[中川町]歌聖が敬愛した嘱託医 守谷富三郎の生涯
昭和7年、歌人であり、医師であった斎藤茂吉は兄である守谷富三郎を上川郡中川村志文内の診療所に訪ねます。兄はここで拓植医を務めていました。東京青山で大病院を構える茂吉は、開拓地医療に従事する兄に強い影響を受けました。これが前回のお話です。昭和50年の『中川町史』から紹介しましたが、その後、守谷富三郎についてさまざまなことが明らかになっています。最近の話題も含め、生涯を拓植医として開拓地の医療に尽くした守谷富三郎の物語をお届けします。
■苦学して医療の道へ

明治37年頃の富三郎と茂吉(出典①)
拓植医 守谷富三郎は、東京で大病院を構える義父の支援により勉強を進めた弟茂吉と異なり、医者になるべく独学で勉強を続け、20代には何度か兵役を務めながらも、苦学の末明治39(1906)年に30歳で医術開業試験に合格しました。3年後に小樽に渡り小樽市で眼科医院を開業します。
故郷の山形と言えば、多くの北海道移民を送りだした土地です。おそらく開拓地の状況は早くから聞いていたのでしょう。富三郎は拓植医となって医者の立場から開拓者の支援を誓います。小樽と定期船が通じていた縁から利尻島の村医になりました。そして磯谷村(現・後志管内寿都町)を経て昭和3(1928)年に上川郡中川村志文内に移りました。
■アララギ派の歌人として
そして昭和7(1932)年8月、17年ぶりの兄弟の再会。北海道の開拓で拓植医療に従事する姿を見た茂吉は、兄に対する尊敬の念を高め、二人は頻繁に手紙や贈り物を買わす仲になりました。「富太郎の歌を、茂吉が『ややよし』『理におち面(おもしろ)からず』と添削。富太郎が茂吉にかぜ薬を調合したこともあった」[1]「富太郎は志文内から東京の茂吉に地元で捕れたヤマメを何度も送った」[2]といいます。
高名な歌人であった弟との再会は、富太郎の創作欲を刺激し、茂吉が発行人を務める「アララギ」にたびたび和歌を投稿するようになります。茂吉も添削指導を行い、もともと持っていた富三郎の歌才を引き出しました。
守谷富太郎が「アララギ」に投稿した作品は、北海学園大学文学部の田中綾氏の卒業論文のなかで発掘され、『北海学園大学人文論集58号』で紹介されています。そこには、北辺の開拓地の厳しい暮らしが刻まれていました。
ひろびろと 拓けて行ける うまし田に 幾年もつづき 稻は稔らず
雪に明け 雪に暮れゆく 山里に 稔らぬ年の 冬は來にけり
幾とせも 續きみのらぬ 小山田の 稻つくり人を 我はおもふも
これらの歌は道北で何度も米づくりに挑戦し夢破れた入植者の現実を語っています。富太郎が営む診療所にも厳しい現実がありました。
一等の 病室に はこぶ食膳の とぼしきを見て 心さびしむ
あつぶすま 重ねても なほ寒き夜に 貧しく病める 人をしおもふ
うめく聲 ききて眠れず 夜もすがら 病み臥る子の 傍にもの思ふ
こんな現実を前にしながらも富太郎は周囲の自然の美しさに自らを励まし、村人の健康のために尽力したのでした。
電燈もなき 山奥に住みつきて ランプをともし 八年 過ぎぬる
馬うちて 遠山道を 行き來せば 日を鳥のこゑ 聞きて過ぐ
深山べに 心のどかに 生きゐなば 寂しからずよ 秋ふかむ夜も
深山べの 人としなりて ここしばし うら安けくも 生きて行くべし
引用出典[3]
開拓地の命を守った拓植医には医は仁術を地で行く人格者が多かったことは多くの町史が教えてくれます。富太郎の和歌には、そんな仁医の心が示されています。今回はさわりを紹介しましたが、『北海学園大学人文論集』には470首の歌が紹介されています。機会をあらためて守谷富太郎の歌を紹介したいと思います。

昭和7年、層雲峡での富三郎と茂吉(出典②)
■北見でいのち果てし
この後、昭和17(1942)年に留辺蘂(現北見市留辺蘂)に移り、守谷医院を開業する傍ら野村鉱業イトムカ鉱山診療所の医師となります。ここでも人望を集め、自然とまちの短歌指導者となったようです。老境に入り医療ができなくなると息子の喜義さんの住む北見に移って余生を過ごしました。そして地域の人々に見守られ昭和25(1950)年に76歳で亡くなりました。
慕い続けていた兄の逝去に接して茂吉は次の歌を送っています。
北海道の 北見の国に いのち果てし 兄をおもへば わすれかねつも [4]
守谷喜義さんは大正5(1916)年に中川村に生まれ、守谷富三郎の一人娘である冨子さんと昭和16(1941)年に結婚し、婿養子として守谷製姓を名乗ります。北見市(当時は野付牛町)に転居、農業団体職員から昭和22(1947)年の第1回北見市議会議員選挙で当選、ホクレン参事などを歴任しています。
茂吉は義理の甥に当たる喜義さんも可愛がったようです。喜義さん再々婚後に長男が誕生すると茂吉は
このときに 生まれいでたる 男子よ 雄雄しく清く たまひしを繼げ [5]
と歌を送っています。亡くなった兄の魂を継いでほしいとの思いが込められています。
■膨大な茂吉資料を北見に寄贈
昭和25(1950)年に富三郎が亡くなると、守谷喜義さんの元には、富三郎と茂吉が交わした手紙など膨大な資料が残されました。喜義さんは平成9(1997)年、所有していた齋藤茂吉関係の資料のほぼすべてを北見市に寄贈しました。
資料は北見市北網圏北見文化センターに移されますが、その内容は総点数1068点、書籍630点、書簡224点、短冊、掛軸、色紙、写真、原稿など。富三郎と茂吉のふるさとにある山形県上山市の齋藤茂吉記念館に勝るとも劣らない内容です。茂吉の長男であり作家・精神科医として知られる齋藤茂太氏も、「これだけの茂吉資料は齋藤家にもない」と評価したとのことです[6]。
■孫も医学の道に
守谷喜義さんの息子である俊一さんは医学の道を志した守谷家の血統を受け継ぎ医師になり、北見市中央三輪で守谷記念整形外科を開きます。
喜義さんの息子で、現在、守谷記念整形外科の院長守谷俊一さん(67)によると、喜義さんは「父(富太郎)には世話になったから」「ここまで成長できたのは父のおかげ」とよく話していたという。
喜義さんは、茂吉からの手紙などを大切に持っていた富太郎さんが亡くなった後、その思いを受け継ぎ、北見市内の銀行の貸金庫に預けるなどして保管した。俊一さんは「自宅へ茂吉の研究をする学生らが訪ねてきた時は、(喜義さんは)にこにこしながら教えていた」と話す。
喜義さんが物心つく前の幼い俊一さんら子どもたちへ言い聞かせていた言葉が「本を読め」だった。
「書よみて賢くなれと戦場のわが兄は銭を呉れたまひたり」
学生だった茂吉が戦争へ従軍していた兄から小遣いが届いた内容を詠んだ作品で、弟茂吉を心配して「本を読んで賢くなりなさい」と小遣いを送る兄の姿が浮かぶ内容だ。
俊一さんは、歌中の「兄」は富太郎さんだと推測。「(喜義さんは)この茂吉の作品に触れては『本を読め』とよく言っていた」と懐かしげに話す。[7]
■茂吉記念短歌フェスで孫の対面

中川町共和の茂吉小公園と歌碑(出典③)
一方、富三郎、茂吉の交友が再開された原点となった中川町は、平成6(1994)年から「齋藤茂吉記念 中川町短歌フェスティバル」を始めました。
そして平成25(2013)年10月、フェスティバル20周年を記念するフォーラムでは、富三郎の孫、守谷俊一さんと茂吉の孫(北杜夫の娘)で随筆家の齋藤由香さんが初めて顔を合わせたのです。二人は志文内診療所跡などを訪問しました。
「祖父は亡くなる直前も、茂吉と週に1、2通の手紙を交わしました。本当に仲の良い兄弟だった」と守谷さん。齋藤さんも「豪雨の道を歩いて兄を訪ねた茂吉の心をしのびました。(養子だった)茂吉には本家の兄に特別の思いがあったのでしょう」と感慨深げだった。[8]
近いうちに守谷富三郎の短歌を特集したいと思います。この投稿ではわずかしか紹介できませんでしたが、短歌として美しいうえ、昭和初期の上川地方の様子が詠われ、大変に興味深いものでした。しばしお待ちください。
【引用出典】
[1]2008/11/12 北海道新聞朝刊地方
[2]2013/10/14 北海道新聞朝刊全道
[3]田中綾;中崎翔太『資料紹介守谷富太郎の「アララギ」掲載歌』2015・北海学園大学人文論集(58)・306(1)-278(29)・北海学園大学学術情報リポジトリ
[4]柳谷卓彦(北網圏北見文化センター学芸員)『拓殖医・守谷富太郎と歌人・斎藤茂吉の北海道史【コラムリレー第51回】』・集まれ!北海道の学芸員 http://www.hk-curators.jp/archives/1651
[5][6]経済の伝書鳩『連載 地域再発見 (48) 歌人・齋藤 茂吉の資料 (下)』
[7]2016/04/02 北海道新聞朝刊地方(北見・オホーツク)
[8]2013/10/14 北海道新聞朝刊全道(社会)
【写真出典】
①②[4]柳谷卓彦(北網圏北見文化センター学芸員)『拓殖医・守谷富太郎と歌人・斎藤茂吉の北海道史【コラムリレー第51回】』・集まれ!北海道の学芸員 http://www.hk-curators.jp/archives/1651
③中川町公式サイト>観光情http://www.town.nakagawa.hokkaido.jp/sightseeing/guidemap04.html