈けだして、炬火で一服すいつけてそう云った。お引取り下さいというのを、彼はつよく拒んで連れ立って来た。忠実に自分の気持に仕えているに過ぎないのだ。そしてここに、トウベツ探険のときの同勢がそろったということも、彼にとっては楽しい因縁であった。玉目三郎はどうなったか。あの折の彼の代りに安倍誠之助がうしろについて来ている。その男は阿賀妻と並んで歩いている。羽織のすそに提灯を包んだ阿賀妻は、あかりを安倍の足もとに流してやりながら、思いだしたように彼の家庭についてたずねるのであった。
 
「いちばん上のお坊は幾つになられましたかな?」
 
昂奮が通りすぎてしまい、礼儀ただしい日頃の習慣が水のようにそのあとを浸し、おのずと安倍は、阿賀妻に一目おいたかたちになっていた。丁重に短かく答えた。
 
「七つになっております」
 
「云うまでもないが、素読など、お授けになっておりましょうな」
 
「なかなか――
 
「それはいかん、早くおちつかねばいかん」
 
「そうも考えますが――」と安倍は何気なく顔をそむけて、右手にあたる暗い海を見た。
 
星も見えぬ夜だが、くだける波頭はほの白くそれと見わけられた。
 
――ひとたび剥きだしにした反感は、そんなに早急におさまるものではなかった。さあらぬように話しかけられたことは、表面おちつきかけたものを掻き立てて、またぶすぶすと燻らしたに等しかった。結果はなぜか、安倍の方が脆くも敗れたようであった。たぶんこの論争は、よしんば勝ったにしてもひどく後口のわるいものであったに違いない。だのに、負けたと決すれば、それがまた居たたまれない焦慮だ。それ故、彼は求めて同行して来た。
 
もう一秒だけ自分が冷静であり得たならば、こういう立場を取る人間は自分でなかったかも知れない。ほんの一瞬の差が一時間のあとには莫大ない懸隔をつくるのである。今の安倍には、慰めや同情も罵詈や嘲笑とおなじであった。阿賀妻がしみじみと話しかけるのに、彼はすなおに反応出来ないのだ。
 
けじめもつかぬ黒い海の彼方に向って、彼は沈んだ顔をそっと移した。眼には一つの状景が浮んでいた。――先程わかれた相田清祐が、光るような銀髪をランプにかがやかし、主君邦夷の面前で報告している。折柄、丁度この時刻であろうとも思いあわされるのだ。うっとり聞き入っている邦夷が、そうかあいつが、か、と、傍目にちらりと一瞥して、それが安倍誠之助の面上にぴしりと鞭のようにおちた。
 
安倍は思わず身ぶるいが出た。目をおとして彼は云った。
 
「さぶくなってまいりました」
 
誰も答えなかった。声はむなしく浜風に吹きさらわれた。
 
かざした炬火は、炎と煤とで、赤くただれ、兇悪な形相をした生きもののようにのたうちまわった。人々は、半面を照らされたり闇に埋められたりした。彼らの表情は揉みくちゃになり険しい影をきざんで変貌きわまりないのだ。足もとの砂はめらめらと赤くなり、はたと夜に呑まれたりした。
 
阿賀妻が舌を鳴らした。提灯が消えたのであった。しかし、横にいた安倍誠之助にはその低い声が自分に向けられた弾劾のようにひびいた。主君の気持は家中の倫理であった。そのピラミッドの外にぽつんとはじき出され、佇んでいる男があった。安倍にはそれが自分の姿のような気がした。
 
その間に阿賀妻は、折りたたんだ提灯をふところに蔵うのであった。手を拍ちあわせて、附いてもいない埃を払いおとして彼はうしろを振りかえった。別に顔を見ようとしたわけでもなかった。漠然としていたが、彼は、遠慮がちに彼の方に並んで歩いている連中が自分に必要であると感じた。
 
「実は、だれか――」と自分の考えをまとめながら歩度をおとしてそう云った。自然にしんがりになっていた彼らは、言葉を聞き洩すまいとして耳をそばだて、足を速めた。
 
「誰か、棟梁をご存じないか。あるいは、心得のある方はおられまいか。ご存じはないか? 大工の棟梁――
 
「心得ほどのことならば――」と、それはどこにでも居ると云う気安い返事であった。
 
「そうか、いるか」と阿賀妻は圧して来た。
 
「はア?」と、彼はおどろいたのだ。いきなり問題が重大そうな響きをもって来た。あわてて、彼は並んで歩いている仲間の顔色を見ようとした。むろん見わけられるものではなかったが、何か一言弁じておいて貰いたいのであった。すがりつくように云った。
 
「なア門田」
 
「うん――」とその男は肩をそびやかした。
 
「失礼だが、その――何と仰言られる名前でしたかな」
 
「はい、この松岡長吉でも」と門田与太郎は同輩の男を示して阿賀妻に紹介した。
 
「たたき大工くらいにはやって見せられます」
 
「なアる――」と、もとの家老は、深くうなずいて、『なるほど』のあと半分をのみこんでしまった。
 
そこへ自分の肩をならべて行って、もとの軽格武士である門田与太郎は、「ねえ、阿賀妻さん」と話しかけた。おもい夜が気持を自由にしていた。先方の手にあった提灯が消えてしまい、役付け武士の安倍がそれとなくはなれて前に出たので、彼らの気持はひろく楽になっていた。隔てなく何でも喋れそうな気持になっていた。
 
「折柄の闇にまぎれて、恥をさらけださして下さい、それが、口を糊するわれわれの修業になっていたのです。手に職を持つことが、まん更ご存じないこともござりますまいが、大工、左官、傘張り、提灯貼り、建具、経師――と、まずいながら、ご入用とあればいつでも役立てましょう。腕は、――戦場に役立てるべきこの腕は」。そう云って、彼は交互に自分の腕をなぐりつけ、気軽に、むしろ笑いごえで云い足すのであった。
 
「使って下さい、この通り――しかし、阿賀妻さん、公然とこの手職をお役に立てる時代になりましたか、とうとう?」
 
「なりました」
 
「阿賀妻どの」と、今度は先導のものが立ちどまって呼びかけた。
 
「灯が見えますが」
 
ひときわ高い大野順平が彼方の灯に見入っていた。ふりかざした彼の炬火が海の方になびいて、そのながい炎に照しだされた彼らが闇のなかに浮んだ。
 
「こちらに向いてまいりますな」
 
「どのあたりでしょう――あれは?」と戸田老人が背のびをした。
 
「渡船場のあたりか」と一人が云った。
 
「左様――そして、こちらへ参る」
 
「しかと、こちらへ、参りおるのか、こんな時刻に」。阿賀妻はそう念を押してゆっくり人々の前に出るのであった。
 
「多分先方もそう思うて望み見ているでしょう」と大野順平は笑って
 
「かまわず行くといたしましょうか」
 
「それはそう、――行かなければなりません」
 
彼らは一列に、放陣を布く形で歩いていた。明滅する先方の光りはイシカリ河口に起伏する砂ッ原にかかったらしい。その灯も一つではなかった。やがて朧ろげながら、灯を囲んだ若干の足音も感ぜられた。漁夫の移動であるかも知れない。茫寞として暗闇のなかに、敵意と愛情を感じあいながらお互いの火は接近して行くのである。砂浜はひろいけれど、路となっているものは踏みかためた一本の線である。爪先つまさきでさぐるようにして用心ぶかく歩いていた。
 
好奇心と緊張は灯影に人の姿がちらつくようになって一層けわしくなった。相手の何ものであるかを見抜こうと目を釣りあげていた。灯を持った先導のものは最も緊張している。片手を刀のつかにかけていた。次第によっては最悪の場面にもおくれなく身を処して行かねばならぬと用意するのだ。
 
曠野の夜更けは星ひとつ見えぬ暗さであった。在るものは自分らだけと思い、他を憶い浮べる余裕もなかった。過ぎた戦乱の日は、忘れ去るほど遠ざかってはいなかった。われから心の底におし潜ませた不満も、化石にもならず、過去の殻にもはいっていなかった。いとぐちさえあれば、どんなに形は変っても、忽然と噴きだして来る火のようなものを抱いていた。だから、この深夜に移動する一隊に就いてはお互いに疑惑の目を凝らすのである。それが人間であるから神経はいよいよ昂ぶるのだ。注意ぶかく次第に接近するにつれて、双方は何か対立する気配を嗅ぎ取った。ぴたッと立ちどまっていた。ざくりと足許の砂がくだけるのである。
 
 
弓張提灯をもっている先方の男が、それを高く掲げてひとり前に進み一歩々々こちらに出て来た。よく目をあげて、この提灯の文字を読め! そう云う荘重ぶった恰好で近よって来た。わかれば降伏しなければならぬのは当然であると考えているような――威をかりて傲然となる末輩の態度であった。
 
その提灯をじろじろと眺め、はっきり開拓使と読み取って、こちらの一団は黙々と佇立していた。阿賀妻が動きださない限り、彼らはいつまでもそうしていたかも知れない。彼は口をすぼめ目をぱちくりしていた。ふところ手で両たもとをおさえていた。やがて彼は、ふいに突ッかえ棒を奪られたように動きだした。彼は先方の一かたまりの人間が堀大主典に率いられているのを認めたのだ。
 
彼らの前には、ひろい川原を斜めにさえぎった巨大な流木が白い肌をさらしていた。大野順平のささげる炬火がそれを照していた。奇怪な骸骨のように砂に寝そべって、濃い、長い影を水のうえに吹き流していた。岸にはぴちゃぴちゃと川波が騒いでいた。
 
「誰だあ?――」とあちらの提灯持は二三間先で叫んだ。
 
「どうやら堀さんのようじゃの」と阿賀妻は眼をほそめた。直接に先方に射込むようなよく徹る声でまッ直ぐに云った。よろこびが彼の顔にみなぎった。小皺にかこまれた瞳がしっとりと湿って来た。
 
下使いの男は提灯をおろして一歩うしろに退いた。阿賀妻はその前を、手軽るに流木をとび越えてすッすッと進んだ。うしろから家中のものが駈けつけるのであった。動くにつれて、草や土や砂や、川水の色も見わけられるのである。先方の堀も前に出て来ていた。
 
「この時刻に、どちらへ?」と、阿賀妻はその前に向きあって立ちどまった。さッと家中のものは膝ひざまずいた。相手の配下たちも堀を守るような位置にそれぞれしゃがんでいた。
 
「シップ――」と堀が小さい声で云った。
 
「拙者はイシカリ」
 
そして二人は、淡い灯りでちらりと目を見合せた。とたんに、完全に表情のない顔になっていた。その癖、お互いに関係したのっぴきならぬ所用を持っていた。それが火急で重大なことは、今のこの出会いが明瞭に語っている。期せずして心のうちに身構えるのであった。だが、隙は堀大主典の方にあった。この時刻に阿賀妻を訪ねなければならぬと思い立ったことのうちに、――それがこの阿賀妻であったということの故に、すでに一歩を先んじられていた。誘うように阿賀妻は云った。
 
「拙者どもに何かご用とおおせられるか?」
 
「お国のために」と堀は力を入れ、眉をしかめて云うのであった。
 
阿賀妻は肯きながら、うねる黒びろうどのような河水に目をやった。ときには揺れる波がまざまざ見えるのだ。ぼやけた対岸には、黒い丘つづきの下にかすかな灯影がちらついて、イシカリの街がそれと見わけられた。
 
「ほねのある男を一人――」と堀はめんどう臭げにつづけた。「われらに至急ご推挙下さるまいか――
 
「ふーん」
 
「まさに喫緊の用命で、速刻カラフトのクシュンコタンまで行ってもらいたい。またもオロシャの問題だ」
 
「それをまた――
 
「どうして貴殿のところに相談に行くか、――と。阿賀妻さん、あんたはそう云いたいのじゃろう。しかし、考えても見なさい、どこに気骨ある人間がいる? オロシャの赤夷あかえびすのやつめらにむかって」
 
堀は何か思いだしたようにげッと唾つばを吐きとばした。
 
「身どもらは、イシカリ税庫の建築を請負わしてもらいたいと思いまして、かくは、深夜もいとわず罷まかりいでました」
 
と阿賀妻は、相手の顔を正面に見つめてそう云った。堀大主典は首をのばした。話の内容がすぐには飲みこめなかった。
 
「明日落札するという税庫の――」。阿賀妻は説明しかけた。
 
「あ、あれですか? いそいで入札して下さい」
 
「堀さん――」と阿賀妻は冷たく呼んだ。急に態度を改めて役人の前に立ちふさがるようにした。その配下のものが気負い立つのを彼は尻眼にかけ、足許の砂を蹴りつけながら云った。
 
「それで済むなら、人数をそろえて乗りこみは致しませんよ。われらに取ってはこれは生死の問題でした。くどくは云わない、是非われらに落札すると約束なさい」
 
「是非?――」と、堀は口のなかで味うように繰りかえした。そして阿賀妻のうしろに控えた彼らの家中を見やった。厳然と身構えをした彼らは目をそばだててこちらを睨んでいた。もはや視線が出あっても避けようとはしなかった。阿賀妻はそれを釘づけるように云った。
 
「そう、是非――それからもう一つ」
 
「立ちばなしも出来ぬが」
 
「お伴しましょう」と阿賀妻はおっかぶせた。
 
彼はふりかえって家中のものに指図した。
 
「お聞きの通り、明日から税庫の建築にかかるのであるから、門田どの、松岡どの――は、その、先程のあれをお願いいたしますぞ。あとのことはご心配下さるな。夜も更けたゆえこの辺でおひき取りを願って――おお、そう、戸田老人、今までのところを相田どのにご報告願いましょうか」
 
大野順平と安倍誠之助が立っていた。
 
「それ、お渡し致すがよかろう」と阿賀妻は大野のたいまつを顎で示して、「われら急ぎますゆえ」と云った。くるりと背後を見せていた。すたすたと歩いて行くのだ。草履の下では水ぎわの泥土がじくじくと踏みつけられた。急ぎ足で大野と安倍が追いついたとき、阿賀妻は、彼の前方を一かたまりになって動いて行く役人どもを見ながら、彼らにも聞こえるほどの大きな声で云った。
 
「安倍どの、カラフトに乗りこんで貰いたいものじゃ」
 
安部はどきんとした。彼はそれを予期しないではなかった。が、はっきり云われるとかッと混乱した。そして彼は幾らかとびだした眼を見はって傍の大野の顔を見た。川面の反射か、前方の灯かげのためか、彼の目はぎらり冷たく光った。あるいは闇のかがやきであったかも知れない。しかし、何とも云ってくれなかった。
 
大野順平は肩をゆすって大股に歩いていた。彼は玉目三郎のことを思い浮べていたのだ。あの密林の下で、雨にうたれながら、その男の受けた命令の調子もこれと同じであった。そう思うと、耳を聾するように川鳴りの音がとどろいて来る。
 
いま目の前にいたと思った阿賀妻は、もう船に乗りこんで、そこから呼んでいた。
 
底の浅い川崎船は思わぬ大勢の客を積みこんだ。堀大主典と、その向い合せには阿賀妻が、舷側に腰をかけ、杖づいた長刀の先に顎をのせていた。他のものは思い思いの場所にたたずんだ。黒い影のように見えた。舳の提灯が濁った水の色をぼんやり浮きだし、川波がちりちりと揺れてくだけていた。
 
向う岸のでこぼこには火影がもれ、ゆらゆらと近づくにつれて家屋のかたちが見えて来た。ふなばたに砕ける波と、はるかなる海鳴りと、浜でたたく浪の音が別々に聞き分けられた。それぞれの音で、ろべそにきしる櫓の音に縫いあわされていた。
 
「阿賀妻さん」と堀大主典の声がした。
 
返事が無かった。ぴちゃぴちゃと川波の音が耳についた。大野順平は腰をかがめて注意しようとした。すると彼は、近づけた自分の耳に、かすかな規則ただしい阿賀妻の鼾きごえをきいた。
 
 

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