関矢孫左衛門と北越植民社(4)
関矢孫左衛門
尊皇の志士・関矢孫左衛門、幕末を走り抜く
明治22(1889)年2月、野幌開拓のために奔走していた北越植民社の社長・大橋一蔵は帰らぬ人となります。残された人びとは魚沼の大庄屋・関矢孫左衛門に後継者になるよう懇願します。地域の大地主であり、尊皇攘夷運動に挺身した志士、関矢孫左衛門の登場です。
■関矢孫左衛門の登場
馬車にひかれそうになった老婆の身代わりになっての大橋一蔵の死。ほとんどを一蔵に委ねてきた北越植民社は危機に陥りました。昭和22年の『野幌部落史』はこう書きます。
なおこの『野幌部落史』は東京帝大農学部学んだ関矢孫左衛門の子である関矢留作が編さんしに着手し、昭和11年に留作氏が亡くなると亡き夫の意志を継いだ夫人の関矢まり子氏によって完成したもので、戦前における北海道開拓史の不朽の名著と言われています。
かくするうちに常に先頭に立って事業の原動力となってゐた大橋一蔵の急逝という致命的な突発事件が二十二年二月二十日束京において起きた。同年一月長岡で有志者と事業の打合わせを行った後上京、二月十一日憲法発布祝賀の日、和田倉橋附近の雜踏の中で、馬車の下にならんとしたー老婆を救って氏自らその犠牲となり、二十日逝去した。[1]
そこにおいて三島、岸、笠原等は関矢孫左衛門を直接事業責任者として推薦した。先に引用せる「北征雜錄」によっても推察される如く関矢は最初から事案に參加してゐた。長岡六十九銀行創設に三島、岸と共に強力して長岡人との交友関係は古いものであり、また明訓校創立に当たり大橋を知り、志を同じくして三余していたが、当時南、北魚沼二郡郡長の要職にあったため表には立たなかった。すでに老境に逸した三島億二郞は共の任に耐えず。関矢の出馬を画すことによって殖民社の苦境を脱せんと、その懇願拒み難く遂に郡長を辞して渡道を決したのである。[1]
こうして北海道史に燦然と名を刻む関矢孫左衛門が登場します。
以下は平成19年に新潟日報事業者から出版された磯部定治氏の『情熱の人 関矢孫左衛門』によって構成しています。明治維新から150年が経ち、本州では北海道開拓に貢献した人物を郷里の偉人として評価する動きがすすんでいますが、ご承知のように北海道はそうした動きから背を向けています。燦然と名を刻む──と書きましたが、哀しいことに地元江別でも関矢孫左衛門の名を知るものはほとんどいません。
■越後の大庄屋の跡取りとして
関矢孫左衛門は、弘化元年(1844)1月24日、刈羽郡高田村(現柏崎市)新道の大庄屋、飯塚七重郎の4男に生まれました。幼名を猶吉といい、3人の兄と共に漢学者の藍沢南城の「三余塾」で学びました。藍沢の門下生からは越後の勤王運動の指導者が多く輩出します。
猶吉は14歳の時、関矢家の養子となりました。ここから関矢孫左衛門と呼ばれるようになりますが、これは通称で実名は忠靖、字は恭郷といい、戊辰戦争の頃は正人と名乗っていました。
関矢家の本宅①
関矢家は魚沼市並柳の大庄屋で、魚沼が寛保3(1743)年に魚川領になった時、並柳他近隣11村の庄屋となり、名字帯刀を許されました。代々有能な当主に恵まれ、明治28(1895)年、孫左衛門が長男橘太郎に家督を譲った時、田約74町、畑約17町、山林約64町で、小作米は825石余の財産があったといいます。関矢家は幕末にかなりの財産を失いますから、最盛時はこれより多くの財産がありました。
先代徳三郎が亡くなったことから、英才として知られていた猶吉に白羽の矢が立ったのでしょう。養子に迎えられ、徳三郎の一女・要と結婚します。
■尊皇攘夷に艇身
関矢家に入った孫左衛門ですが、兄を訪ねるうちに兄の三余塾の学友で尊皇運動の志士たちから強い影響を受け、みずから攘夷運動に奔走するようになります。尊皇の志士を匿ったり、運動資金を渡すことも多く、関矢家のかなりの財産が若き当主孫左衛門の運動費に消えました。『情熱の人 関矢孫左衛門』にこんな話しが伝わっています。
並柳の孫左衛門の縁者関矢靖司氏によれば、坂本龍馬の長兄権平直方の養子(娘婿)坂本清次郎という人(後に坂本家を離れ三好清明と名乗った)が、やはり孫左衛門のもとに潜伏していたことがあるという。この人は慶応三年龍馬を追って脱藩、京都へ出た。
龍馬が暗殺された時は大坂の海援隊詰所薩摩屋敷にいたが、その夜のうちに淀川を遡り、伏見から京都に潜入した。その後の足取りがぷっつり分からなくなっていたが、その不明の期間中は越後へ高飛びしていたのではないか、と考えられている。[2]
関矢孫左衛門のいた魚沼並柳は、糸魚川藩の領地で幕府の譜代大名越前松前家の所領です。安政の大獄の頃の当主は維新史で名を知られる松平春嶽です。幕府方の藩でしたが、魚沼並柳は会津藩領に囲まれた飛び地で、松平家の支配力もあまり及ばなかったのです。
一方、会津藩は強固な佐幕派で、幕末期の当主、松平容保は文久2年に京都守護職となり、新撰組を支配下に置いて、攘夷派の志士を弾圧しました。このため、会津藩は尊攘派の仇となり、会津藩領の中の飛び地である並柳には、会津藩の動静をうかがう尊攘派の志士たちが身を潜めたものと思われます。
関矢孫左衛門が幕末から坂本龍馬とつながっていたことを物語る逸話ですが、坂本龍馬が北海道開拓を志していたことは知られるところですが、後年、野幌開拓に従事する関矢孫左衛門は龍馬の思想を受け継いだのかもしれません。
さて、関矢孫左衛門は表向きは魚沼の大庄屋として振る舞う一方で、密かに尊攘派の活動を続けていました。
石黒忠悳②
日本陸軍の軍医制度を基盤を作り、日本赤十字社の社長にもなった石黒忠悳も若い時代に尊皇攘夷運動に明け暮れた一人ですが、こんな回顧録を残しています。
私が江戸から越後へ帰って後、最も親しく交わり、互に心事を打明けて語ったのは、北魚沼郡並柳村の関矢孫左衛門忠靖氏でした。此人は私より一年歳上で学問もあり、沈毅質實な人で、かねて勤皇援夷の志篤く、地方での人望家でありました。私が嘗て会津藩の捕吏にねらはれた時、先づ潜伏して居たのは此人の家でした。[3]
■民兵組織「方義隊」を組織
このようにして時代は進み、薩長同盟の密約で尊王攘夷派は大同団結し、慶応3年の大政奉還と王政復古の大号令となります。これを潔しとしない会津藩など北陸東北の諸藩は奥羽越列藩同盟を結び、官軍に抵抗します。戊辰戦争の開始です。
会津藩は新政府に対して恭順の態度を取りましたが、薩長政権には松平容保によって弾圧された者が多く武力で討伐することを決めます。松平容保も態度を固め、戊辰戦争のなかでももっと激しい戦いとなった会津戦争が始まります。
このとき、関矢孫左衛門は庄屋の旦那の仮面を脱ぎ捨て、公然と会津藩に戦いを挑みます。
鳥羽・伏見の戦いから間もない1月9日、北道鎮撫総督が北越に下ることになった。越後の勤皇の志士はこれを吉報とした。関矢孫左衛門、高橋竹之助らは三島郡坂谷村(現長岡市・旧和島村)の豪農池浦広太郎の家で会合を開き、 私兵組織「方義隊」を作ることにし、代表者に室孝次郎や松田秀次郎を選出した。池浦家は関矢家の遠縁に当たっていた。
方義隊の組織に当たって同志は、隊員を募集し武器を集めると同時に、江戸の大総督府(有栖川宮家)に願い出て「大隊旗」を拝受しようと考えた。(中略)そのために真つ先に江戸へ向かったのが関矢孫左衛門である。[4]
奥州会津辺大合戦③
■有栖川宮から「錦の御旗」を頂く
「方義隊」は、大義を掲げて官軍に参加し、会津方と戦ったとしても、まったく私兵です。お墨付きがなければ戦場に駆けつけることも許されないでしょう。仮に戦いに参加することが許され戦死しても、省みられることもありません。関矢たちは「錦の御旗」が必要だと考えたのです。そして官軍の最高司令官、東征大総督である有栖川宮熾仁親王から軍旗を下されることを考えたのです。
これは『情熱の人 関矢孫左衛門』に引用された「廣瀬村史」にある関矢孫左衛門が上京を母に告げた場面です。
孫左衛門其地に安居するを得ず、深く決する所あり。(中略)盃を傾け決意に決意を告ぐ。母日く、今の時我家の安危計り知るべからず。児、橘太郎を以て累代の家系を立てしむべし。汝進んで王事に勤めよと。母子相対して泣咽す。[5]
周りは会津の藩士に囲まれ、捕らえられてて撃たれるかもしれません。無事東京に着いても、越後の一庄屋が軍旗を有栖川宮から賜るなど身分不相応として罰せられるかもしれません。生きてかえったとしても、手ぶらで帰れば、これまで築いてきた関矢家の信用は一挙に失われるでしょう。母子の涙にはそんな意味がありました。
江戸に上がった関矢孫左衛門は、官軍の副総裁四条隆平に面会します。
副総督四条隆平に面して越後列藩、徳川氏脱兵、会津兵等に威圧せられ全国挙げて敵に陥るの状況を陳じ、同志と共に兵を挙げんことを切言す。隆平大総督府に達し菊花章の大隊幟を賜ふ。時に秀次郎保則来たり會す。因て同志と共に御旗を擁して越後に還る。[6]
錦の軍旗を賜ることのできたのは、魚沼の大庄屋として糸魚川藩に多額の融資を行っており、糸魚川藩が藩を挙げて関矢孫左衛門に協力したからでした。それ以上に関矢孫左衛門の人物が、有栖川宮を、官軍を動かしたのでしょう。
■会津戦争三国峠の戦いに参加
鳥羽伏見の戦いに勝利した官軍は軍を東に進め、江戸が無血開城されると、仇敵である会津藩の討伐に向かいます。世に言う会津戦争がの勃発です。この時、関矢孫左衛門は緒戦の三国峠の戦いにおいて、斥候として戦いに参加しました。
二階堂保則らが大隊旗を奉じて越後入りした時には、戰線は小千谷・長岡方面に移ってハた。 一巳先に帰った関矢孫左衛門は高橋竹之助らとともに、 三国峠から小出島に至る戦いや、榎峠・朝日山の戦闘で西軍に協力した。榎峠・朝日山の戦いの時には柏崎と小千谷の間など、西軍の拠点を往き来して連絡につとめている。[7]
官軍の圧倒的戦力で連戦連勝の印象の強い戊辰戦争ですが、この戦いでは会津軍は健闘し、官軍にあった長州藩の騎兵隊の参謀山県八が戦死しています。関矢孫左衛門の役目も命懸けであったことは言うまでもありません。
なおこの戦いで、関矢孫左衛門は一旦地元に戻り、郷民に避難するように告げてから戦場に戻っています。
我が家に飛び込んだ孫左衛門はまず、擾峠・朝日山の戦闘で西軍が敗れ、戦局全体は不利な状況にあることを話し、村中にそれを伝えて早く家財道具を避難させるように、と勧告した。孫左衛門にしてみれば、自分の立場は並柳をはじめ十二カ村を統括する割元庄屋であるから、村々を危険におとしいれるようなことはできない。とにかく万難を排して村を救わねばならない、という意識が強く働いていたに違いないのである。[8]
官軍側に立って戦う一方で、庄屋としての責任を忘れない孫左衛門らしいエピソードです。
さて官軍は苦戦はしましたが、三国峠を通り抜けと長岡城、若松と攻め落とし、戊辰戦争の勝敗は事実上、決しました。
関矢孫左衛門が組織した民兵隊「方義隊」はその後「居之(きょし)隊」と名前を変え、明治3年に東京に移り、第三遊軍として皇居平川門の守備に就きましたが、明治9年9月に役割を終えたとして解散しています。
この時から関矢孫左衛門の明治が始まります。
【引用参照出典】
[1]『野幌部落史』1947・野幌部落会・63-64p
[2]磯部定治『情熱の人 関矢孫左衛門』2007・新潟日報事業社・13p
[3]同上12p
[4]同上14p
[5]同上15p
[6]同上34p
[7]同上20-21p
[8]同上22p
①『北海道開拓 原生林保存の功労者・関矢孫左衛門』柏崎市立柏崎ふるさと人物館・2003・1P
②Wikipedia
③『文化財オンライン』文化庁https://bunka.nii.ac.jp/heritages/heritagebig/204236/1/1