北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

関矢孫左衛門と北越植民社(1)

 

関矢孫左衛門

 

 

野幌の森を守ったのは誰か

 

 北海道百年記念塔の設計者・井口健先生への連続インタビューの連載中ですが、記念塔をより理解するために背景にある野幌森林公園の歴史を振り返ります。隅々まで開発の進んだ日本で人口190万人の巨大都市の近隣、しかも山林ではなく平原に広大な森があること自体、奇跡といっていいと思いませんか? 果たしてこの森は誰が守ったのでしょうか? その理由を追いかけると関谷孫左衛門という開拓者が現れてきます。

 
 

北海道百年記念塔と背後の野幌の森

 

■奇跡の森──野幌森林公園

北海道百年記念塔は立地する野幌森林公園と不可分の関係にあります。野幌森林公園は、昭和43(1968)年の北海道百年を記念して国有林から道立公園に指定され、永久に保全されることになりました。
 
札幌市、江別市、広島市の3市に広がる総面積2053haの広大な森は鬱蒼たる大森林に覆われていた開拓当時の面影を今に伝えています。190万都市近郊の平野部にこれだけの森林が残るのは奇跡と言っていいでしょう。
 
昭和43(1968)年に「北海道百年事業」が行われることになり、記念施設の建設がメイン事業となった時、当時の町村金五知事がもっとも心に砕いたのが立地でした。
 
北海道は、開拓の鍬が入れられ以前は、全体が千古斧鉞を知らぬ原生林に覆われていたことを思い起こし、後方の天然林は過去を偲び、前方の平野は将来の発展に思いを馳せると言う念願を込めての選定であった。[1]
 
すなわち、開拓前の姿を残す野幌森林公園と、開発の進んだ石狩平野との接点に北海道百年記念塔を建設することで、記念塔を北海道の歴史と未来の象徴にしようとしたのです。
 

 
 

1985年(上)と2018年(下)の野幌森林公園
長い年月をかけて太古の姿への復元がすすんでいる①

 
 

■庁官を説き伏せた両村民

さて、この野幌森林公園の森はどうして残されたのでしょうか? そこには江別から広島に入った開拓者の努力、とりわけ明治19(1886)年に野幌に入植した北越植民社、なかでも指導者の関矢孫左衛門の尽力がありました。
 
野幌森林公園の森は、北海道の他の森と同様にもともと国有林でした。「 馬追原野」の秋月運平が望んだように拓殖区画として入植者に解放されることを待っていたのです。しかし、ここで江別、広島を拓いた入植者がまったをかけたのです。昭和35(1960)年の『広島村史』はこう述べています。
 
明治28(1895)年ごろ、この国有林を解除するという内議があり、このため、江別、広島の両村民は、これが解除される場合は、死活問題に当たるとし、存置を陳情するべく、庁して長官に上陳しようとした。
 
しかし長官は上京したあとであったため、室蘭まで長官の跡を追い、旅館で、その旨陳情して存置が決定したという経過をたどっている。[2]
 

北垣国道②


この時の北海道長官は4代目・北垣国道です。野幌の森を開発から守るために、両村の代表は長官を室蘭まで追いかけて旅館で説得したというのです。
 
野幌の森を守る運動の中心を担ったのは、中山久蔵・長雄也・伊藤辰熊・佐藤音八.阿部平四郎・大久保市九郎・樋口善右衛門・関矢孫左衛門・平沢政右衛門・和田郁次郎・村上源九郎・西村佐一郎といった人たちです。
 
この中で中山久蔵は言わずと知れた寒地稲作の父、 和田郁次郎は広島の開祖として前に紹介しました。他の人びとも北海道開拓史に名を残す開拓功労者たちです。
 

■水源涵養林保存の義請願

『広島村史』には、このとき村民代表が長官に提出した陳情書が紹介されています。読んでみましょう。
 

本村島松川上支流ニイベツ川その他付近の各小川および、輪厚川上流の両処に位置する樹林は、本村水田全地へ灌漑するす最も重要なる水源涵養なるをもって、これまで村民においては、その所はすこぶる肥沃の土地にして、ことに水利の便よろしきをもってその貸下希望者頻多なるにもかわらず、こといやしくもー村全体の利害に関係するものなれば。村民相ひとしくしてその貸下を出願せざるものこれあり。
 
しかるに聞くとろによれば、該地は耕地に適当として不日悉皆官林解除の上、御貸下げあいなりるべくの赴にて、先般来すでに多数の官林解除土地貸下出願せんものある赴にこれあり。
 
そもそもこの地は本村既懇水田500余町歩、灌漑する用水源地にして、みなこの水によりて水田を耕作するものにこれあり。
 
なお、本年、村内輪厚川の南において大排水落成の上は、著に水田は増加する実況にこれあり。
 
しかし、右水源地にてことごとく解除の上、御代下相成り開墾の上、川沿樹林を伐採し、この川の水量減少するか如きことありては、せっかく今日まで進歩しつつある米作業にも影響し、あるいは退歩する不幸に陥るもまた計りがたく、実に遺憾の事にこれあり。
 
もっとも本村においては水田米作にあつてはすでに既墾地500余町歩を有し、全道において亀田部を除きては、あえて他村にー歩を讓らぬ村民の意気込みにこれあり。
 
事実、かくのごとき場合に逐年この事業に拡張の計画ある場合にて今まで一層多量の用水を要する際、一朝水源において異変を生じために、水量減少するか如きことありては大いに水田拡張上障害を蒙るならず、この地に対する分までもまた影響するも知るべからず。
 
実に村民の命脈にも相関し、影響するところ甚大なるをもって、その地を解除御貸下げあいなり様の場合においては実地御調査し、水源涵養に必要なる地積は国家のため、永遠保存の義奉願いたせしも、その保存林取締方は御庁の都合によりては、村において適当の方法を設け、不都合のなきようにこれが取締しかるべく候につき、右実地御調査の上、水源涵養地に必要の分だけ特に永遠保存あいなり候様奉願度、村民を代表し連署をもって此段請願候也。 
 
明治28(1895)年10月10日
 
広島郡広島村総代人 中山久蔵
同 村上源九郎
戸長 一色 潔  [3]

 

■国家ノ為 永遠保存ノ義

明治6(1873)年、現在の北広島市松島で中山久蔵が寒地稲作の扉を開き、和田郁次郎が灌漑事業を起こし、産業としての稲作農業の基盤をつくったのが明治19(1886)年、さらに栗山の泉鱗太郎が米の試作を始めたのが明治26(1893)年です。

中山久蔵③

 
よく知られているように開拓使そしてその流れを汲む道内三県・初期北海道庁は、稲作の振興に消極的で、アメリカから学んだ畑作農業をすすめようとしていました。そうしたなかで、これら民間の開拓者が寒地稲作の可能性を独自に拓いていったのです。
 
稲作の命は水。明治28(1895)年、北海道稲作を可能性を押し開いていった開拓者は、野幌の森林が失われることで水源が脅かされることを何よりも恐れたのでした。
 
水源涵養ニ必要ナル地積ハ国家ノ為、 永遠保存ノ義奉願度致
 
野幌の森を永遠に残して欲しいと願った人びとの心には、北海道で米作農業を成功させることは日本の未来のためであるという強い信念がありました。
 
この後、両村民のねばり強い運動によって明治32(1899)年、野幌の森は「保安林」として残されることになりますが、その運動の中心には関矢孫左衛門がいました。
 
北海道百年記念塔、さらにこの塔を包む野幌森林公園の意義を理解するために、最大の功労者である関矢孫左衛門、そして彼が率いた北越植民者社について学びましょう。
 

 


【引用参照出典】
[1]『北海道開拓記念館10年のあゆみ』1981・北海道開拓記念館・177P
[2]『広島村史』1960・広島村・361P
[3]同上・361-262P
①国土地理院 地図・空中写真・地理調査 https://www.gsi.go.jp/tizu-kutyu.html
②https://ja.wikipedia.org/wiki/北垣国道
③北海道公式サイト http://www.pref.hokkaido.lg.jp/ss/sum/senjin/nakayama_kyuzo/index.htm

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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