【寿都】 寿都鉄道──ニシン場所の大事業 (下)
廃村の危機から復興を鉄道に託す
明治時代の前半までは地域で最も栄えたまちだった寿都は支庁所在地を奪われた繁栄を鉄道誘致によって取り戻そうとします。まったくの私鉄として始まった寿都鉄道は大正9(1920)年から昭和43(1968)年まで地域の大切な足となりました。
■廃村の危機に追い込まれて

寿都大火の跡①
省みれば歌棄村は北海道有数の鰊漁場として俚謡にまで唄るる古い歴史を有するのであるが、大正年間の始め頃から連年不漁が続いて鰊漁場としての生命さえ疑わるるに至った。村の産業の源泉が枯渴するのであるから主として鰊漁業に従って居る人々の問からは倒産者は続出する、他村への転住者は増加する有様で、村勢は日日衰微衰退の道を辿り、村勢の経済方向は頗る憂慮すべき状態に陥った。玆に於て村理事者と村民一般の間にも村政の根本的整理緊縮の声が、自ら立たざるをえない。此の機運に拠って犠牲の第一に供せられたのが湖路小学校の廃止であった。[1]
■鉄道招致に再建を託す

近衛篤麿②
こうした大正時代の不況時と寿都町民はいかに闘って来たか、それは開拓精神を荒波とともにがっちり身につけてきたかを証左するように、寿都鉄道の起工の槌音を空高く響かせたその意欲であった。
近衛篤麿が北海道協会長として本道を視察、北海道開発の意見書としてまとめた『北海道知見』によれば、
「31日晴、午前8時30分、岩内高等小学校に於て有志及び生徒に対し一場の演説を請わる。9時30分、岩内汽船会社第五肱丸にて出発、歌棄、磯谷を経て一時半寿都着、端船に乗移りてニシン漁を見る。夕刻より寿都有志者の歓迎会に招かれる」
この時、岩内、寿都では「土地の有力者から築港と鉄道の支線を敷設する必要性を説かれている」「甚しきは函樽線に連絡すべき支線を敷設するにあらずんば、両地は終に衰退に帰すべしと愁訴する」という状勢であった。[2]
近衛篤麿は、終戦時の内閣総理大臣近衛文麿の父で貴族院議長などを歴任した明治の元勲です。北海道開拓を民間の手によって支援する『北海道協会』の創設の中心に立ち、会頭にも推されました。この時代の中央実力者の中でもっとも北海道に理解のあった一人でしょう。それだけに、寿都の人々は懸命に鉄道敷設を訴えました。しかし──
■誘致が駄目なら私鉄を
しかし、篤磨は、そのために両町が滅亡に傾くとも思えないし、付近の開発によって貨物と乗客とが激増すると、自然支線もつくだろうし、もしそれが敷設されなくとも、軽便鉄道とか馬車鉄道とかで連絡することはできるだろう、とこの陳情には消極的であった。[3]
近衛篤麿はつれない返事をして寿都を後にしました。この時まで、寿都の人たちは近衛篤麿の力を借りて鉄道を誘致しようとしたのでしょう。公共事業誘致の発想です。北海道の公共事業依存体質は批判されるところで、今の北海道であれば、国が動かなければ駄目だと諦めてしまうでしょう。ところが寿都の人たちは違いました.
寿都としては、海陸交通の中心地として往年の景況への回復の手がかりとしては、鉄道開通よりほかはないと、遂に私設の計画に踏み切ったのである。
大正7(1918)年、佐々木平次郎、吉田三郎右衛門、畑金吉、吉田成之、對馬園江、土谷重右衛門、中田忠治らが中心となって寿都鉄道株式会社の設立がなった。当時函館商業圏としての寿都の立場から、函館地方の実業家が名を連らね、地元有志等との資本金50万円の株式会社としてここに発足したのである。[4]
鉄道の敷設を熱望していた寿都の人たちは、国の力に頼れないとなると、民間有志の力を糾合し私鉄として鉄道事業を立ち上げたのです。
『寿都鉄道発達史の概略』によれば、敷設当時の模様を次のように記している
寿都鉄道沿線たる寿都、島牧、磯谷、歌棄の各漁村は古くから春鰊の千石場所として、江差、福山、松前と共に殷盛を極めたが、大正の初期から不振になった処へ、大正3年に寿都町の大火があり、人心漸く不安となり、早くから岩内は恵まれて寿都地方に出現するに至らなかった鉄道敷設の要望は、白熱化するに至り、当時、政治、経済的にその共栄圏であった函館、八雲、小樽等の有力者の協力を得て、大正6(1917)年9月敷設免許を出願し、大正7(1918)年2月免許。同年8月20日、資本金50万円のうち、第1回5万円を完了したので、函館で創立総会を開き、会社を創立し、大正9(1920)年7月中旬、線路敷設設定完了し、同年9月22日機関車が初めて寿都駅へ進入し、10月21日より鉄道省及北海道庁より線路監査出張、同月22日認可を受け、24日営業を開始し27日開通式を行った。[5]
■「寿都町万歳」「寿都鉄道万歳」
寿都鉄道の免許が下りた大正7(1918)年、欧州では第一次世界大戦が繰り広げられており、北海道は空前の穀物景気にありました。寿都の人々の熱意に応えた函館、小樽の有力者は、この穀物景気により富を得たのでしょう。事実、私鉄「寿都鉄道」は大戦の影響を大きく受けた船出となりました。
大正9(1920)年10月24日、寿都鉄道は開通しました。『南後志を訪ねて』には開通式を模様を伝える当時の北海タイムスの記事が掲載されています。

午前6時から午後4時まで、汽車の発着時に四発の花火が打ち上げられた。午後4時から午後10時までは、10分ごとに花火が打ち上げられた。午前10時、青年団のマラソン競争がスタートした。停車場に集合した青年会員たちは「寿都町万歳」「寿都鉄道万歳」を三唱し、一発の花火を合図に、渡島、新栄、矢追、大磯、岩崎、六条、開進各町を疾走、開通式場を目指した。5着までに入った選手には賞品が授与された。
午後0時、寿都小学校3年生以上が集まり、「天皇陛下万歳」「寿都町万歳」「寿都鉄道万歳」を三唱し、楽隊を先頭にして旗行列に出発した。その後ろには、町の青年たちの仮装行列が続き、一行は、渡島、新栄、大磯、岩崎、六条、開進の順に各町内をめぐり、開通式場に到着、再び万歳を三唱し、午後2時半に解散した。仮装行列は観覧車の投票にはかられ、5位までの青年には賞品が授与された。

開通式
また、寿都女子職業学校では、生徒の成績品展覧会や寿都測候所の気象観測機械の展覧会などが催された。他にも、開通式場で、20名余りの芸妓が手踊りなどを披露した。 [6]
夢にまで見た鉄道を迎えた町の人たちの喜びがひしひしと伝わってきます。
■馬鈴薯農業を育てる
こうして発足したが、当時欧州大戦のあとをうけて物価高騰の状態で、最初計画した建設費も資材値上りで予算額40万円が90万円近くに膨張したので、大正10(1921)年12月日本勧業銀行から、鉄道財団の裏付で40万円借入れ、それまでの諸銀行に対する債務償還に充当した。ここに寿都地方経済界に一大曙光を見出すべく、汽笛一声出発したが、それは決して平たんな滑り出しではなかったのである。[7]
鉄道は物資人員を運ぶ物です。運ぶ物がなければ経営は成り立ちませんが、寿都の人たちは、「北海道興農会社」という農業法人を起こして、この収穫物を寿都港に運ぶことを考えました。
農産物については、開拓使が本道開発10カ年計画によって本腰となったことなどとあいまって、寿都民間投資による中の川地区開発の北海道興農会社に、その事業を期待されたが、移民対策、土地開拓が軌道に乗らず、ついに昭和19(1944)年道内鹿越に合併され解散したため、大企業的生産ペースに乗らなかったので、その農産物収穫高は見るべきものがなかった。[8]
このように北海道興農会社の計画は上手く行きませんでしたが、これにより農業が刺激され、準漁村であった寿都は北海道を代表する馬鈴薯の産地に育ちます。
しかし、農民の土地に対する愛着と開拓への意欲は後年、湯別地区のビート、中の川の馬鈴薯と、本道でもその種子改良とともに生産高においても根幹農産物に数えられるまで発展していった。これは、興農会社がー鍬いれた、明治、大正時代において培われた農本思想の現れである。殊に中の川の種子用薯は内外にその名をうたわれ、取引先も日本一円と幅広く、寿都鉄道の貨車輸送によって移出されて行った。[9]

寿都鉄道
■北限のブナを運ぶ
実際に私鉄「寿都鉄道」の経営を支えていたのは、木材の輸送でした。
さらに木材関係では、西島牧にある広大なブナ国有林は、千古斧鉞の入らない原始林といわれていただけに、国としても、戦時中、飛行機資材や単板の要により、松下木材によって工場を設置して生産をあげていた。また戦後は札幌刑務所の作業場としたり、国策パルプ会社に払下げたりして、パルプ材として勇払工場に活発な輸出をしていた。
貨物輸送は、昭和10(1935)年まで15カ年間平均1万5000トン、11年より3万トン台となり、18年は石灰粉最高1万5000トン出貨があったので5万トンとなった。19年より3万5000トン台、33年5万トンとなり、最近3カ年平均3万5000トンで水産物・農産物を始め生活物資の交流に大きな役割を果たしてきた。[11]
もちろん、寿都鉄道は人も乗せており、次のような営業記録があります。
寿都鉄道の旅客人員からみた寿都の人達の動きは、大正9(1920)年より昭和13(1938)年まで17年問平均10万人内外、昭和12(1937)年日支事変より急増し、だいたい2割増、昭和21(1946)年は31万人が頂点でその後下降。5カ年間は13万人内外である。[12]

寿都鉄道
■地域の足を支えて
しかし、北海道に於ける純民間による鉄道経営は厳しものがありました。しかし、この鉄道は、寿都の人たちの支援を受けて設けられた鉄道であるだけに路線の維持には懸命の努力が払われました。
殊に気象的に冬期4ケ月間は吹雪と積雪が深く、道路交通杜絶が多く、そのために鉄道輸送は旅客輸送の一切を確保しなければならず、また除雪人夫費用も莫大ではあったが、機関車によるスノープラウの活躍、昭和24(1949)年雪搔き車1両を増設して能率を挙げていった。[13]
寿都鉄道は戦中戦後の厳しい時代を乗り切り、戦後はバスやタクシー事業に事業を広げます。
バス路線も、他社競争防止のため、昭和24(1949)年4月、寿都ー黒松内間の朱太川をはさんで鉄道並行運転を開始、同年8月黒松内村民の熱望によりその奥地大成農村まで延長した。
昭和27(1952)年黒松内・長万部・静狩間運転開始、昭和30(1955)年長万部・国縫間及び長万部市内温泉廻りを開始したが、黒松内・長万部間及び長万部市内温泉廻リは利用者が僅かなので、31年度は休止中である。
ハイヤーは、昭和25(1950)年地元にハイヤー業者がないので不便なため開始し、貸切バスも昭和27(1952)年地元民の要請に応えて開始した。こうして終戦後、急速にこの寿都鉄道ばかりでなく各種事業とも業務拡張をしてきたのが特長である。[14]

寿都駅
寿都鉄道は、高度経済成長が農漁村から人口を奪っていった昭和43(1968)年に終了した。その最後はかなり壮絶なもので、労働争議に明け暮れたという。寿都という場所を考えれば、よくぞこの時代まで鉄道を持たせた表することもでるだろう。『寿都町史』は次のように結んでいます。
そして高度済成長の年代に巻き込まれ、あるものはぐんと伸び、あるものはその犠牲となってあえなく消え去ったものもすくなくない。寿都地方もそうした時代背景の中で、経済の波と嵐とをかぶり闘ってきた。[15]
【引用参照出典】
[1]『寿都町史』1974・379-380p
[2]同上381p
[3]同上382p
[4]同上
[5]同上384p
[6]南後志を訪ねて>寿都鉄道開通式http://minamisiribesi.world.coocan.jp/contents/suttu_kaituu.htm
[7]『寿都町史』1974・379-380p
[8]同上385p
[9]同上391-392p
[10]同上392p
[11]同上
[12]同上393p
[13]同上392p
[14]同上393p
[15]同上
①『寿都町史』1974・371p
②国立国会図書館・近代日本人の肖像 https://www.ndl.go.jp/portrait/
③『寿都町史』1974・371p
④南後志を訪ねて>寿都鉄道開通式http://minamisiribesi.world.coocan.jp/contents/suttu_kaituu.htm
⑤⑥『寿都町史』1974・386-389p