[中川町]昭和7年 歌聖 齋藤茂吉、志文内に拓植医の兄を訪ねる
昭和7(1932)年、近代短歌の頂点、歌聖と呼ばれた齋藤茂吉が上川郡中川村志文内(現中川町)を訪ね、5日間、逗留しました。兄で拓植医をしていた守谷富太郎を訪ねたのです。
茂吉はこのときの模様を57の歌にして残しています。天才歌人らしい美しい和歌ですが、そこにはまだ開拓時代から抜けきっていない昭和初年の志文部落の暮らしが表されているとともに、偶然にもこのとき茂吉を見舞った災害の模様が記録されています。『中川町史』(1975)よりお贈りします。
■齋藤茂吉 近代短歌の頂点

齋藤茂吉──日本人なら誰もが一度は名前を聞いたことがあるでしょう。近代和歌の頂点にして、万葉集以来の歌人と言われます。長男は随筆家の齋藤茂太、次男は小説家でドクトルマンボウこと北杜夫、孫に随筆家の齋藤由香がいることでも知られます。一時代を築いた大文学者であり、いずれ劣らぬ高名な子供たちの活躍により、今も強い影響を与えています。
齋藤茂吉は明治15(1882)年5月に、県南村山郡金瓶村(現上山)の農家守谷伝右衛門の3男として生まれました。幼い頃から利発で、その資質を認めた住職の紹介で東京浅草で病院を開いていた齋藤紀一に将来養子となって病院を継ぐことを前提にもらわれていきます。
その期待にたがわず開成尋常中学校(現・開成中学・高校)から旧制一高、東京帝国大学医学部へと進みました。一方、正岡子規に影響され、大学在学中に伊藤左千夫に入門し、短歌の道を歩み始めました。明治41(1908)年、24歳の時に短歌結社『アララギ』の結成に参加し、同名の雑誌を創刊しました。その後の活躍は冒頭で述べたとおりです。
齋藤茂吉が51歳の夏。まさに日本短歌界の頂点を極めていたとき、茂吉は山形に住む弟の高橋四郎兵衛をつれて、上川郡中川村志文内(現中川町共和)を訪ねました。齋藤茂吉の後半生に大きな影響を与えた中川訪問はどうして実現したのでしょう。『中川町史』(1975)はこう述べています。(『中川町史』ですます体で書かれた珍しい町史で、読み物として最高に面白くできています)
志文内に茂吉の次兄にあたる守谷富太郎が拓殖医として働いていたのです。茂吉は、昭和6(1931)年(1931)に長兄の広吉を失ったことから心に寂しさを覚え、北海道で働く次兄の富太郎に思いをかけて北海道への旅を考え、志文内を訪れて兄弟3人が夜の明けるまで語り合ったのでしょう。[1]
中川村志文内の「拓植医」として齋藤茂吉の兄がいたのです。
町史は、茂吉兄弟の中川行きを「心に寂しさを覚え」と書いていますが、8月15日という日付をみると、前年に長兄が亡くなり家長格となった次兄に盆の挨拶に出向いたとも思えます。
『中川町史』で紹介された齋藤茂吉作『石泉抄』「志文内」には57の和歌が収められ、8月14日から18日までを歌で表現しています。町史にはその全作品が転載されていますが、その中から時系列にそっていくつかを紹介します。昭和前半の中川町の暮らし、拓植医の姿が見えてきます。
■宗谷線佐久駅から13キロ
齋藤茂吉、高橋四郎兵衛の兄弟は宗谷線佐久駅から兄の診療所のある現在の中川町共和までの約13キロを歩いて行ったのでしょう。

斎藤茂吉が院長を務める青山脳病院(出典④)
歌人で知られる齋藤茂吉ですが、東京帝国大学医科大学を卒業したエリート中のエリート医師です。この頃は、青山脳病院の医院長職に就いていました。明治40(1907)年に東京青山に開院した精神病院でレンカづくりの洋館は東京の名所ともなっていました。昭和2(1927)年にはすでに地下鉄銀座線が開通しています。茂吉はよく利用していたでしょう。そうした茂吉から見ると、その13キロの道中は……。
明治七年八月十四日、弟高橋四郎兵衛と共に北海道天塩国志文内なる次兄守谷富太郎を訪ふ
・あおあおと おどろくばかり 太き蕗が 沢をうづめて 生ひしげりたり
・人里も 絶えたる沢に 車前車(おおばこ)の 花にまつわる 蜂見つつおり
・ひるの虫 まれに鳴きつつ この道や 人の歩みに 逢ふこともなし
・人も馬も うづむばかりの 太蕗(ふき)のしげりが中に われは 入り居り
※カコミ中の短歌の出典[2](以下同)
後述しますが、この道中は激しい雨の中でした。
どうにかして2人は兄守谷富太郎が診療所を設けていた「志文内」(現共和)にたどり着きます。
茂吉は人跡未踏のへき地のように書きますが、志文内は町史に
安平志内川流域では最もまとまった一つの部落で、小学校学校、郵便脇、腱協支所、診療所などがあり、山に囲まれた静かな中にも、ひとかどの市街地を形成しています。[3]
とあるように道北の開拓地の中では比較的開けた市街でした。『北海道開拓の先駆者』で紹介したアイヌのダベシが入植者の支援を行った場所です。

■拓植医 志内市診療所
兄の診療所について町史でも詳しい記述はありません。

旧志文内診療所(戦後のもの)出典②
古老の話によると、高橋某が最初の開業医となりますが、明治41(1908)年ころ、村では嘱託料を支給して高橋某を村医としました。村医といっても新しく施設を設けたのではなく、嘱託任命して手当を支給するだけでした。一方安平志内市街地(安川三)でも宮某が無資格のまま代診をしており、その後に福井某が医者をしていたといわれていますが、やはり年代は不明です。
安平志内川の奥安川・共和・板谷・大和部落はどうかというと昭和2(1927)年まで共和部落に村医が週に2回出張診療していました。その後昭和3(1928)年12月25日になって北海道庁拓殖医として守谷富太郎が志文内(共和)に着任しました。旧志文内診療所住宅は34.55坪で2,200円の工賃でした。守谷富太郎は歌人齋藤茂吉の次兄で、茂吉が昭和7(1932)年(1932)に次兄をたずね志文内で夜を明かしているところから、このころ医者をしていたことは間違いありません[4]
と書かれていることが この診療所における町史のすべてです。写真は日産ブルーバードとおぼしき車があることから昭和40年前後と思われます。この時代でこの有り様ですから、茂吉が訪ねた昭和7年は推して知るべしです。弟の病院の写真と比べると差は残酷なほどです。
■17年ぶりの兄弟再会
次兄は北海道で拓植医、三男は東京青山で医師、四男は故郷山県で旅館業。兄弟3人が揃うのは実に17年ぶりでした。
迎える兄富太郎は、精一杯の歓迎をするためにイワナを釣りに出ます。
・とほく来し われに食はしむ 家人は岩魚もとめで 出でゆきにけり
・志文内の 山沢中に 生くといふ岩魚を 見れば ひとつさえよし
・山なかに くすしい いとなみゐる兄は ゴムの長靴を 幾つも持てり
今なら寿司の出前でも取るところでしょうが、近所の沢にいるイワナはこの里最大のごちそうだったのでしょう。この時代、東京でもゴム長靴は一般家庭には珍しく、何足も持っていることが茂吉の注意を引いたようです。この夜、兄弟は心ゆくまで昔話に花を咲かせました。
・うつせみの はらから三人 ここに会いて 涙のいづるごとき話す
・しみじみと みちのく村の話せり まづしき人の 老ゆる話を
・おとうとは 酒のみながら 祖父よりの遺伝のことを かたみにぞいう
■昭和7年大水害に曹禺
話は尽きませんが、次兄守谷富太郎は拓植医です。夜に突然、呼び出しを受けます。
・午前二時過ぎと おぼしきころ ほひに往診に行く と兄のこえする
・ひと寝入り せしかせぬまに 山こえて 兄は往診に 行かねばならぬ
茂吉が兄を訪ねた昭和7(1932)年8月14日、中川は記録的な大水害に見舞われます。『中川町史』から被害の様子を紹介しましょう。
昭和7(1932)年8月14日午前3時ころから雨が降り出し、4時ころから雷雨をともなう豪雨となって、夜に入っても止まず、むしろ烈しさを加えて翌日まで降り続きました。この結果、天塩川流域の町村は大被害を受け、耕地の流失、埋没などによって、関係町村の収椣皆無被害が9,500町になりました。
このときの本町の被害面積は、天塩川(水位1,885m )流域で1350町,安平志内川で1664町歩におよび、さらに8月15日から9月14日までの間に5回の大水害があって、農民は農作物とともに気持の上でも大打撃を受けました。[5]
また昭和8年2月18日の報告書は、この時の惨状を次のように述べています。
八月十五日以降、前後五回二亘ル大洪水二見舞ハラレ、村内各河川沿岸地ハー瞬ニシテ泥海卜化シ、春季以来村民ノ改々(しし)タリシ耕土作物ハ、烏有(うい)ニ帰シ、其ノ悲嘆言語二絶スル状態二至リタリ。
一昨年以来、重ナル不遇ニ加ヘテ、此ノ惨状二逢着(ほうちゃく)シ、今更天禍ノ偉ニ慄然タリ。
然シ共村氏克ク協心一致、之レガ復輿ニ努力シ、未ダ其ノ実充分ナラズト錐モ、着々自力更生ニ依リ、所定ノ目的ニ向カヒ邁進シツツアルハ実ニ幸イトスル所ナリ [5]
富太郎の急な往診は、この水害に伴うものだった可能性があります。

昭和30年、天塩川の水害(出典③)
■安平志内川増水
主人が出かけた後の診療所を激しく雨が叩きつけ、2人を一層不安にします。
・このあした 名のなき山べ ひとつ越えくら谷にして しずく落つるおと
・白樺の年ふりにける 一つ木の立てるも さびし 北ぐにのやま
8月15日朝になると雨は収まってきましたが、今度は川水が増水していきます。平成28年の大水害では大雨の8月31日から一夜明けた9月1日の未明から河川氾濫が始まり、午前中に富良野、清水などの市街は水没しましたが、今よりもずっと保水力のあった昭和初期は増水越水はもうすこし時間がかかったかもしれません。
・二日ふりし 雨雲とおく退きながら ありあけの つき空ひくく見ゆ
・十尺(とさか)よりも 秀(ひい)でておふる 蕗のむれに 山がはの みづの荒れてくる見ゆ
昼頃、富太郎が帰ってきました。台風一過の晴天。
・二里奥へ 往診をして かえり来し 兄の額より 汗ながれけり
豪雨をおして午前2時に富太郎が往診に出た理由は述べられていません。当時の状況を考えると富太郎自身が災害に巻き込まれた可能性もあったでしょう。
■大冷害と大洪水と
齋藤茂吉と言えば当時の著名文化人です。この日の夜、宮城出身者、秋田出身者が集まって歓迎会が開かれました。
・雨はれていくむら 山にかこまれし村を 照らせる 夏の夜の月
・この村の八人 つどいいて酒のみぬ 宮城あがたのひと 秋田あがたの人
町史によればこの8人は、茂吉兄弟と小学校長、郵便局長、商店主、区長、村会議員などだったようです。茂吉が兄を訪ねた昭和7(1932)年は昭和の連続大冷害の最中です。しかも、水害被害が拡大している最中であれば、天下の齋藤茂吉が訊ねてきたというのに宴席に顔を見せたのがわずか8人という寂しさも納得です。話題は明るいものになりません。
・いささかの トマトを植えて ありしかど 青きながらに 霜は降るとう
・夏ふけし 北の山路に 小豆畑は 霜によわし と語りつつ
・旅とおく 来たりてみれば 八月のなかばというに 麦を刈るなり
・年老いつつ 鴉(からす)を 打ちて食いしふ 貧しきものの ことを語りつ
上川郡の中川は地球儀を見ても農業ができる最北地域です。この地に入植した人々はさまざまな作物を試して農業の可能性を探りました。この日の宴会で語られた東京では想像もできない開拓地の暮らしは茂吉の心に残ったようです。
・かわかみの 小畑にまで 薄荷うえて かすかに人は 住みつけにけり
・年々に トマト植うれど くれないに いまだならねば うらがるるなり
・一週に一度 豆腐をつくる村を 幸福のごとく かたりあえるかな
入植者たちは、トマトやハッカなど、さまざまな作物に挑戦しながらも、冷害に襲われ後退していく姿が詠われています。
■わが兄は尊かりけり
安平志内川の増水もようやく落ち着いてきたのでしょう。8月18日、これ以上ここにいて水害復旧の邪魔はできないと、茂吉は志文内を離れて佐久駅に向かいます。その時、兄富太郎はこの地ならではの土産を手渡します。
・この谷の 奥より堀りし アンモナイト貝の 化石を 兄はくれたり
・五日まへに 雨にぬれつつ 来し道を 日に照らされて いまぞ歩める [2]
佐久に向かう途中、水害の爪痕に茂吉たちは息を呑みます。
・原始林の 麓をすぎて けだものの 住みおることを かつて思わず
・天塩川の あかくにごれる いきおいを まぢかくに見て おどろくわれは
そして2人はふとこんなことに気がつきます。
・志文内に 五日おるうち ひとたびも 墓地にゆき見むと 吾はせざりき
大冷害と大水害による二重の打撃を受けた昭和7(1932)年の中川にお盆はなかったのです。
この訪問で齋藤茂吉がもっとも感銘を受けたのは、同じ医師として開拓地で拓植医として働く兄の姿でした。
・かすかなる もののごとくに わが兄は 北ぐにに老いぬ 尊かりけり
・おのずから 白くなりゆきし 髭そめて 村医の業に 倦むこともなし
守谷富太郎もまた究極の過疎地医療とも言える拓植医に医師としての使命感を燃やした一人でした。昭和50(1975)年の町史では詳しい以上の紹介以上のことは書かれていませんが、その後、守谷富太郎についてはさまざまなことがわかってきました。(続く)
【引用出典】
[1]『中川町史』1975・289p
[2]『中川町史』1975・290-291p
[3]『中川町史』1975・768p
[4]『中川町史』1975・336p
[5]『中川町史』1975・414p
【写真出典】
①山県県公式サイト>ホーム > 組織で探す > 観光文化スポーツ部 > 県民文化スポーツ課 > 文化振興 > 齋藤茂吉略歴(短歌) https://www.pref.yamagata.jp/ou/kanko/020073/bunkasinko/tankahyakureki.html
②『中川町史』1975・336p
③『中川町史』1975・427p
④https://ja.wikipedia.org/wiki/青山脳病院