【占冠】 秘境中の秘境──ニニウの開拓 (下)
辺地の人々の心は少しも垢に染まっていない
占冠村ニニウの開拓物語を先に紹介しましたが、『占冠村史』にはニニウに関する捨てるには惜しい話が載っていましたので、いくつか紹介します。秘境中の秘境と呼ばれた僻地でも、明治41年から今日まで絶えることなく人の暮らしが続いていることに、私たちはもっと学ぶものがあるように思います。
■ニニウの農業
ニニウは鵡川の川筋の谷底にあって全く国有林の中にある。しかし焼く以外に開墾の方法がないので焼いたが、その度に山火事が起った。笹を刈るとか、火防線を入れるとかいうのでないから、焼けるだけ焼けて行くのである。しかし本当の原始林はそんなに燃えるものでなく、森林に大被害をおよぼすということがなかった。
会田トクは夕張から 金山経由で入地するとき、2斗の米を持つて来たが、この米を山火事で焼した時には、何のためにこの山中に来たかと思って涙を流したが、直径3尺に及ぶ「ナラ」、2尺5寸位の樺、松等、 木を楷し気もなく焼却して「ソバ」「アワ」等をとったが、全く「ソロバン」に合わない仕事を何年もしたわけである。
亜麻はよく出米た。しかしの孤島の中から峠を越して市場に出すとき、峠の上から馬もも荷物も谷底にころがり、死亡した馬まで熊にとつていかれると、さすがにつくることもできなかった。除虫菊の試作もあったが伸びず、「ハッカ」だけが成功をおさめた。しかしこれも支那事変の悪化によつて続かず、ビートは林道の完成によりやっと昭和36(1961)年から始まっている。
ニニウは本村で最も気候がよい。それだけに開拓時代、酒巻嘉平の植え付けたものをひきついだ「リンゴ」「ナシ」「プドウ」等の凄惨適地として村内唯一の希望であるが、それもこれも鉄道の来る日を待っというのが現状である。[1]
大望の鉄道が通ったは昭和56(1981)年の石勝峠開通でしたが、ニニウには駅はできませんでした。
■ニニウの輸送
交通不便で有名な本村も駄馬輸送が始まりなところが多いのに、もう一歩原始的な人の背によるに輸送から始まったのがニニウの部落である。鬼峠のことは前にも書いたが、次の段階の駄馬輸送の開削に力を入れ、王子製紙と高木木材から寄付をもらい、自らこの難工事を引き受けて赤字となり、資材を投じて完成させたのが長渕九郎だった。
初めて馬そりの鈴の音を聞いたとき、汽車が開通したように喜んで出迎えたというニニウは、また流送の関門であった。木材の関係の仕事でニニウの人々の真似のできない流送は特殊技術であった。紀州の人で竹本源太郎は飛鳥の如しといってもまだ足りない名人で、流送トビで力いっぱい丸太を引いている時、流送トビが外れても、後に転ぶ勢いで宙返りして他の丸太に移っていったという。流送こそ本村の運送上で忘れられない1ページで、鵡川はまた北海道での最大の流送河川だった。
このニニウに自動車輸送が始まったのは昭和35(1960)年の林道完備からである。[2]
■ニニウの郵便
タバコ、マッチ、酒も頼まれたが、これは特別の容器を作って輸送しないと割ってしまうものである。5升入り特製の背負い型だったが、なんといっても無電灯部落だからランプのホヤを頼まれるのが一番困った。これも割れ易いものなのである。

鬼峠②
郵便物は通常4貫(約15㎏)くらいであるが、時によると5貫(約19㎏)にも及ぶので、吹雪の峠は何と言っても難所だった。道の条件によって歩き方も身に付き、絶対急がないようになってくる。スキーの乗り方もスポーツと違ってどこまでも仕事に調和させることが必要である。夏も決して容易でなく、ことに雨降りの日は普通誰もが考える以上の重労働で、熊の出るのも雨の日は断然多いのである。[3]
逓送とは「宿場などを次々に経由して送ること」なので、部落唯一の郵便配達員は、本村まで郵便物を取りに行くのに1日、部落内を配るのに1日というかたちだったようです。
■ニニウの文化
昭和4年頃、1式70円の電池ラジオが赤岩の造材飯場に付られたが、一般の人々にはトランジスター式の受信機を入れるまで東京のニュースは聞こえなかった。
昭和27(1952)年森林電話が架設されるまで中央との連絡には実に苦心している。大正3(1914)年頃から新聞の配達もあったが、3日前の古新聞どころでない、時には10日も遅れてくるのである。大正6(1917)年頃には学校以外にも普及し、おくれて来たとしてもニニウではやっぱり新知識であった。
大正10(1921)年、伊藤周吉と広氷広右衛門が木材事業をやって儲けた。ニニウの人々もともに働いたものだというので、学校を借りて映画を見せたが、これがニニウの映画の始まりで、時々フィルムのきれたことだけはみんな知っていて、どのような写真だったかを忘れてしまったという。
何もたのしみがない。せめて盆位踊べししというので部落総出の盆踊りが神社で行われた。開拓時代、年寄が少いうことはどこも同じだから青年会も部落も区別がない。月の夜も更けるまで、あの高いところの神社で踊った姿が目に見える。宴会となると他の山村部落と同様に盛んで婚礼ともなると夜を徹して飲んだ。[4]
■はじめて先生を迎える

旧新入小学校③
酒といえばこれは同時に焼酎であり、野菜にめぐまれないこの部落が常食にしているアイヌネギと重なったのがこの臭気、先生どうぞひとつ──と差し出されば断ることもできない。
電気はない。もちろんラジオもない。乗り物はない。店はない。文化と名のつくものは何もない。だからあたり前のこともかみくだいて江戸時代の人にでも教える様にしなければ徹底しない。
生徒の体格の悪いのも部落の貧困のせいだ。川村先生の受け持つ1年から3年までだけではなく、4年生以上も隣の中学生も同じこと。身体検査の結果では小・中合わせて35名中、全国の標準に達しているものは校長先生の娘1人と言う悲しさ。お昼の弁当を見ればその理由は読める。
部落始まって以来入学試験はだれも体験したことのないところだから、勉強に対する観念が変わってくる。勉強が勉強以外に目的のない純粋な子どもたちだから余ほど興味をひかなければついてこない。
しかしこんな恵れぬ辺地の生活にも希望の灯はある。それは子供の世界にも大人の世界にもみにくい虚栄の影が1つもないことだ。ある放 後、半里もあるPTA会長の家にお使いを頼んだ。ところがおいそれとだれも行ってくれると言ってくれない。そこで1番年上の子にもう1度頼んだら、にっこりうなづいて出かけてくれた。ところが帰ってきたのを見ると、10余名の子どもたちはみんな1緒だった。そして仲良く同じ道を帰って行くではないか。みんな心の美しい子どもたちばかりだと感心した。
貧しい生活の中にいながら少しのひがみもない。それは青年逹たちを見ても同じなのだ。周囲の山々や川のせせらぎがきれいにすんでいるように、忘れられた辺地の人々の心も少しも垢に染まっていない。[5]
ニニウ小学校に赴任した川村先生はこのとき25歳。北海道教育大学旭川分校を卒業し、正規の教員免許を持つ最初の先生でした。それ以前は代用教員でした。
【引用出典】
[1]『占冠村史』1963・710p
[2] 同上・520p
[3] 同上・590p
[4] 同上・429p
[5] 同上・884-885p
①北海道立図書館『北方資料デジタルライブラリーhttps://www3.library.pref.hokkaido.jp/digitallibrary/
②冠村公式サイトhttps://www.vill.shimukappu.lg.jp
③北海観光節https://www.onitoge.org/index.htm