北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

関矢孫左衛門と北越植民社(3)

 

関矢孫左衛門

 

江別野幌開拓が始まろうとするとき
大橋一蔵は不慮の事故に遭う

明治維新の動乱に疲弊した越後の人びとを北海道開拓で救う──維新の志士として活躍した大橋一蔵はそう誓って、北越殖民社を設立、現在の江別市野幌に農場を拓きます。さまざまな困難を乗りこえ、どうにか農場が軌道に乗り始めた矢先、大橋一蔵は不慮の事故で命を落としてしまうのです。
 

 

■大橋一蔵、移住民を集める

明治19(1886)年、北海道3県を廃止して北海道庁が設置され、初代長官岩村通俊の到着からの許可証はまだ到着していなかったものの、耕作時期を失ってはならないと、大橋ら北越殖民社は野幌に幅10間の道路を設け、道路をはさんで5戸ずつ向い合せに合計10戸を建てて、入植の準備をしました。1戸当たりの土地は間口40間・奥行150間の2町歩でした。
 
これらの準備を大河原文蔵と大橋順一郎に任せ、大橋一蔵は笠原文平とともに新潟に戻り、移民の募集を始めました。このとき入植者と北越殖民社が交わした契約書は次のようなものです。(難しい漢字を平仮名にしています)
 

『互換約定書』
今般北海道拓地殖民事業を目的として北越殖民社を創立するにつき本社と移住応募者との間において結約する条件は次の如し。

 

第1条 拓地は北海道石狩国空知郡幌向村字江別太より起手すること。

 

第2条 北越殖民社の応募者に対する責任は次の如し。
 
第1款 越後国新潟港より拓地まで迎送すべき移住者旅費並びにその他の費用はすべて本社より貸与すること。ただし、海路は汽船あるいは西洋型帆船を用ふべきこと。
 
第2款 拓地到着の上は家屋1棟、農馬および挑帯せし農具のほか、必要の器物はすべて本社において現品を貸与するべし。
 
第3款 食料は米麦折半し、1戸10石(1140kg)の目的にて貸与す。しかしして1戸40に10カ月の見積なるをもって人口の多少、老幼の区別により増減することあるべし。その割合は次ごとし。1日の定率大人(60歳以下14歳以上)平均7合5勺、7歳以上13歳以下平均3合7勺、7歳以下3歳以上平均2合3勺。
 
第4款 道路排水および新犂(しんまだらすき=牛にひかせて畑を起こす農具)等は地形の難易を斟酌してその幾分を補助すること。
 
第5款 移民に貸与する所の実費半額は本社の負担として追償を要せざること。
 
第6款 開墾の地所は1戸に分担する全反別成墾の後、これを折半して移住者すなわち小作人に分与するを例とす。しかれども第5款の負債義務を果さざれば所有権を与へざるのこと。ただし移住者中やむを得ざる事故あり、定期中に墾成し能ざるか、または期限内といえどもども負債を一時もしくは数期に返納せんとするものあるときは、その事情を具し、さらに本社の商議を経て適当の処分をなすべきこと。

 

第3条 移住応募者の植民社に対する義務は左の如し。
 
第1款 拓地へ送籍証を携帯して永住すること。
 
第2款 所在地より越後国新潟港までの旅費は自弁のこと。
 
第3款 移住地の法令を尊奉するはもちろん、殖民社の指揮に服従し、そ節約勤勉すべきこと。
 
第4款 1戸11万5000坪(約38ha)を定率とし、3カ年以内に成墾すること。
ただし牛馬耕その他改良農具使用法等は本社より漸次伝授せしむべきこと。
 
第5款 移住後5カ年目より、負債金半額(家屋食料農具移住費等)向こう10カ年に限り完済すべきこと。ただし、その半額は本社において負但すること。
 
第6款 殖民社所有の成墾地は小作人において小作すべきはもちろん、しかしやむを得ざること幼あり、小作を辞せんとするときは必ず、相当の小作人を選ぶか、すべて本社の承認するにあらざれば解約するを得ざること。ただし、小作料は漸次大小豆大小麦等現品をもって収むべしといえどもども、まず初墾より4カ年目にいたり、1反に付き、金1円内外の目的をもって、地味相当に収むべきこと。
 
第7款 移住者は以上の責任定款に乖戻(かいれい=そむき逆らうこと)するときは、北海道中の苦役に従事し、負債の全部を償還せしむべきこと。

 

右約条の通責任を分けてこれを恪守(かくしゅ=まじめに守り従うこと)すべし。なお土地にり実際不都合の廉(かど)あらば北海道庁の認可を経て改正増補することあるべし。よって署名捺印してその確実なるを証表する。[1]

 
北越殖民社が約束したことは、移住者に貸し与えた原野を3年以内に開墾できれば、半分を北越植民社の土地として引き続き入植者に小作人として農耕してもらい、残りを半分は入植者の所有地とするものでした。
 
この事業主が提供した原野を入植者に開墾してもらい、半分を入植者の所有地とする方式は「半分け」「拓き分け」などと言われ、その後の大規模農場の開墾方式として定着していきます。
 
そして北越殖民社では、その費用のうち渡航費用を除いた生活と農耕にかかる資金や道具は北越殖民社が貸与し、費用の半額に限り10年の分割で入植者へ返済を求めるというものでした。
 
後の北海道開拓では、5町歩を5年のうちに開墾すれば、その土地は入植者の所有地となりましたが、渡航費を除けば開墾経費・生活費への補助はありません。その他にもさまざまな留保が付いていますので、後の入植者に比べると相当優遇されたものでした。
 

■行き場を失った島根移民団を助ける

こうした厚遇を用意しても、明治19(1886)年の江別・野幌に渡りたいとする人はほとんどいませんでした。大橋の件名の呼びかけに応えたのはわずか10戸にすぎません。その人たちにしても、北海道に渡るため次のような苦労を重ねています。
 
一行が無事、江別に着いたのは6月22日であるが、連絡不充分のため準備が整わず混雑し、その上、荷造りが悪かったので鍋、釜、陶器類はみな破損したり、衣類は塩水にぬれて非常な捐害や不自由を被ったが、25日には完成したばかりでまだ建具の入らぬ小屋に移ることができた。[2]
 
こうしたとき、たまたま島根県から移民団7戸が北海道に渡ったとことで、移民団を募集した事業主が事業を放棄するという事案がありました。北海道庁は大橋に引き受けてもらうように頼みます。8月にこれらが移り、北越殖民社の開拓が始まります。これが野幌開拓の始まりです。
 
大橋は新潟県から10戸に島根県の7戸を加えた入植地は、開村の経緯から「越後村」と呼ばれます。大橋はこの植地の成功を願ってできるだけの手を打ちます。
 
9月末には倉庫や事務所も出来て、そこへ移ると、農業指導の重積を負った植民社は、種子を札幌育種場に求め、指導者養成のため新潟県の農学校ならびに明訓校の卒業生、柿本敏吉、平沢耕平、松川浅次郎の3名を札幌農学校伝習科に入学させ、現業を慣わせ、新農具プラオ、ハローなどの伝習のため江別市街と越後村との中問に21町歩の馬耕試作場を設け、初年より移民に馬を飼育させるなどして、入地は遅れたが相応の努力の跡が見られた。[3]
 

「北越村入植之地」碑と碑文①

 

■開墾地を広げる

さらに大橋は土地貸下げ出願をして事業地の拡張をかかります。
 
探査はさらに続いて、7月、大橋一蔵らによって現在の野幌の広島開道筋を、さらに社員視察団一行を加えて旧伊達願地方面の踏査が行われた。
 
当時、現在の広島街道は一面の山林、原野であり、ただ何某の願地であることを示す標杭が立っているだけで、人影はなく、二三の破棄された山小屋と、木材搬出のためにつけられた経路が縦横に走るのみ。
 
伊達屋敷方面は元伊予宇和島藩主伊達宗城の払下地があり、当時は放棄されていたが、80戸ほど入地の計画がたてられ、一部は伐木、小屋掛が行われ、ここから現在2号線・竹見堅蔵の横を通って排水が切られていた。この路査の後ただちに貸下願書が提出された。[4]

伊達宗城②

 
この「伊達屋敷」は、現在の江別市野幌若葉町に「伊達屋敷公園」として名前が残っています。旧宇和島藩主伊達宗城が払下げを受けたものの放置された土地でした。
 
なおこの伊達宗城は伊達政宗の長男伊達秀宗の家系ですが、豊臣秀吉に人質として差し出され、豊臣秀次の失脚と共に連座して四国伊予(愛媛県)への国替えを命じられたものです。北海道でなじみ深い宮城県の伊達諸藩と血筋的には同じですが、四国の伊達家です。
 
こうして開墾地を広げた北越殖民社ですが、やはり多難な船出でした。
 
それに社としても、明治20(1887)年、月形集治監によ開墾された耕地240町歩の払下げを受け、建物、大農具を無料で借りて直営した知来農場では大きな損害を被り、また貨物船が難破して、社もその被害を受けるなど、多くの打撃を受けたため、この年はわずかに知来乙に50戸の移民を送ったに留まり、野幌の経営は、大橋順一郎、平沢政栄門、松川安二郎どの幹部の入地を見たにすぎなかった。
 
そこで社は、やむなく他県人をも入れることにした。こうして20年末には津軽人を主とし、翌年および翌々年は阿波人が多く、直接越後から来た者もあったが、道内各地から集まったものも多く、これらの人こそ野幌原野の草分けだったのである。
 
なお、この年度の移民は徳島県出身のものが多く藍作を得意としていとしていたので、それを作ったときは社において倉庫や筵などを斡旋することをも約束している。[5]
 
困窮する越後地方の農民救済のために始まった北越殖民社ですが、北海道に対する理解が広まらない中、北越からの入植は進まず、結果として全国から北海道開拓を志す者たちを集めての船出となりました。
 

■大橋一蔵 老婆の身代わりとなって死す

こうして明治20(1887)年にからくも出発した北越殖民社の野幌開拓事業ですが、明治22(1889)年1月、予期せぬ悲劇が襲います。強い信念とカリスマ性で事業を推し進めてきた大橋一蔵が突如事故で亡くなるのです。
 
以上にして殖民社の事業は幾多の困難に当面しながらも、着々と進められていたが、突然、開拓の中心人物である大橋一蔵が、明治22(1889)年1月、長岡で有志と事業打合せを行って、2月11日憲法発布祝賀の日、和田倉橋付近の雑路の中で、馬車の下敷になろうとした老婆を救って自らその犠牲となり、ついに同月20日逝去するという悲運に際会した。
 
由来、北越殖民社は殖民社なる名称をつけて事業を開始しているとはいえ、何ら明確な規定にもとずいた組織ではなく、大橋一蔵その人の人格を信じて知友が協力していた状態で、知来乙直営農場の失敗の際も、出資者の中には担当者の軽挙を非難する者もあったが、一蔵の強固な意志と統制力はよくそれに打ち勝って事業を推進していたのであった。そうしたなかに彼の不慮の客死はまさに事業崩壊の危機に至らしめた。[6]
 
老婆を救って犠牲になった──大橋一蔵らしい最後でしたが、北越殖民社ならびに野幌に残された人びとはどうなってしまうのでしょうか?

 

 

 


【引用出典】
[1]『江別市史 上巻』1970・303-304p
[2]同上・304p
[3]同上・306p
[4]同上・306-307p
[5]同上・311p
[6]同上・311-312p
①北海道江別市立江別太小学校公式サイトhttp://www.ebetsu-city.ed.jp/ebuto-s/html/gaiyou/enkaku-00.html
②https://id.wikipedia.org/wiki/Berkas:Date_Munenari_in_uniform.jpg

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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