北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

関矢孫左衛門と北越植民社(2)

 

関矢孫左衛門

 

北越殖民社の創設
維新の志士、北海道開拓を志す

 

江別市は明治11(1878)年に江別屯田10戸56人が、江別市の東側現在の石狩川沿いの現緑町から王子辺りにかけて入地したことから始まりますが、西側である野幌地区を拓いたのが新潟県出身者によってつくられた北越殖民社です。
 
この連載は北越殖民社のリーダーである関矢孫左衛門を紹介するものですが、北越殖民社の創業者は関矢ではありません。新潟県大橋一蔵という新潟県南蒲原郡の郷士によって創られました。大橋は志半ばで逝去しましたが、大橋が立ち上げた北海道開拓の志を継いで花咲かせたのが関矢孫左衛門です。関矢に触れる前に「北越殖民社」の創設者大橋一蔵を紹介しましょう。

 

■北越殖民社の創設者──大橋一蔵

『江別市史』は大橋一蔵をこう紹介しています。

 

大橋一蔵①

  

大橋一蔵は新潟県南蒲原郡下島村の郷士の家に生れ、青年になって勉学を志して上京したが、同窓には慷慨(こうがい=世間の悪しき風潮や社会の不正などを、怒り嘆くこと)の士が多く「当時維新の業わずかに緒に就きたるも、内政は当路者の専横に悩み、所在不平の声に満ち、外交は機宜を失し、国権萎縮、外人の跋扈(ばっこ)甚だしく、征韓論弾圧以来国論沸騰朝野騷然たり」(大橋一蔵略伝)という国情を憂い、要路の者に意見書を出し、志士先輩を歴訪して意見を戦わすうち、前参議前原一誠を知り、萩の乱に連座して、終身懲役の判定を受けて市ヶ谷の獄に下った。[1]
 
明治初期の北海道開拓は、幕末の動乱に生まれ遅れた志士たちによって牽引された、というのは当サイトの主張の柱ですが、江別の基礎を築いた大橋はまさにそうした人物です。大橋は嘉永元(1848)年、新潟県新発田藩の支藩・沢海藩の代官大橋彦造の長男に生まれました。
 
17歳で江戸に遊学して剣書を学び、帰郷後、同郷の維新の志士片桐省介の影響を受けます。片桐は幕末に江戸で尊攘派の志士として活動し、維新後は東京府の判事となりました。維新後、大橋一蔵は新しい時代に対応すべく知見を広めるべく再び上京。儒学者大橋陶庵の陶菴塾に入り、ここで福岡秋月藩の益田静方と出会います。
 

前原一誠②

 
そして益田の紹介で長州萩に行き、元長州藩士で維新十傑の一人に数えられる前原一誠、元奇兵隊長・奥平謙輔らに会い、さらに薩摩に入って、いわゆる不平士族との交友を深めました。
 
明治9(1876)年10月26日、新政府参事の要職を辞して故郷山口県に戻っていた前原一誠は、熊本城下で神風連が決起したことを聞くと、10月28日、奥平謙輔とともに「殉国軍」を同志100名を組織して挙兵。天皇への直訴を求めて山陽道を東に向かいます。しかし、待ち伏せした政府軍と戦いとなり、鎮圧されました。これが「萩の乱」です。
 
大橋一蔵は前原が明治9(1876)年萩の乱を起こすと馳せ参じました。しかし乱が不成功に終わると自ら捕らえられ、終身刑の判決を受けるのです。
 

『萩一戦録』 萩の乱の錦絵 ③

 
明治14(1881)年に特赦を受けて帰郷すると、郷里は自由民権運動の高まりにありました。一蔵はこれを憂い、「時流民権論矯檄軽佻の風を装い、国体を宣明し、忠孝を鼓舞せん」として松方正義(6代目内閣総理大臣)などの協力を得て「明訓塾」を設立しました。新潟県の名門・明訓高校の前身です。西欧化一辺倒の時流に流されることなく、わが国古来の伝統に立脚した独自の文化を築くことのできる人材の育成が目標でした。
 
 

■一蔵 北海道開拓を志す

一方、大橋一蔵には、北海道開拓の宿望がありました。
 
獄中においても「守備と開拓」を建言し、たまたま樺戸集治監設置の話を聞き、囚徒の1人として渡道開拓に従うことを希望したが、出獄後も北海道事業に関する意見を当路者に開陳し、明訓校の創立に関係の深い、松方正義伯などもこれに賛成して、大いに激励したものという。[2]
 
大橋に北海道開拓の重要性を説いたのは同郷の志士・三島億二郎です。三島は長岡藩士で戊辰の役では幕軍について活躍しましたが、幕末長岡藩の「三傑」と言われる英才で、維新後その才能を買われて長岡藩事に就き、戦火によって疲弊した故郷長岡の復興に尽力していました。そして三島は北海道に長岡県人を移すことで故郷の疲弊を救うことを考えたのです。

三島奥三郎④

 

三島は北海道開拓の夢を実現すべく明治15(1882)年に官を辞めて道内視察の旅に出ます。ここで当時開拓使を継いだ札幌県の官僚を務めていた同郷の森源三を訪ね、開拓事業への確信を深めました。
 
森源三も長岡藩士として戊辰戦争で幕軍として戦いましたが、戦後新政府に取り立てられて、長岡県の参事になっています。そして明治5(1872)年、開拓使に転じ、明治14(1881)年には札幌農学校の2代目校長となりました。彼もまた明治22年に官吏を辞めて、妹背牛で開拓事業を起こしています。

 

岸宇吉⑤

三島の北海道開拓に実業家として協力していったのが岸宇吉です。岸は長岡の呉服商岸家の養子となった人物で、維新後に商才を発揮し、各方面に事業を広げ、第六十九国立銀行(現北越銀行)の創始者の一人、永年支配人となりました。
 
岸家には当時高価だったランプがあり、身分を問わず戊辰戦争で荒廃した長岡の復興を語り合う「ランプの会」が開かれていました。大橋一蔵、森三蔵もこの中で議論を交わし合い、北海道開拓を志していったのです。
 

■北越殖民社の創設

北越殖民社は、維新の志士として各方面に顔の広い大橋一蔵を代表に、三島億二郎が企画し、岸宇吉が財政面を支えることで明治19(1886)年1月に設立されました。
 
明治18(1885)年大橋一蔵は、遠縁の者大橋順一郎および友人で町に呉服商を営み、同じく北海道に志をもっていた笠原文平とともに北海道を視察して帰郷すると、ただちに同志を募り、明治19(1886)年1月、北越殖民社を創立し、本社を長岡市坂ノ上町三島億二郎方におき、同年4月までには大橋一蔵と実弟大河原文蔵、近親大橋順一郎などは江別太(当時幌向村)千歳川畔に居を定め、そこを支社として第1回移民地の創設、移民事業保の出願、事業地の選定などに当った。[3]
 
こうして大橋一蔵らは北越殖民社の名前で江別の西部に入植を出願します。
 
北越殖民社の第一事業地として選定したところは、すでに前年政道の際選定出願しておいた今日の越後村で、幌向原野の西部、江別市街から岩見沢に通ずる国道に沿った20町歩であった。
 
当時岩見沢戸長役場の官下に属した空知郡幌向村で、石狩・江別両川の対岸は屯田兵村が設けられていたのに、幌向原野はほとんど無人の荒野にあり、わずかに江別太鉄橋付近に三戸、江別川を遡る20余丁の開成社願地内に牛山民吉ほか3戸、および川沿いにアイヌの家屋が数戸散在するにすぎなかった。[4]
 
出願の年、北海道3県が廃止され、北海道庁が新設されますが、岩村通俊新長官は大橋らの出願を気にかけ、東京から「大橋一蔵等移民許可ナルベシ」の電報指令を発し、5月7日付をもって許可されたのです。
 
ちなみに岩村通俊は萩の乱の当時、山口県裁判所長として関係者の審判に当たりました。大橋一蔵に対して終身刑を下したのも岩村です。それだけに大橋が恩赦の後、北海道開拓を志したことがうれしかったのでしょう。
 

 


【引用出典】
[1]『江別市史 上巻』1970・江別市・299p
[2]同上
[3]同上300p
[4]同上302p

①見附市教育委員会http://www.mitsuke-ngt.ed.jp/mt/archives/2005/05/post_239.html
②③④ https://ja.wikipedia.org/wiki/

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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