[寿都] 寿都鉄道──ニシン場所の大事業 (上)
阿倍比羅夫の軍港として、ニシンの千石場所として
後志管内寿都町は現在人口が3000人に満たない日本海岸の農漁村ですが、松前藩の商場所が設けられて以降、この地方の漁業の中心地として栄えてきました。北海道史でもあまり注目されることのないまちですが、大正の時代にまさに北海道の開拓者精神の発露とも言うべき偉大な事業に取り組んだことをご紹介します。

寿都全景①
■阿倍比羅夫伝説
斉明天皇御代(658-660年)、将軍阿倍比羅夫が蝦夷=今の北海道に渡ったという伝説が日本書紀にあります。寿都は阿倍比羅夫の軍船が停泊した場所という伝説があるほど北海道では古いまちです。どういう伝説なのか。『倶知安町史』(1961)は原文を引いて次のように紹介しています。

阿倍比羅夫②
後方羊蹄伝説は、『日本書記 巻第26』斉明天皇の4、5、6年の蝦夷東征の文章からうまれた。女性の天皇だったった斉明天皇のころは、皇子の謀反事件や、百済救援の出兵があるなど多事多難な時代で、蝦夷東征の記事はこの百済救援出兵の記事の前にまとめて記録されている。
4年夏4日、阿倍臣(名はもらせり)船師180隻をひきいて蝦夷を伐つ。アキタ、ヌシロ2郡の蝦夷、おそれおじて従わむと乞う。この年、越国守阿倍引田臣比羅夫、ミシハセを討ちて生熊二つ、罷皮70枚を献る。
5年春3月、阿倍臣(名をもらせり)をつかわして船師180隻をひきいて、エミシの国(蝦夷)を討たしむ。阿倍臣、アキタ、ヌシロ2郡の蝦夷241人、その虜31人、津軽郡の蝦夷112人、イブリサエ(胆振)の蝦夷20人を1カ所にえらび集めて、大いに餐え禄を賜う。すなわち舟1隻と5色のシミノキヌとをもって、かの地の神をまつる。
シシリコ(肉入龍)に至る時に、トビラ(問莵)の蝦夷胆廉島、莵聴名の2人すすみていわく後方羊蹄(シリベシ)をもって政所となすべし。[1]
今から1300年前に大和朝廷の武将が蝦夷地に遠征し、後方羊蹄に都を置いたというのです。時代は下って正徳(1714)4年、江戸中期の儒学者・新井白石は『蝦夷志』という書物を著し、後方羊蹄は寿都海岸、尻別部落あたりだと紹介しました。幕末の冒険家で阿倍比羅夫の子孫だと信じていた松浦武四郎は、後方羊蹄政所を探し求める目的で北海道探検を始めるのですが、その話はまた別な機会に。
尻別川を遡った現在の倶知安町あたりに阿倍比羅夫が置いたという政所があったとすると、比羅夫が率いた180隻の軍船が停泊したのは寿都であると信じられていました。
■松前藩の知行場所として
江戸時代、米の採れない松前藩は漁場(商い場=知行場所)の経営権を家臣に与え知行米の代わりとしていました。天然の流行に恵まれた寿都に知行場所が設けられれるのは、松前藩の成立以前、藩祖武田信広の時代とされています。
『寿都町史』は、松前藩時代の知行場所の様子を紹介しています。興味深いので引用しましょう。
知行主と知行場所に住む蝦夷との関係は、オムシャという儀式(蝦夷が久しぶりに会った際、たがいに身体をなでて久闊を叙する儀式)を通じていたようであった。こうした友好関係を結び、年一度蝦夷を「介抱」するといって蝦夷の欲するものを場所に持って行き、友好のしるしとして贈り、オムシャを行った。
蝦夷もまた土地の産物を贈りこれに返礼した。これが知行主の収入となったのであるが、だんだんオムシャも支配的となり、蝦夷産物獲得のため交易船派遣となり、蝦夷にとっては、きわめて不利なものであった。
『村山伝兵衛履歴』によれば、場所が開かれると、藩では松前に集まる内地商船から交易物資を仕入れ、各場所に下ってくる。この船のことを番船といって、合図造の12~13トン程度の小舟で、年に1回だけ来たという。時期は旧暦3月末か4月上旬の天候の良いところを選んだ。
アイヌはそのころを見はからって、沿岸の各部落から縄綴舟を仕立てて各々商場に集まって来た。そのため浜小屋などを設けて、さかんに交易を行った、とある。
交易方法は、和人側は上乗役、アイヌ惻は酋長(乙名)が代表して行った。しかし藩では、アイヌ交易に精通した商人をともなったり、また委託して行ったりして、上乗役(藩士)はただそれを監督するだけであったという。
交易品も米はアイヌの常食するものではなかったが、濁酒(どぶろく)の原料として渇望してやまぬものであったし、酒、煙草とともに大事にされたものであり、日本製の小刀、鉈、鍋、針なども非常に重要なものであった。[2]

オムシャの図③
【北海道開拓倶楽部】では、松前藩時代に深く踏み込むことはしませんが、とかくアイヌの人たちが受けた過酷な待遇ばかりが強調される松前藩の場所請負制度ですが、これを読むとその始まりはとても平和的であったようです。
■寿都海官所の設置

ニシンで沸く寿都港(大正二年頃④)
「函館・幌泉・寿都・手宮4港ニ於テ運上取扱当使ノ管轄ニ仰付ラル」いうことで、明治2(1869)年12月、海官所が北海道に4箇所設置されたのである。
これに先立って、開拓使は福山の問屋16名を函館に招致して、寿都・手宮両港へ移住出店を命じた。3年春になって、京屋・阿部屋等4名、小樽の富商2名と共に各金500両を納めて、手宮問屋を許可された。同年冬、福山問屋越屋等3名がまた同じく許可されている。
寿都・幌泉などもこうして問屋が定められて、商業機関は漸次元備してきた。またこれ等問屋は、それぞれの港に永住すべきことが一つの条件でもあったので、各分家もまた一家挙げて移住することになったため、福山は衰徹したけれども、寿都港などは大いに繁昌してきた。[3]

寿都病院・昭和五年頃5
開拓使が海官所を置いたことで、松前や江差の豪商が居を寿都に移した様子が語られています。こうして明治4(1871)年には函館官立病院寿都出張所病院、明治10(1877)年に寿都警察署、明治11(1878)年に中歌小学校、明治12(1879)年に函館地方裁判所区裁判所、公官庁も整備され、この地方の中心として陣容を整えていきました。
なかでも明治4(1871)年に病院が設けられていたことは注目すべきことです。北海道で最初の病院は『北海道医師会史』によれば文久元(1861)年につくられた「函館医学所」ですが、明治維新によって開拓使に移管されるとすぐに寿都に出張所が設けられているのです。当時の開拓使がいかに寿都を重要視していたかがわかります。
寿都の繁栄を決定づけたのは明治30(1897)年11月の寿都支庁の設置です。明治30(1897)年、北海道庁が初めて支庁を置いたとき、現在の後志支庁は寿都支庁(磯谷・島牧・歌棄・寿都の4郡)、小樽支庁(高島・忍路・余市・美国・積丹・古平・小樽の7郡)、岩内支庁(古宇の内・岩内・虻田の3郡)の3支庁に別れました。
■支庁所在地を奪われる
後志国の3支庁分割行政に異議をとなえたのが、俱知安の初代郵便局長河合篤叙と言論人の山田羊蹄であった。その主意とするところは「阿部比羅夫の郡領説」にあった。
それは河合が先ず、明治40(1907)年ごろ「後方羊蹄(しりべし)は阿部比羅夫が東征の際、郡領(まつりごとどころ)をおいて帰ったという『日本書記』景行帝の記によった由来をとり、後志地方の中心地は俱知安であり、昔から政治はここで行われた」と力説。3支庁廃止と一緒にした支庁新説を説いたパンフレットなどを各朝野に配付、猛烈な運動をおこした。
また山田羊麓は「わが俱知安は地理的関係と行政区域が異っているため、不利不便はもとより土地の盛衰に及ぼす影響は非常に大きい。交通機関が完備した今日、四達八達の中央に位置している俱知安こそ支庁をおくにふさわしい。速やかに現在の寿都、岩内支庁を合併してー支庁となすべし」とばかり、彼の発行していた新京報で力説。地元俱知安でも強力な運動を広げ、また中央の政界にも協力援護を求めて積極的な誘致運動を展開した。

1910(明治43)年1月15日付『小樽新聞』⑥
これに動かされたのが、時の河島北海道長官で、ただちに3支庁廃止と俱知安支庁を新設することを打ち出し、明治43(1910)年2月2日、道は内務部長山田撥ーを現地俱知安におくり、関係者と支庁新設に伴う具体的な交渉をすすめた。[4]
今よりもはるかに古事記、日本書紀の神話が強く信じられていた明治の時代、文明の及ばない原生の地と思われたいた北海道に1200年以上昔に都府が設けられていたという山田羊蹄(本名:実治)らの主張は、当時の北海道長官の気持ちを大きく動かしたのです。
3支庁の統合を決めた河島長官は明治43(1910)年2月に使者を現地に送り、翌年5月には新支庁庁舎の建設工事が始まったと言いますから、仕事が早かった。
突然、支庁所在地の座を奪われることになった寿都の人たちは、反対運動を展開します。
三支庁廃合問題の東電より伝えられるや町民及び当路者の驚愕一方ならず直ちに町民大会を開き、松井源内氏を中心とし即時存置運動に着手」とあるが、すでに方針が定まっているのに、今からどうなるものでもないという悲観論が一般的でもあった。しかし、寿都支庁の経済効果は一年間で20万円に達するという見積もりもあり、町に与える影響が大きいため、委員を選定し、上京させることになった。[5]
しかし、寿都地方の有力者の佐藤栄右衛門が道庁に説得されて反対運動は中断しました。そのすきに道は2月8日、勅令第16号によって、寿都・岩内・小樽支庁の廃止と新支庁の設置を電光石火に決めました。
寿都の人たちは悔しい思いをしたことは間違いありません。支庁所在という地位を倶知安に奪われた後、寿都には次々と不幸が襲い、衰退の一途をたどるのです。
【引用参照出典】
[1]『倶知安町史』1961・34p
[2]『寿都町史』1974・138-139p
[3]同上・287p
[4]同上・369-370p
[5]南後方羊蹄を訪ねて>寿都支庁の廃止反対運動 http://minami-siribesi.world.coocan.jp/contents/suttu_sityou2.htm
①農泊サイト>農泊地域(地域協議会等・自治体)一覧>農泊地域(北海道の地域協議会等・自治体)>北海道寿都町水産業産地協議会 https://nohaku.net/council/council-722/
②https://ja.wikipedia.org/wiki/阿倍比羅夫
③函館市中央図書館デジタル資料館 http://archives.c.fun.ac.jp
④『倶知安町史』1961・34p
⑤同上
⑥南後方羊蹄を訪ねて>寿都支庁の廃止反対運動 http://minami-siribesi.world.coocan.jp/contents/suttu_sityou2.htm