北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

「長沼」 吉川 鉄之助 (中)

 

 

■鉄之助、札幌農学校吏員となりクラークに出会う

吉川鉄之助の父は、山形県の水沢から入植し、平岸の「草分けの人」として開拓に尽力しました。鉄之助はその姿を見て育ちます。成長して開拓使の吏員の取り立てられ、現在の北海道大学の前身、札幌農学校の事務職員に配属されます。ここで運命的な出会いを経験します。以下『長沼町の歴史』1962よりご案内します。
 
おりから北海道の天地は、明治初期の開拓草創期にあり、札幌本府創建が着々行なわれていた。開拓使、3県分立、北海道庁等々、彼がこの馬追原野に達するまでの約15年間は、めまぐるしい変転、あるいは混迷停滞の時期であったが、重い開拓の扉は徐々に開かれていった。
 
鉄之助は、その開拓の胎動を直接感じながら、札幌農学校や開拓使および札幌県の職員として尽力し、また3人の子の父ともなっている。
 

クラーク博士(出典①)

鉄之助の履歴書は、現在道庁人事課および文書課分室で発見されたものだか、彼の2男で現在も北見市に住んでいる山辺忍および一族の思い出などを総合して見ると、明治9(1876)年、北海道大学の前身である札幌農学校の開校当初、開拓使学務局雇として学校職員となった。
 
有名なクラーク教頭の赴任によって、学生ではなかったが、小人数のことでもあり、つねに博士の温容に接しその感化をうけ、キリスト教を信奉するようになり、のちに札幌独立教会の建設にも加している。馬追原野に入地した時もつねに聖書を携えていたといわれる。
 
明治16(1883)年ごろ、札幌県令調所広丈が日本人の体格を食物によって改めようと大いにその趣旨を普及したことがあるが、有識者たちは「食物改良同盟」をつくり、ハッジを胸につけてパンの常食をすすめた。
 
鉄之助は勧業課にあってパン作りの技術を習い「勧業吉川のパン」と名付けて売り出したことがある。これは一時良く売れたといわれるが、のちに外人によって優れたパンをつくるようになってから中止された。[1]
 

■停滞する北海道開拓

吉川鉄之助は札幌農学校の職員として「少年よ! 大志を抱け」の名言を残したウィリアム・クラーク博士に大きな影響を受けます。また札幌農学校一期生であった内田瀞(きよし)と友情を結びます。ちょうど北海道開拓使が北海道開拓10カ年計画の終了とともに解散し、北海道は函館県、札幌県、根室県の三県時代となりました。この時代に北海道の開拓は停滞します。
 
北海道の当初の開拓は、開拓使による手厚い保護によってはじめられた。移民は官費をもって土着させ、家作料、農具、衣食の費用、開墾費などを支給し、租税を特免して永住をはかった。しかし未開地の処分についてははっきりした規定がなく、明治5(1872)年になってはじめて「地所規則」「北海道土地売貸規則」が出された。
 
また、明治7(1874)年には「移住民規則」を改正し、「入籍より一家の力を以て3年間に開墾したる土地は地価を徴せず、年々検地の上、地券を渡して私有地とし、その年より7年間租税を免ず」ることにされた。
 
それにもかかわらずこの開拓使および3県時代の開拓の実績はあまりはかばかしいものはなかった。その原因には次のようなことが挙げられる。
 
北海道に対する一般の認識か浅く、まだ重罪人の流される蝦夷ガ島という概念が強く、その中であえて渡道してきた大多数の人々は禄を離れた貧乏士族か、または官の募集に応じた食いつめ者が大多数であった。
 
これらの人々はこの極端な官の保護に頼り、10年あまりたってもなお自立の態勢が整わなかった。そのため開拓使が廃され、県制となった明治15(1882)年には、北海道開拓に要する10カ年の定額1000万円が満期となり、自治の基礎を作り、独立進取の気風を作ろうとする企図ははなはだ望み薄であった。[2]
 

■道庁成立、新土地払下制度

停滞する北海道開拓に危機感を燃やした政府の重鎮、伊藤博文は腹心の金子堅太郎を派遣して調査を行い、新たな北海道開発方針の立案を命じました。
 

金子堅太郎

金子堅太郎(出典②)

明治18(1885)年、参議伊藤博文は、秘書官金子堅太郎を派遣して、北海道の状況を詳しく調査させた。金子大書記官は2ヵ月を費やして、つぶさに実情を調査し、その改革に関する腹案を得て帰京後、詳細な復命書を提出した。[3]
 
明治19(1886)年、金子書記官の意見に基づき3県は廃止されて、北海道の拓殖はここに再びひとつの機構に統一を見て、初代長官に岩村通俊を迎え、北海道庁が設立された。[4]
 
引き続き金子書記官が指摘した明治5(1872)年の「土地売貸規則」が取り下げられ「北海道土地払下規則」が発布されるにいたった。これが「明治19(1886)年6月閣令16号」でもっとも注目すべき未開地の処分法であった。
 

その払下面積は1人10万坪を限るといえども、盛大の事業にしてこの制以外の土地を要するものは特に払い下ぐることあり。しかしして払い下ぐるに先だち、必ず貸し下ぐることとし、貸下出願者は事業の目的、着手の順序及び成功の程度、毎年配当坪数等を詳記して出願し、貸下期間は10年以内とし、土地の景況、事業の難易によりて、これが長短を定め、毎年その配当の坪数の成功を点検し、その年配当りの事業ならざる時は、その成功したる土地を除き、その他をすべて返納せしむ。素地代価は1000坪に付き1円とし、成功の後払下げ、その翌年より10ヶ年(22年閣令第22号を以て20年と改正)の後にあらざれば、地租及び地方税を課せざるものとす。

 
このようにして売払地の開墾未着手の弊を除くとともに、1人あたり10万坪に限定されない大面積の払い下げ可能の道が開かれることになった。従来の国営的保護移民政策は放棄され、新興資本家による本道開発が期待され、国有未開地の処分法規はこの方針に沿って進められた。
 
さらに、明治23(1890)年、士族、授産方法の屯田兵制度が終わると、農民にも応募資格を与え、それまでの士族に対する特権を取り去った。
 
このような風潮はおりから、官吏や官営事業に携わった者の民間産業への転出を促し、官服を脱ぎ捨てて未開の荒地へ飛びこんでいく者も出るようになってきた。由仁の古川浩平、本町の吉川鉄之助、福井晴治らもその1人であった。[5]
 

■内田瀞 植民区画を設定する

金子堅太郎の献策に基づいて北海道庁が設けられ、開拓政策は政府保護から民間活力の導入に大きく舵がきられます。そして全道に植民区画が設定されて入植制度の整備が進みます。この植民区画の設定に多大な貢献をしたのが、吉川鉄之助の親友である内田瀞でした。
 

内田靜

内田靜(出典③)

これらの中で直接、本町馬追原野の開拓の動機となったのは植民地選定事業であった。
 
人跡未踏の地に植民の適地を求めて実際にこの仕事に携わった技師・内田瀞は、植民地選定事業の祖であるとともに、その植民地の第1号に選定された長沼町の大恩人でもある。今日の5町歩制度はほとんど瀞の手によって行なわれたものである。[6]
 
また、かっては札幌豊学校時代の友であった吉川鉄之助が、明治十九年、静らの撰定測量中の馬追原野に入植し、みずから開拓の鍬をおろしたことも、きわめて意義のあることであった。[7]
 
内田瀞は安政6(1859)年高知に生れ、札幌農学校の第1期生として入学し、クラーク博士の薫陶をうけた。明治13(1880)年卒業の後直に開拓使に奉職し、札幌、根室間の中央道路開さくの計画あるに際し、その予測を兼ね、日高、十勝、釧路、根室を徒渉して調査し、その際十勝に大平野を発見して早速これを報告した。明治19(1886)年以来、北海道庁の植民事務を担当し、植民地の選定と区画制を定めた。[8]
 
『長沼の歴史』は植民区画の概要を次のように紹介していますが、「開拓入門講座」でも「開拓区画」として取り上げていますので、ご参照ください。
 
今日の5町歩制度はほとんど瀞の手によって行なわれたものである。この区画制は先進農業国家、アメリカにはじめられた方法を基礎にしてなされたものである。
 

一、北米合衆国と同様直角法を用いた。
一、北米合衆国が経緯度を基線に用いたが、北海道では、基線を既成の道路もしくは予定の道路に求めた。
一、したがって方位とはまったく無関係であった。
一、区画地は中・小・大の3種として
イ、小区画は間口100間、奥行150間、地籍15000坪をもってし、これを区画単位とする。
ロ、中区画は小区画6筒をもってするのであって、方300間、地積9万坪である。
ハ、大区画は中区画9筒すなわち小区画54箇をもってするものであって、方90間、地積81万坪。[9]

 

植民区画

植民区画

 
全くの原生林を測量し、区画を設定するわけですから、この測量業務は多大な苦労を伴いました。『長沼町の歴史』は「北海道殖民地報文」を引用してその苦労を次のように伝えています。
 

北海道内部原野は、木樹鬱荒、荊棘(いらばら)繁茂、又は沼沢地、低湿地等にして、行くに路なく、宿するに家なし、この間を調査せんにはまず食糧を負い、刀鋸を携へ、旧土人を先導とし、荊榛(けいしん=イバラとハシバミがおい茂っているところ)を披して路を通し、天幕を張り、雨露を凌ぎ、あるいは跨木舟を造って河川を遡るなど、その困難名状すべからず。こと草木欝生して人よりも長く、爬尺弁ぜざるときは、高木に攀ぢ(よじのぼり)巉巌(ざんがん=険しい山)に上り、ようやく原野の大勢を一瞥してこれが方向を定むるなど、危険を冒すこと少しとせず。[10]

 

 
植民区画の測量作業

植民区画の測量作業 (明治32年天塩国ウプシ原野)。アイヌが案内役・作業補助訳として活躍した(出典④)

 

■内田静 馬追原野を測量

こうして全道で植民区画の設定作業が始まりますが、『長沼町の歴史』によれば最初に設定されたのが馬追原野でした。そしてそしてこの区画設定に吉川鉄之助も同行し、そのまま馬追原野の〝草分けの人〟となりました。
 
明治19(1886)年8月下旬、道庁技師内田瀞、十河定道らは、石狩国空知、夕張の2郡、胆振国千歳、勇払の原野に入り、12月1日の降雪期になって中止するまで測量調査を続けた。
 
同年は江別川、野幌山間の平地でおよそ300万坪、夕張川の左右「マオイ」「フリヌプリ」山下の原野におよそ130万坪、幌向川沿岸に約650万坪の農耕適地を選定した。
 
内田瀞が測量のため当時の馬追山に登ったことが記録に残されている。馬追山脈の山林をかきわけて山頂に達し、馬追原野を眺望した静は、眼下にまだ眠っている当時の馬追原野を評して、「大小の河川、沼沢、深い泥炭層は将来開拓に相当の困難が予想される」と述べている。
 
しかしこの年は事業着手が遅く、かつ沼沢湿地が多く、樽前山の火山灰堆積地、泥炭地のために適地指定はわずかであった。吉川鉄之助はこの植民地選定中にこの原野を訪れたのである。[11]
 

馬追原野の植民区画(出典⑤)

 

■内田静 道庁を追われる

北海道の植民制度に多大な貢献をした内田瀞ですが、結局は北海道庁を追放されてしまいます。このあたり、札幌の開祖となった島義勇が追放されたのと重なるものがあります。開拓というアンビシャスと官僚機構は折り合いが悪いのでしょう。『長沼町の歴史』は内田静の動向を次のように伝えています。
 
瀞はその性格として一意専心事務に努力したのであるが、明治26(1893)年に至り、突然休職を命じられた。官吏は真に水にただよう浮草にも似て真面目に仕事をしようと思っても、一片の辞令で万事終る。これでは大事業は出来ぬ。自分の専攻は農学で天職は農業だから、習熟した米国式機械農業を経営して、広く社会を益するにしかずと考え、雨竜村の妹背牛に入地することとなった。
 
開拓地は不便かつ子女の教育に困難を感じたが、不携不屈の精神で頑張っているうち、1年位で道庁から強っての復職を命じられ、従前の担当事務の責任もあって区画事業に着手したのである。
 
瀞はこの仕事を続けているうちに、またまた一年半ぐらいで休職になり、官の無定見さに義憤を抱きながら、妹背牛に帰って農場経営を続行した。
 
そうしているうちに明治31(1898)年、上川郡の松平農場から「農場の選定にも相談に乗ってもらった関係からも、経営に難渋しているのを援助してほしい」との強い望みがあって、瀞はその人柄から辞退し切れず、これを引受けることになった。
 
新しい農場地の鷹栖に移った瀞は、終生の事業としてこれに努力を傾けたが、この松平農場は近文原野530万坪で、土地は樹林地と湿潤かつ交通の不便な地であった。
 
小作人の異動は激しく、加えて静が入る前後から30年の凶作、31年の大水害や霜害と、悪条件が重なっていた。排水、用水、水田計画と、さらに牧畜部を設け、困難な小作人には温情溢るる資金と指導を試み、北海道における最良の農場に仕上げ、戦前すでに小作地を全面的に解放し、昭和8(1933)年に76歳で伊豆の伊東で永眠した。遺骨は遺言によって鷹栖の地に埋められた。
 
人々は彼を「どこを見ても華々しいところはなく縁の下の力持ちに満足して、清教徒のような一生をおくった」と評している。[12]
 (続く)
 

 

 
【引用出典】
 [1]『長沼町の歴史 上巻』長沼町・1962・109−110p
[2]『長沼町の歴史 上巻』長沼町・1962・110−111p
[3]『長沼町の歴史 上巻』長沼町・1962・114p
[4]『長沼町の歴史 上巻』長沼町・1962・115p
[5]『長沼町の歴史 上巻』長沼町・1962・115-117p
[6]『長沼町の歴史 上巻』長沼町・1962・121-122p
[7]『長沼町の歴史 上巻』長沼町・1962・120p
[8]『長沼町の歴史 上巻』長沼町・1962・121p
[9]『長沼町の歴史 上巻』長沼町・1962・121-122p
[10]『長沼町の歴史 上巻』長沼町・1962・118p
[11]『長沼町の歴史 上巻』長沼町・1962・121-122p
 
【写真引用出典】
①札幌中央図書館デジタルライブラリー「クラーク先生 肖像」http://gazo.library.city.sapporo.jp/searchResult/searchResult.php
②国立国会図書館「近代日本人の肖像」https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/57_1.html
③北海道立文書館
④高倉新一郎・関秀志『北海道の風土と歴史』山川出版・1977・162p
⑤北海道立図書館『北方史料デジタルライブラリー』http://www3.library.pref.hokkaido.jp/digitallibrary/

 
 

札 幌
石 狩
渡 島
檜 山
後 志
空 知
上 川
留 萌
宗 谷
オホーツク
胆 振
日 高
十 勝
釧 路
根 室
全 道

 
 
 
 
 

 当サイトの情報は北海道開拓史から「気づき」「話題」を提供するものであって、学術的史実を提示するものではありません。情報の正確性及び完全性を保証するものではなく、当サイトの情報により発生したあらゆる損害に関して一切の責任を負いません。また当サイトに掲載する内容の全部又は一部を告知なしに変更する場合があります。