【共和】北のハイグレード食品に秘められた歴史
函館本線とダイナマイト
共和町唯一の牧場である「三田牧場」の自家製アイスクリームが「北のハイグレード食品」の認定を受けました。明治35(1902)年の創設、北海道で一番古いと言われるこの牧場の歴史を探ると新たな北海道史が見えてきました。
■現存する道内最古の牧場


北のハイグレード食品「三田アイス」①

三田牧場は、岩手県盛岡市、三田義正の経営であって、小沢駅を距ること1町、鉄道沿線に沿って北方に位置し、眺望の良い位置を占めている。明治35(1902)年に大沢村字ヤエニンベに900余町の未開地を道庁から貸与され、7月16日、初めて開拓に従った。当時はもちろん大森林で、昼なお暗い有り様であった。
第一着手として木を切り開いて家を建て、これを仮事務所に当て、現停車場から三坂峠に通じる幅間1間半、長さ1000間にわたる直線道路を開いたが、時の人はこれを見て「三田の馬鹿道路」と言って冷笑したものだと言う。[1]
北海道開拓に情熱を燃やす若い開拓者が、情熱の余り〝やり過ぎ〟てしまうのは、よくあることで三田義正の開拓も周囲から見れば、少々力が入りすぎていたもののようでした。しかし、このような開拓者が成功をつかむのことが多いのも事実。果たして義正は──

函館本線と三田牧場②
■戦前にバターを東京移出
かくて36年には目的である馬匹改良とその繁殖のためまず厩舎を建て、種子牝牛30頭を購入、その中には岩手県岩手郡から3000余円で種牝牛「瑞琳号」を移入して成績を挙げ、馬匹改良に尽くした。
その後、熊の来襲を受けて惨害を被るなどのこともあったが、次第に事業を広げて、41年には釧路国から牛を輸入して増産を図った結果は成績が良かったので、岩手県小岩井農場と札幌月寒牧場などから、エッシャー種の優良種牛と牡牛6頭を入れ、元の馬本位の方針から乳牛飼育に改めた。
大正5(1916)年1月以降、業務を広げてバター製造を始め、年々規模を広げて生産を高め、大正7(1918)年8月10日発行の「開道50年記念誌」によると、年産1万斤を超えていると報じている。しかも品質優良なので東京都を主とし、本州方面に特にその名声を高めている。[2]
三田牧場の初代は、原生林を開いて牧場を起こし、苦労して事業を広げ、大正時代には遠く東京にまで乳製品を送りだす大酪農家になりました。素晴らしい開拓物語です。

三田義正③
■三田農林と三田商店
三田氏は銃砲店として有名であるが、牧畜に志を向けたのには次のごとき理由がある。氏は若い頃、津田仙の学農社に学び、秀才だとの世評であった。[3]
銃砲店として有名? どういうことだろう──。牧場を開くとともに共和や倶知安で銃砲店を開いていたのだろうか。ここで改めて三田牧場の

弊社は㈱三田商店のグループ企業であります。「信用・信義」を重んじて商売をするという三田商店の社訓とともに弊社は「農林業を通じて岩手を豊かにする」、「長期的な視点での人材づくり、街づくり」という創業者三田義正の理念を大切にしてきました。長期的なというのは現在の経済的なバランスも取りながら、技術、文化、信用の継承をはかり、土壌の環境も含めて継続性を保つことも含めると困難を極めます。[4]
これによると三田農林は㈱三田商店の関連会社であり、三田農林、三田商会とも本社は岩手県盛岡市にあるというのです。そして岩手県盛岡市中央通に本社を構えるこの


宮田商店本店(盛岡市)④
■三田火薬販売所
三田家の当主は代々南部藩士であった。明治維新の廃藩により南部藩士は警務職員、私塾の師範、農蚕業などの職業に転身する例が多かった。南部藩士三田義魏(よしたか)の長男義正は、明治20(1887)年に県会議員、その後、市会議員にも当選して岩手県政、盛岡市政のため尽力してきたところであったが、議員在任中の明治27(1894)年、盛岡市磧(かわら)町での火薬商営業権を屋敷ごと譲渡したいという話を聞くに及び、将来に向かっての選択を迫られるところとなった。
政策論争に明け暮れる生活より、地に足の着いた実業家に進むことを強く望む母親、キヨの熱意もあって決断、火薬販売の官許を取得して商業の道を選んだのが明治27(1894)年11月、義正34歳のときであった。「三田火薬販売所」という大看板で、家族挙げての応対ぶりから繁昌をみたという。
明治33(1900)年、三田火薬販売所はその後「三田火薬銃砲店」に商号を改め、現在地(平成8(1996)年時点)の盛岡市内丸3番戸に店舗を移す。猟用火薬の販売から始まり、明治28(1895)年尾去沢鉱山にダイナマイト50箱を納めたのが爆薬販売の端緒である。この当時の各鉱山は好景気時代であり、交通の不便な鉱山には馬車で運搬する以外に方法がなく、地元の有利性が大きく奏効し販路の拡大につながった。[5]
このように三田牧場を拓いた三田義正は一介の入植者ではなく、すでに産業用火薬の取り扱いで一財産を築いた実業家だったのです。失業士族による「武家の商法」は必ずすべて失敗するわけではないのですね。
さて、改めて「共和町史」を見直すと、道庁から貸し付けを受けた「900余町の未開地」は個人が受けるには広すぎますし、3000余円の種牝牛「瑞琳号」など──相当な資力のあることをすでに匂わせていました。

宮田商店本店(盛岡・明治30年代)⑤
■函館本線とダイナマイト
この三田がどうして北海道と縁を結ぶようになったのでしょうか。「三田商店100年のあゆみ」はこう続けます。
函館区会所町五七番地で、井上銃砲店を経営していた井上嘉助が、三田火薬銃砲店からの仕入れのため、たびたび盛岡に来訪していた。明治30(1897)年代の当時、函館で同業者蔦谷銃砲店と競合を続けていたことから、徐々に勢力が弱まり遂に経営を維持することが難しくなり、三田に対し経営を譲渡したいとの相談を投げ掛けてきたのが事の始まりである。明治32(1899)年、相当額の権利金を支払って同店を譲り受けたことで、ここに三田の支店第一号となり、北海道進出の足掛かりとなったのである。[6]
このように函館の同業者との縁から北海道に進出した義正ですが、共和に牧場を開くことになったは函館本線の工事、なかでも稲穂トンネルと深い関わりがあるようです。
店主義正は、北海道に鉄道工事が始まりダイナマイトの需要が増大することに着目。弛緩したまま放置を許されず将来に向かって基盤を確立するため、遂に母堂に経営監督を懇願したのであった。母堂は快諾、函館に渡り店務監督の任に当たったのが明治35(1902)年、59歳の時であった。[7]

三田商店函館支店⑥
三田牧場は函館本線の路線に囲まれるように広がっています。函館本線・函館ー小樽間のルート確定は明治33(1900)年であり、工事は明治35(1902)年6月から開始されています。日露戦争開戦前夜の状況の中、軍事物資輸送路として函館本線の完成を国を挙げて急いでいたと言われます。中でも稲穂トンネルの工事は大変な難工事で、工事を急ぐため多数のダイナマイトが使われたことでしょう
火薬商である三田義正がこの年、道から900町のもの貸し付けを受けて三田牧場を開いたのは、この函館本線の工事をにらんだものであることは疑う余地のないところです。周囲の入植者が「三田の馬鹿道路」と笑った直線道路にも必ず深い意味があったはずです。
余談ですが、このトンネル工事の完成を祝って、小沢駅前で和菓子店を営んでいた西村久太郎がトンネル完成を祝って「トンネル餅」を売りだすと大変なヒット商品となりました。芸術家肌の久太郎はこれで得た財により才能に恵まれた息子の計雄を画家として育てるのです。計雄は戦後フランスに渡り、世界的な画家となりました。

トンネル餅⑧
■三田輸送船、ロシア軍艦に撃沈される
義正は函館本線の工事を契機として北海道へ事業を広めていくのですが、そこには日露戦争によるエピソードもありました。
明治37(1904)年2月、日露戦争が勃発。日本海にロシアのウラジオストック艦隊がしきりに出没するようになり、青函連絡船も欠航するような状況で、7月には津軽海峡を突破して太平洋を房総沖まで南下するなど、日本人を震憾せしめたものであった。
たまたま、この年の8月、三田火薬銃砲店のダイナマイトを大量に積載して横浜から函館に向かって航行中の東京湾汽船会社の高島丸が津軽海峡でロシア艦隊に撃沈され、莫大な損害を被った。海上保険を掛けていたが、戦時の特約が無く保険は無効となってすべてが実損となり、店主義正も如何したものか善後策に苦悩した。
世間では、三田は再起不能であろうと噂をし、北海道ではこの撃沈でどうなるか大騒ぎとなっているなか、店主が決断し横浜に打電、再輸送の指令を発したのであった。再び襲撃を受けないとも限らない状況下で、再輸送を決断したのは、常に一身の利害を顧みず相手の立場になって熟慮したもので、この結果は得意先の絶大なる信用を得るところとなり、北海道における三田の基礎を築くに至ったのである。[8]
日露戦争による輸送船攻撃を逆手に道内での名声を高めた三田義正は、函館、札幌、釧路、室蘭と道内支店を拡充し、北海道の開発事業に対してさまざまな物資を供給していきます。東京日本橋には富裕層を対象とした狩猟用の銃を扱う店を開き、好事家に知られるようになります。
三田農林は、地元岩手、共和の他に新十津川や台湾に農場を拓きました。このようにして蓄えた資力を原資に本州各地でもビジネスを広げ、義正自身は参議院議員に選ばれるようになるのです。
■なぜ900町は解放されなかったのか?
さて、ここまで見てくると三田正義は北海道開拓で財産を築いた典型的な資本家なのですが、もう一つ謎が残ります。三田農林のホームページによると
森林経営岩手県に約1000ha、北海道に約900haの森林を所有して林業を行っています。[9]
三田義正が明治35(1902)年に道から貸し下げられた土地900町ですから、まったく失うことなく今もその土地を保有しているのです。900町=歩900haは東京の台東区(1000ha)よりひとまわり狭いくらいです。こうした事例を他に知りません。
ここでひとつの疑問が浮かびます。三田義正やその子孫が北海道に居住していた様子はなく、不在者地主であったはずの三田の土地は、なぜ戦後の農地解放を免れたのか──という疑問です。
三田商会、三田農林の資料を見ても、共和町の新旧の町史を見てもその答えはありません。しかし──
この当時のダイナマイトはすべて輸入品で、ドイツや英国から輸入、英国ノーベル社の日本総代理店は横浜のモリソン商会であった。三田は英国ノーベル社製品を取り扱っていたことからモリソン商会の小室文夫支配人と協議、函館区上磯郡久根別に三田が協力して火薬庫7棟を建設、明治37(1904)年9月竣工、「英国ノーベル会社ダイナマイト三田火薬庫」の看板を掲げた。[10]

英国ノーベル商会ダイナマイト三田火薬庫(函館)⑦
三田商店は火薬ビジネスを通じてイギリスのノーベル商会と深い結びつきがありました。ノーベル章で知られるアルフレッド・ノーベルが起こした会社ですが、イギリスの政府や軍にも強い影響力をもつ欧州財閥でもあります。イギリスは日本を占領したGHQの重要な構成メンバーであり、三田農林は商店のノーベル商会人脈を通じて土地開放をまぬがれたではないか? そんな仮説を立ててみたくなりました。
平成9(1997)年発行の『新共和町史』はこう言います。
共和町エリアにおいては、戦前から小作農の占める割合はかなり高く、農地改革によって、かなりの面積の農地が解放されたものと思われる。ただし、「自作農創設特別措置法」の規定に従って、買収及び売り渡された土地に関するまとまった資料は皆無といっていい。[11]
北海道の歴史にはまだまだたくさんの謎が残されています。
【引用出典】
[1]『共和町史』1972・221p
[2]同上
[3]同上
[4]株式会社三田林業公式サイト>三田農林株式会社の考え方 http://www.mitanorin.co.jp/index.html
[5]株式会社三田商店公式サイト>三田商店100年のあゆみ <明治>http://www.mita-gnet.co.jp/mita100meiji.html
[6]同上
[7]同上
[8]同上
[9]株式会社三田林業公式サイト>森林経営 http://www.mitanorin.co.jp/forest.html
[10]株式会社三田商店公式サイト>三田商店100年のあゆみ <明治>http://www.mita-gnet.co.jp/mita100meiji.html
[11]『新共和町史』2007・665p
①株式会社三田林業公式サイト> http://www.mitanorin.co.jp/index.html
②Googleマップ
③盛岡市公式サイト>盛岡の先人たち https://www.city.morioka.iwate.jp/kankou/kankou/1037106/1009526/1009578/1009590.html
④⑤⑦株式会社三田商店公式サイト>三田商店100年のあゆみ <明治>http://www.mita-gnet.co.jp/mita100meiji.html
⑧sceene>100年以上続く西北海道の銘菓「トンネル餅」から学んだこと https://sceene.co/categories/taberu/tunnelmochi.html