北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

【安平】早来守田の開拓物語

現代の開拓者 橋本聖子 不屈の闘志を育んだもの

 

参議院北海道選挙区選出の議員であり、著名なオリンピアンである橋本聖子先生が、東京オリンピック組織委員会の会長に選ばれました。先生は北海道開拓者の血を引くものであり、北海道の開拓者精神の継承者であることを公言する数少ない著名人です。そこで緊急特集として橋本先生を生んだ安平町早来守田地区の歴史をお届けします。

 
 

■祖父の開拓精神は今も私の中に生きている

東京オリンピック組織委員会の新会長に選ばれた橋本聖子先生は、安平町出身の生粋の道民であり、大地に分け入ってまちを拓いた開拓者の血を受け継いでいます。これは
北海道神宮社報「北の志づめ」に寄せた橋本先生のエッセーの一部です。
 

出典①


議院議員 橋本 聖子 第1回 私の礎 
 
私が生まれた時には、すでに亡くなっており、一度も会うことができなかった祖父は、大正9(1920)年、宮城県から、この地に開拓に入りました。
 
来る日も来る日も、人が歩けないような場所をこつこつと切り拓き、畑を作ったそうです。筆舌に尽くせないほど、非常に厳しい生活だったといいます。しかし祖父は、たゆまず耕し、切り拓いたのです。(中略)
 
祖父の背中を見て育った父は、「どうしてこんなところで暮らさなければならないのか」と恨めしく思ったこともあったそうです。しかし、父は、そんな生活の中で、自然や生命に対する畏敬、忍耐や感謝、工夫する知恵といった「生きる力」を体で覚えたといいます。
 
祖父の口癖は「50年先、100年先を考えて開拓に入った」というものでした。奇しくも春秋時代の中国の政治家、管子(管仲)は「100年先を楽しむには人を育てよ」という言葉を残してします。
 
祖父は、土を育て、牧場を造っただけではなく、開拓事業を通じ、その生き方をもって、子を教え、育てました。100年先に夢を馳せた祖父の開拓精神は、今も私の中に生きています。[1]
 
スケート選手として、自転車競技者として、夏季と冬季合わせて、計7回オリンピックに出場した遺業は、入植之困難に打ち克った父祖から受け継いだ開拓者精神の賜でしょう。
 

■橋本聖子を生んだ早来守田地区

では、橋本聖子先生の父祖はどのような開拓を行ったのでしょうか?
 
橋本先生の生家である橋本牧場は、郡安平町早来守田にあります。『早来町志』(昭和48年)によれば、東京市下谷区池ノ端仲之町で、薬種商「宝丹本舗」を営んでいた守田重兵衛によって牧場が開かれたことから「守田」という地名が付けられました。
 
この
「宝丹本舗」は延宝8(1680)年創業の老舗で、江戸最古の薬店と言われています。文久2(1862)年に発売した「宝丹」という薬がヒットし、得た富で北海道に農場を開いたのでしょう。9代目の守田重兵衛が、明治34(1901)年に国有未開地331町歩を貸付を受け、守田牧場と称しました。土地を斡旋したのは9代目治兵衛と親交のあった榎本武揚と言われています。
 
 守田地区はかつてアイヌ語で「ニッタポロ」と呼ばれいました。大きな湿地という意味です。この名の通り、水の多い土地でたびたび洪水に襲われました。明治35(1902)年の大洪水によって、数戸いた農場の小作人は、それまでの開墾の苦労が全て洗い流され、絶望して土地を去ったと伝えられています。開墾の難しい土地でした。
 
こうして農場を開いた守田治兵衛ですが、自身は北海道に移り住むことはありませんでした。不在地主として歌登の桧垣農場でも紹介したように管理人を派遣して開墾を行わせようとしたのです。
 
はじめは厚真村の三井物産木工場で工場長をしていた高木某に牧場を任せましたが失敗。続いて永谷仙松という人物に委ねますが、水害にあって小作人ともども撤退。見捨てられたまま数年が経過しました。
 

橋本牧場②

 

■守田牧場に長尾兼太郎入地

明治39(1906)年、このままにはできないとオーナーの守田重兵衛は、親戚筋の長尾兼太郎に農場を任せました。次は『早来町史』に掲載された長尾兼太郎の四男長尾兼晃による口述記録です。
 

長尾兼晃(明治31(1898)年6月29日生)談
 
「ニタッポロ(守田)部落は、明治34(1901)年ごろ東京の薬種商(宝丹本舗)をしていた守田重兵衛が、親交のあった榎本武揚のあっせんで、ここの土地約100万坪を牧場として貸下げを受けたことによって、その歴史がはじまったのである。
 
そのころ厚真の本郷(旧チヶッペ沢)に、三井物産の木工場ができたとき、高木伯爵の弟某が工場長として来たがこの人に牧場の管理を依頼、その後永谷仙松がかわってこの牧場を管理することとなった。この間全く開墾されないまま放置された。
 
私の母は、守田重兵衛の奥さんのめいに当たる人であったが、この牧場を開墾して成功したら半分をやるという約束で、私の父長尾兼太郎が、この牧場の管理を引き受けて、単身渡道したのが明治39(1906)年で、その年は8月から11月までかかって、厚真村の幌里(旧厚真ニタッポロ)からの事務所を作り、その年の冬は国へ帰った。[2]

 
 長尾兼太郎は守田重兵衛の小作人ではありましたが、これは開拓地の北海道で見られた「半分け」と呼ばれるもので、これは定められた年限に原野を開墾したら、土地の半分を小作人に分け与えるというものです。残り半分は小作地として年貢を払いますが、開墾に成功すると半分とはいえ、自分の土地が手に入るというのは大変なモチベーションでした。
 

守田に越える道路を作り、現在の長門宅附近の平らな所に40年の春、当時横浜地方裁判所の書記をしていた長男の栄1を連れて再び渡道し、畜舎の建設や馬の購入にかかり、次の年41年には、家族全員が引っ越してきた。
 
それから小作人を入地させて開拓に努めた結果、明治43(1910)年には成功検査を終えて、この土地の払下げを受けたのである。
 
もとこのあたりは、ナラやアサダ、イタヤなどの原始林で、ひとかかえもある大木の密林地帯であった。これを伐採して2,3年で耕地20ヘクタール、馬100頭を飼養する牧場となり、試験的に水田50アールも作られるなど、この地の開拓はしだいに進められていった。[2]

 

■守田部落 大凶作に襲われる

このようにして、多くの入植者に見捨てられた開墾困難な土地は、長尾兼太郎の努力によって牧場へと生まれ変わりました。明治43(1910)年に成功検査を受けたとき、守田牧場の半分は長尾兼太郎のものとなったのでしょう。
 
長尾はさらに農場を広げようとしますが、大正2(1913)年、それまで成りを潜めていた北海道の自然が突如目覚めて大冷害として長尾牧場を襲います。
 
どれほどの凶作だったか、『厚真村史』(昭和31(1956)年)は、『厚真中央小学校沿革史』を引用して次のように伝えています。
 

粒々皆これ辛苦、辛苦一星霜戴星踏月の苦労も悉く水泡に帰し、草は枯れ、望みは消えた。凄蒼暗澹天日暗し、忘れんとして忘るに能わず大正2(1913)年の歳。
 
天の災厄に泣き、人道のあつきにまた泣く、耐忍以て将来の計を立つるあり、望みを失して他に転する者あり、相慰めて共に励ますものあり。備荒の急を蝶々する者あり、今や春は来ぬ。一万田の水草緑なり。人皆ここに一縷の望みを託す。雷鳴一喝怒号、和風●然、人は皆天の節理を釈然として覚えたらんか、秋風の金波えらぐ、忘れんとして忘れ能わず大正3(1914)年の歳 [3]

 
流氷の訪れる世界の最南端、北海道では数年に一度、冷夏が作物の育成を妨げ、開拓農家を絶望の淵に追い込んだのです。厚真村の例を紹介しましたが、惨状は守田部落でも同様でした。
 

こうして起業を成功して、土地の付与を受けた翌年の明治44(1911)年には、馬の大半を売却した資金で、全道的に小作人を募集し、応募者18戸の入地をみて、そうその開拓が期待されたが、大正2(1913)年の大凶作に見舞われて、新しい入地者は3戸を残して土地を去っていった。[2]

 

橋本牧場③

 

■祖父喜三郎 守田に入植

これまでの開拓事業が根底から覆る危機でした。この時、長尾兼太郎は、他に見られない独創的な方法で対処しました。
 

大正7(1918)年に地主の守田重次郎や大阪の薬種商小西新兵衛、管理人の長尾兼太郎らを代表者として、守田農場合資会社を設立し、親馬が100頭ぐらい、仔馬が100頭ぐらい、合わせて200頭ぐらいの馬を飼養していた。[2]

 
 冷害によって疲弊した牧場を建て直すために、長尾兼太郎は会社組織を設立して、牧場主守田重次郎らに再建資金を資本金として出資を願ったのです。そして撤退した入植者の代わりの入植者を、守田農場合資会社の従業員という立場で迎入れました。
 
大正15年、この守田重次郎の呼びかけに応えて、宮城県から守田農場に入ったのが、橋本聖子先生の父祖、橋本喜三郎です。
 

■農地解放 喜三郎自作農となる

 この従業員方式による入植は、やがて小作制に改められますが、疲弊した守田地区に多くの入植者を呼び集めるのに成功しました。
 

昭和4(1929)年ごろ小作にはいっていたのは19戸であったが、この年自作農創設のため農場を開放し、入地者もふえて20戸ぐらいになった。昭和6(1931)年に私たち兄弟と品川三代治、藤原喜代松の4人が中心となって、東安平(緑丘)の田村喜代三、佐食木午吉のところから、現在の守田の学校のあるところへ出る道路をつけることを願い出て、昭和7(1932)年凶作の年にこれを完成した。[2]

 
守田農場合資会社は昭和4(1929)年に農地333ヘクタールを小作人に開放しました。これにより橋本聖子の祖父橋本喜三郎も、この農場開放によって自作農となった21戸の1人でした。
 
長尾兼太郎というすぐれたリーダーに率いられた守田農場は、小作人達が自作農となった後も長尾の元で強い団結力を示しました。
 
部落の青年たちによってつくられた「安平農村友会」は神社祭典における余興角力大会その他部落の各種行事に率先して参加して、活発な活躍ぶりを見せていた。[4]
 
このような中で橋本聖子の父・橋本喜吉は育っていったのでしょう。
 

■最後の志士、長尾兼太郎逝く

昭和7(1932)年、守田牧場の管理人としてこの地に入地し、あらゆる困難を乗りこえて開拓に努めてきた長尾兼太郎が亡くなります。橋本喜三郎ら守田部落の一同は長尾兼太郎の顕彰碑を建立します。そこには次のように書かれていました。
 

長尾兼太郎は人皇50代桓武天皇皇子葛城親王24代の後喬にして、安政3(1856)年1月6日、岐阜県武儀郡上之保村に生る。19歳にして西南の役に従軍し、明治28(1895)年日清戦争に出征し、同29年1月、憲兵1等軍曹勲7等に叙せらる。同40年入村。字仁達幌へ転住、守田牧場管理人となり、村農会総代の職に在ること数年。昭和4(1929)年5月衆望を担いて村会議員となり、村治に尽瘁せらる氏の功労甚だ大にしてその偉業また大なり [5]

 
度重なる水害で多くの入植者が投げ出した土地を開き、多くの部落民を指揮して、度重なる冷害を乗り越えた守田地区の開拓功労者は岐阜県の士族出身、若くして西南の役と日清戦争に従軍しました。
 
この経歴を見たとき、
江別野幌の開祖・関矢孫左衛門を思い出します。関矢孫左衛門は北海道を開拓し、日本を欧米の脅威から守るという明治天皇の意志に従って、大庄屋の地位を捨てて江別に入植しました。長尾兼太郎が数々の試練を乗り越えられたのも、関矢孫左衛門と同じ信念に支えられていたからではないでしょうか。
 
さて、長尾兼太郎の呼びかけに応え早来守田に入植し、自作農となった橋本喜三郎は牧場を持ちます。そして橋本聖子の父、橋本喜吉の代になって橋本牧場は大きく発展するのです。その話は次の機会に……。
 

【引用参照出典】
 
[1]北海道神宮社報「北の志づめ」http://www.hokkaidojingu.or.jp/sizume/
[2]『早来町志』1973・400-401P
[3]『厚真村史』1956・177P
[4]『早来町志』1973・403P
[5]同上・403ー406P
①https://www.kantei.go.jp/jp/98_abe/meibo/daijin/hashimoto_seiko.html
②③ゼットステーブル(橋本牧場)公式サイト/フォトギャラリーhttps://z-stable.com/gallery/

 

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