北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

[室蘭] 添田 龍吉 (上)

 

添田龍吉(出典①)

 

奥羽越列藩同盟の盟主となった仙台伊達藩は維新後、大幅減封の制裁を受けますが、同家の支藩はその影響をまともに受けました。こうして伊達に移住した亘理伊達氏、当別に移住した岩出山伊達市、登別・札幌白石に移住した片倉氏など、士族移住の中心となります。支藩のなかでも筆頭であった角田石川氏は今の室蘭市に移住しましたが、亘理や岩出山ほどその様子が知られていません。移住を指導したのは添田竜吉と泉麟太郎の兄弟ですが、鱗太郎は栗山町の開祖として名高いので添田家の長男・家長である竜吉をタイトルとしました。複雑な経緯を辿った角田石川氏の北海道移住を『室蘭市史』(1981)より辿ってみます。
 

■家中一同、周章狼狽

大和守邦光は通称源太といい、石川家第38代の角田藩主である。宮城県伊具郡角田町の臥牛館にいた。盆地のなかの小高い丘の周囲には沼や堀をめぐらし、それを囲むように武家屋敷があり、さらにその外側に農をかねた商家があった。
 

泉鱗太郎(出典②)

仙台藩伊達家中11門の筆頭であり、実禄3万3千石を領していた。会津戦争に際し、宗藩の仙台藩に従って戦したため、戦後角田藩の封土であった伊具郡・刈田郡などすべて没収され、新たに盛岡藩が支配することになった。旧藩主邦光は臥牛館を引き渡して仙台屋敷に移った。
 
突如として俸禄を失った家中一同は周章狼狽、大混乱のなかに邦光から「俸禄はないが、各自において農工商を選び生計を立てよ」と諭達された。数百年来の主従の縁を断ち、刀を捨てて空しく農工商につくことは、武門にあるものの最も耐え難い恥辱だったのである。
 
後で開拓助監をつとめた泉麟太郎は「ここにおいて行くに輿なく、帰るに家なく天地の間また身の置くところなし」と、その絶望的苦衷をのべている。
 
※文中の泉鱗太郎は、室蘭よりもむしろ栗山町の開祖として著名です。鱗太郎は天保13年(1842)に石川家の重臣、添田保の次男として生まれました。泉靖七郎の養子なりました。添田家の長男が龍吉で、石川家の室蘭移住は、優柔不断な当主石川邦光に成り代わり、龍吉、鱗太郎の添田兄弟の奮闘努力によってすすめられました。
 

■北海道移住決定

旧家臣たちは再起の方針について幾度となく協議した。その結果、明治2年4月、元家老の広西岱介、高山恒三郎を上京させて新政府の動向を調査するとともに再出発のための運動に当たらせた。
 
そのころ新政府は、榎本武揚の五稜郭開城を最後として戊辰戦争も終結、諸藩はすべて新政府の下におかれ、版籍奉還も順調に行われる見通しとなったので、いよいよ蝦夷地の開拓を決意したころであった。新政府の、この計画を知った広西たちは急いで角田に帰り
 
「この新天地を開拓し第二の故郷をつくるとともに隣国ロシアの侵出に備え、兵農相かね不慮の難に当ることは、先きに明分を誤った罪の償いをすることにもなる」
 
と旧藩主に建議し、同時に菩提寺である高源山長泉寺に家中を集めて協議した。
 
祖先伝来の郷里を捨て未知の地に渡るだけに、甲論乙駁、衆議まさに紛々、大混乱となったが、時とともに理解するものも増し、賛成者も1000戸を超えるに至った。
 
源之助らが、8月20「北地開拓に就き嘆願書」を、当時白河城にあった按察府に上申し、さらにこれに添書をもらい東京民部局へ赴き、君臣こぞって移り、兵農相兼ね開拓にあたる決心を熱心に述べ、論願した。
 

宮城県角田市四方山(出典③)

 
※石川家中の名前で出された嘆願書には「帰る所無く立旱隷共に候得共、彼地一方の地面御願成し下され候はば、一家を挙りて引移り土着仕り、専ら兵農相兼ね必死の力を尽し、傍々産業を相励み、開拓を務め上げ、御万分の一も皇国の御為と相成、外患を防禦し、且本藩の罪を償い、傍々開拓の術を施し、主従致力徴恵を尽し、実効を奏し奉り度」と悲痛な覚悟が示されていました。
 

■瓦壊からの再出発

明治2年8月13日、石川邦光は、広西岱介をはじめ佐藤小三郎、井上三郎、鈴木円吉などを随え、白石の片倉小十郎(後に幌別郡支配)とともに参向し、御沙汰書、指令などを受領した。こうして角田藩の石川邦光は室蘭郡、白石城主片倉小十郎は幌別郡、これより先きに請願していた亘理藩の伊達邦成は有珠郡へと自費による集団移住が決ったのである。
 
当時、北海道の開拓については、明治新政府の財政がひっ迫し、大規模な事業はできなかったので、開拓使は諸藩その他の力をかりて開拓を進めようと、公募したり割当てなどをした結果、全道の支配は1省(兵部省)1府(東京府)26藩8士族2寺院による分割支配という形で開拓を進めようとした。
 
しかし、石川、伊達、片倉など仙台藩関係の移住は他のいずれとも異なり、全く自費によるものだけに文字通り瓦壊のなかからの再出発であり、まさに死中に活を求める悲壮な冒険であった。そして結果的には武を捨て艱難辛苦、農に生きなければならぬ運命が彼等を待っていた。
 
※亘理藩の伊達邦成の移住については『北海道開拓秘録 団体移住の嚆矢 伊達村の功労者 田村顕允』をご参照ください。
 

■石川邦光、室蘭上陸

室蘭郡の支配を命ぜられた邦光は、明治2年10月13日午後8時ころ、地所受取りのため仙台片平町上屋敷を随行者を連れて出発した。一行はつぎのとおりである。
 

石川邦光(出典④)

家老・泉潔雄、小姓頭・添田龍吉、目付役・窪田左仲、近習番頭・鈴木円吉、医員・鈴木良察、徒小者兼・滝口竹八、徒士目付兼道中人馬係・芳賀久三郎、滝口竹八、以上7人
 
なお先発として東京から官船で、家老・佐藤小三郎、小姓頭・井上三郎、用人町・田十郎を出向させ、函館で待ち合わせた。
 
郷里を出てから40日、11月20日夕刻、ようやく新しい支配地室蘭にたどり着いた。
早朝から深更まで、山坂、悪路、荒天候、降り積もる雪のなかの強行軍はかって経験したことのない苛酷な北国への旅路であった。
 
当初の旅行計画は、おそらく20数日であったろう。さすがに津軽の海は厳しく、天候待ちに10日を費している。この航海について、吉田武三は次のように記している。
 
津軽海峡は名にし負う最大の難所だけに奔騰する潮流の勢は凄まじい。竜飛鼻の潮、中の潮、白神の潮、この3カ所の潮を乗り切ることは、手なれの船頭でもそのつど肝を冷すところである。舟子たちは舵取りもみな海草でこさえた蓑を頭からかぶり、環に綱を通したのをめいめいの腰に高く巻きつけ、わめくように呼びあっているのは、船を越す大浪にすくわれない用心からだ」
 

■邦光、アイヌに訓示

明治2年11月20日午後6時すぎ、室蘭会所についた邦光は、ただちに窪田左仲、井上三郎を使者として開拓使の関定吉大主典に到着を報告。翌21日は朝から吹雪で、寒さも厳しいなかを午前6時、お供揃えで関大主典の宿舎を訪ねてあいさつし、22日は村役人や役付アイヌなどの出迎えを受けた。
 
アイヌたちは、熊の毛皮の胴着に山刀をさし、黒く長いひげに異常に光る眼を伏せて旅宿の庭に座していた。邦光は
 
「このたび開拓使におかれては、エゾを北海道と改称し、諸侯を移して開拓することになった。もと仙台藩の支藩石川邦光は、過日室蘭郡支配を仰せ付けられ、土地受領のたに参ったものである。明春より人を移し、山谷を開拓し、農業に勉励させるゆえ、士人らご一統も我等の支配を受け、従来通り家業に勉まれたい」
 
というような訓示をなし、名主山崎秀松、町年寄富士山良吉、百姓総代山中久作、支配人金兵衛などに酒とタバコを贈り、役付アイヌ10人にも階級に応じて酒、タバコを贈った。
 

■石川源太支配所 胆振国室蘭郡

11月24日、西村使掌から「支配地を引き渡す。家老両人出頭せよ」と連絡があったので、午後4時、泉忠広、佐藤小三郎の両家老が出頭、目録や関係書類の引き渡しを受けた。
 
この日、邦光は翌年からの移住にそなえて泉忠広(潔雄改め)を中心に窪田左仲、町出二郎の3人を支配地取締りのため残留するよう申し付け、泉には洋服1着、窪川には綿入れ1着を贈った。
 

角田旧藩士入植地 □印の場所(出典⑤)

 
11月35日、雪降りで悪天候のなかをアイヌ1人を案内役に添田龍吉、鈴木円吉、芳賀久三郎を連れてベキリウダの旧南部陣屋などを巡視。翌26日午後2時ころから全員が現地に出かけ、禿松、良吉、久吉などに手伝わせ、四部境界に
 
従是東 石川源太支配所 胆振国室蘭郡 明治二年巳十一
 
と墨痕も鮮やかに書かれた3面の探札をしっかり大地に打ち建てた。
 
この模様を泉麟太郎は「積雪、地を没し、地の良否を弁ずる能わず。わずかに土地授受のことを了し、忠広らを留めて帰国す」と記している。邦光主従は、翌27日午前9時、海路対岸の砂原へ向かって出帆、帰国の途についた。往復70余日にわたる難渋の旅であった。
 

■没収された旧領

第1回目の移住にあたって、思わざる脱刀問題が起こった。
 
移住するまでの間、国元に残り、何らかの方法で収入をはからなければならなかった。そこで、これまで耕作してきた旧田畑での自作を願い出た。
 
仙台藩には藩祖政宗いらい奉公人前(家臣で私費をもって新墾、自作した田畑)の制度があり、角田藩内伊具郡内の奉公人前は290貫300文(田代255貫700文、畑代34貫600文)であったが、戊辰戦争後、南部藩に転封されたため、土地は同藩に引き渡されていた。
 
南部藩は「奉公人前尚」と称して租税を納めさせ耕作を許したので、その収穫で生活を維持できたが、南部藩が旧領に復帰したあと、角田県の管轄下におかれてからは耕作権はもちろん、土地もいっさい没収されてしまった。
 
そこで明治2年12月、石川(泉奥太郎)、伊達(田村新九郎)、片倉(佐藤廓爾)3家の重臣連名で「奉公人前の地所自作」について嘆願書を角田県に請願した。この結果、翌明治3年2月23日付札で向う2年間、半高借用が許された。
 
来の半高では生活が困難であるばかりか、県の支配所に滞留中は、開拓に関する用事以外の往来には「一統脱刀致し候様厳重申付け可有之者也」というきわめて冷たい申付けであった。
 

■帯刀を願う

この脱刀問題について直接按察府へ諸願するほかはないということになり、亘理藩の家老田村顕允は斉藤義道とともに白石に至り、同じ関係にある石川、片倉両家と協議をとげ、按察使渡辺判官邸を訪れて、これまでの経過を述べて取締方針の取消しを願った。
 
その後、按察府から石川、片倉、伊達の三家重役両人ずつ出頭せよとの達しをうけ、石川家は根本哲治・高橋燕三郎、片倉家は水沢直蕃・矢内仙左衛門、伊達家からは田村顕允が1人出頭して、渡辺判官に面会したところ、各家将来の北海道移住につき確実な方針を問された。そこで席順にしたがい根本哲治から答えた。
 
「石川家では先般50人を移住させたけれども、財力の疲弊極まり、この後は官から御保護があれば格別自費移住の目的は立ちがたく、なお県庁のご規則であれば脱刀も是非なく帰農の覚悟である」
 
と申し述べた。ついで顕允は
 
「先般旧主人250人を率いて移住し、来春は旧主家を挙げて1000人を移し、年を逐って漸次多人数を移住させる計画である。しかるに滞在中脱刀の命は兵農相兼ね北門警備の用に相立ち、勤王の実を奏せんする趣旨に反するをもってはなはだ不平を唱えており、瓦解をみる恐れがあるから早速県内滞在中帯刀差支えなきようご縦識願いたい」
 
との陳述であった。
この結果、角田県では脱刀の件を改め、開拓御用にて往来のほかに祖先の城墓を拝するとき、外人応接のときの2項を加えられ、県庁に出頭するときも帯刀差支えないこととなり、ようやくこの問題の解決をみたのである。
 

 
※この脱刀問題については「北海道開拓秘録 団体移住の嚆矢 伊達村の功労者 田村顕允」でも触れられています。
 


【引用出典】
『室蘭市史 第1巻』1981・591-607pより抜粋

【写真出典】
①『室蘭市史第1巻』1981・室蘭市・601p
②『室蘭市史第1巻』1981・室蘭市・615p
③角田市HP http://www.city.kakuda.lg.jp/syoko/page00103.shtml?print=true
④『室蘭市史第1巻』1981・室蘭市・609p
⑤『室蘭市史第1巻』1981・室蘭市・617p

 
 

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