北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

[室蘭] 添田 龍吉 (中)

 

添田龍吉(出典①)

 

旧主自らが渡道し、開拓の苦労を共にした亘理伊達氏、岩出山伊達氏と異なり、角田旧藩主石川邦光はなかなか動こうとはしません。それを見透かされ、開拓使は邦光の室蘭支配を取り上げてしまうのです。北海道に残った旧藩士はハシゴを外されました。悪いことは重なるもので入植地の収穫が全滅。そんなかで添田龍吉と泉麟太郎兄弟は移住者を励まし、旧主を迎えるため涙ぐましい努力を重ねます。『室蘭市史』よりお届けする角田旧藩士たちの室蘭開拓物語の2回目です。

 

角田旧藩士たちの入植地も今は工場地帯(出典②)

 

■第1回移住団 入地

3年3月16日午前5時、北国にもようやく春風が吹こうとしているころ、木幡省左右、添田兄弟に率いられた石川家旧家臣の第1回移住団44戸、51人が出発した。
 
祖先幾代か住象なれた城墓の地をあとに親類故知に送られて故郷角田を離れた。途中、松島まで歩き、松島湾の寒風沢港から官船長鯨丸に乗りこみ、第2の故郷となる未知の室蘭へと旅立った。この船には、有珠郡を開拓する隣りの亘理藩伊達邦成主従1行220余人も乗り合わせていた。
 
途中、函館に3日ほど滞在し、先祖伝来の家具、武具などを処分して、ようやく得た資金のなかから当面必要な生活物資を調達し、4月6日午前9時すぎに早春とはいえまだ残雪の消えやらぬ室蘭村に着いた。室蘭は現在の崎守町であり、当時は波止場としてにぎわい役所、宿屋、小売商などもあり、中心街であった。
 
移住者は戸数44戸であったが、全家族移住は4戸のみであり、婦女も51人のうち5人にすぎなかった。翌明治4年、残家族22人が移ってきたので、全家族移住10戸になったが、他はほとんど2~3男の独身であった。したがって4年には人口73人、うち男58人、女15人であった。
 
移住者は、取りあえず仮小屋をたて雨露をしのぎ、郡内を検地、4月9日、地所割を受けたうえ、順次鍬を下した。この日こそ、当地方開拓の記念すべき日なのである。彼らは刀を鍬や嫌に代え、憤れない開拓の第1歩を踏み出した。しかも、ここは山谷がひどく起伏し、その山も急勾配に海に落ち、土は石礫まじりの痩せ地であった。このときチマイベツに移住した滝口新次郎の孫娘の千代は
 
「その当時はひどい大木ばかりで、何日しても天を見ることができず、熊やキツネ、タヌキがうようよして木を切る仕事も思うように進まなかった」
 
と祖父から聞いた入植当時の模様を述べている。そこに郷里から運んできた野菜や殺類の種子をまいた。
 

■邦光、支配罷免の衝撃

移住して間もなく、勇払郡詰の黒沢正吉大主典から「境界を定めるので立ち会え」との命があり、泉鱗太郎は、村年寄の冨士山良吉やアイヌを連れて現地に赴いたが、当日は折り悪しく濃霧がひどく、山側は鍔のなかに全然見通しがきかなかった。それでも黒沢は、チリベッ橘に磁石をすえ、南は未(南西)の3分、北は丑(北來)の3分を境界にすると言い渡すという乱雑さであった。
 
これに従うと漁場の一部が幌別側に移るばかりか、山も重要なところが削減され、家財、船具の伐木もできなくなるので、アイヌたちは承服せず、抗議、嘆願をしたが黒沢は聞き入れなかった。
 
鱗太郎らは兄の添田龍吉、年寄冨士山良古、名主山崎秀松、百姓代山中勇作らとともに函館開拓使役所に出頭、不服を申し立て、代替漁場として根室国白糠を下付するよう懇願したがいれられず、「開拓のためなら上川か空川を申し出よ」と指示され、踏査準備をしているところへ、6月30日、伊達、片倉家の移民団が到着。邦光から託された文書が届けられた。
 
それは、邦光の支配罷免と、室蘭郡は伊達、片倉家へ分割支配される知らせであった。
 

■鈍る決意、渋る当主

石川邦光は、3年5月には旧臣300人を率いて出発しようとしていたが、残留者の一部から「遠い未知の荒地で苦労するくらいなら、むしろ刀を棄てても墳墓の地に残り、百姓になった方がましだ」という声が次第にひろがり、帰農嘆願書を出すもの、父母の病気看護で延期願を出すものがでてきた。それにはつぎのような意気喪失させる事情もあった。
 
会津戦争によって朝敵となった仙台藩は、減封、藩主謹慎のほかに領内南5郡(角田藩か含まれる)は盛岡藩の支配下におかれることになり、土地財産すべて引渡して退去するよう命ぜられ、2年3月から角田には続々と盛岡藩家中が引き移ってきた。
 
旧藩公邦光は仙台に退いたが、家中一般は困りはて「行くに輿なく帰るに家なく、天地の間身の置くところなし……」と鱗太郎が慨嘆した如く、万事窮して、他地への移住、帰農も考えざるを得なかったが、一方、盛岡藩にしても新地所を与えられたものの故郷は忘れられず、新政府に70万両献納を約することによって間もなく吟味替えとなり、この年8月には盛岡藩家中も故郷に帰りはじめた。
 
また政府も仙台藩に対しては、当初帰農嘆願書も受付けなかったが、版籍奉還が軌道に乗り、廃藩置県も見通しがついてきてからは、移住政策も次第に軟化の様子がみえてきた。
 
こんな事情もあり、残留者の移住意識も次第に鈍化し、せっかくの邦光の大移住計画も崩壊しそうになったので、邦光らはもっぱら説得しつづけたが、かっての悲壮な決心も一度くじけ出すと、引きもどすことは難しかった。そればかりか、むしろ逆の結果に推移していった。
 
これらの混乱を察知した新政府は、ついに同月、邦光の室蘭郡支配を罷免し、代って伊進邦成と片倉邦憲(十郎)に分割支配をさせることになったのである。
 

■移住者を襲うさらなる試練

亘理藩の移住者によって邦光の支配罷免を知った移住者一同の驚愕、落胆、動揺はひどいものであった。この混乱のなか、前途に見切りをつけ脱落帰国するもの、他に移るものが出はじめたが、移住の責任者たちは初志をまげず、泉忠広、添田龍吉、泉麟太郎らは
 
「一旦一死を盟として渡船の上は、たとえ草根木皮を噛むも、流離するは士の最も恥ずるところなれば、各位益々勉励されよ」
 
室蘭村に小屋掛をして仮住いをしていた移住者たちは邦光罷免の報を聞くや、泉忠広はチマイベツヘ、泉麟太郎、浅野沢三郎は輪西へ移った。片倉邦憲側へ17戸19人、伊達邦成側は24戸29人が移された。
 
分割支配の失意のどん底に落とされた移民にとって、さらに不運にもこの年は収穫皆無に悲しい悲運に見舞われたのである。
 
開墾した土地は瓦礫が多く、これを取り除いて畑にするには相当な日数かかかり、そのうえ放牧した官馬、私有馬は遠慮なく入り込み、せっかくの作物を荒すので、すべての畑の周囲には柵をつけなければならなかった。ここに郷里から持ちこんで植えた種は、天候不順、加えて霜や霧のため結実せず、収穫は皆無に等しかった。罷免後は商人も米噌の貸し売りはせず、仕方なく海水で汁をつくったのである。この間に彼等の命をささえたものは山菜であり、魚貝であった。
 

■製塩所、暴風雨で壊滅

開拓者にとって、まず必要なものは塩であった。移住世話役である添田龍吉は、移住してひと息つくひまもなく、仲間にはかり製塩をすることにした。
 
製塩場は旧南部藩が引き上げた後、絵鞆村に放置しているものを借りて移転改築することにした。が、腐朽が激しく、復旧費20両を要するが、移住にすべてを遣い尽した彼等には貯えなどあるはずもなく、鳩首協議の結果、旧藩主邦光に7月までに塩汲場取揚金での支払いを条件に借金の申し入れをした。しかし、邦光とてそれだけの余裕はなく、結局、泉麟太郎の名義で開拓使に借金願を出して調達、何とか輪西村ホンナイ崎海岸(現本輪西町232)に製塩場をつくることができた。
 
製塩については、移住者の中に心得のある者がいたので、これに当たらした。しかし、製塩も軌道に乗り始めた矢先、明治3年9月19日の大暴雨のため製塩場が一夜にして壊滅してしまった。再興の力も尽き、ついに廃業のやむなきに至った。この間製塩高は4斗入4~5千俵であった。
 

■鹿皮採取で急場をしのぐ

当時、龍吉は持病のひぜんによってほとんど就床状態だったが、11月になってやや快方に向ったので、弟麟太郎の案内で登別温泉へ湯治にいった。
 
この時、同宿の湯治者から収人として鹿皮か有望であることを聞き、12月全快とともにアイヌ2人を雇い入れ、勇払郡郡小糸魚村(現苫小牧市糸井)まで出かけ、白鳥万吉の世話になりながら、翌4年春まで鹿狩りを続けた。
 
胆振・日高の山野にはエゾシカが多くおり、しかも持参した英国製スナイドル銃の性能もよく、予想以上の収穫があった。肉類は自分たちの食料にするとともに、脂肪、蛋白に不足している移住者にも分配した。そして、何より彼等を励ましたのは、鹿皮が函館方面で高価に売れたことである。これで思いがけない大金を得ることができた。
 
この金で明治4年5月18日、龍吉と鱗太郎は角田に帰郷し、龍吉の2、3男をはじめ浅野惣治の家族など22人を伴って帰村した。妻子と離別の寂しさをかこっていた移住者たちにとって家族を迎え入れたことは、勇気百倍、夏は農に精を出し、冬は鹿狩り隊を組んで胆振東部から日高の山々で春まで狩りをつづけた。
 

■旧主を早く迎えたい

移住者にとって必要なものは多々あったが、精神的支えとして旧主を早く迎えることもそのひとつであった。旧主を迎えたいといっても、毎日の生活にさえこと欠く移住者には無理なことであった。
 
鱗太郎などは残っていた陣羽織を鮭12尾と交換し、塩漬けにして商売をした。売るものもない仲間たちは困窮を加えるばかりである。彼らにも金を持たせて回復させようと明治4年7月10日、隣太郎は、頑健な若者10人を率いて札幌へ出かけた。当時の札幌は創建時代であり、本願寺道路も着工、木材の需要の多いのに目をつけ、山の造材に入った。
 
頭の回転のよい鱗太郎はそのさい帆立貝10駄を運んで売り、その利益を酒25樽にかえて商売をした。また造材請負の帳場にたのまれ、翌年5月までつとめて輪西に帰った。これで900円ほどの金が入った。一部は仲間たちに分配して当座の用に供し、残りは旧主を迎える寅金にした。
 
明治5~6年の室蘭は札幌本道の工事で大賑いであった。そこで山中利兵衛から在庫の酒30樽(1樽1円50銭)をすべて買いしめ、これを登別へ運んで売った。
 
こうして、ともすれば脱落しそうな移住者達を勇気づけているうち、制度の変更によって諸藩・華・士族・寺院などの支配地はすべて開拓使に順することになり、伊達、片倉家の分制支配地も、4月8日、開拓使に統括され、移住者は開拓史貴属となったが、制度上の士族としての家禄は与えられず、その代り翌年9月から向う3年間、「移民扶助規則」によって扶助が支給されることになった。
 
※「開拓史貴属」とは、明治4年3月に北海道に渡った旧藩士達に与えられた名称で「士族の身分を失わずに、開拓史に所属して開拓に従事する、という身分」(『白石発達百年史』19P)です。プライドの高い士族を農民として開墾に従事させるために考え出されたもので名前だけの称号ですが、それでも旧藩士たちは大喜びでした。
 

■旧主実弟13歳、光親が渡道

石川光親(出典③)

移住者たちは、札幌に出稼ぎにいったり、酒を売ったり資金づくりに励んでいるうちに何とか旧主を迎えるめどがついたので、協議のうえ鱗太郎を交渉委員にあげて郷里に赴いた。
 
旧藩主邦光は「不成績で罷免されたものが、再び室蘭へはいきにくい」と渋ったが、同じ座にいた邦光の弟光親は
 
人心マスマス萎縮、移住ノ者大半離散、有志輩堅忍、開拓従事スルモノ僅々十数戸ノミ、総合進取ノ気力乏シク、終ニ成績ヲ見ル能ハス、石川氏ノ大恥辱ナラスヤ
 
と自ら室蘭入りを申し出たので邦光も代りに光親を出すことにした。
 
6年1月、鱗太郎は光親と新たに3戸の移住者を伴って帰村した。若冠13歳とはいえ、旧主の実弟ということもあり、光親の労わりと励ましに移住者たちは感激、以後落着いて開拓の仕事に取り組むことになった。
 

 


【引用出典】
『室蘭市史 第1巻』1981・607-620pより抜粋

【写真出典】
①『室蘭市史第1巻』1981・室蘭市・601p
②室蘭観光協会『むろらんの観光情報サイト おっとむろらん』 http://muro-kanko.com/night/about.html
③『室蘭市史第1巻』1981・室蘭市・619p
 

 
 

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