[根室] 北方領土・千島の開拓 (3)
郡司成忠の「報效義会」(下)
明治26(1893)年、海軍の郡司成忠は千島開拓を目指して報效義会を組織し、50名の団員とともに千島列島の最北端占守島を目指しました。前進基地を択捉島に置き、占守島に上陸したのは郡司ら9名。南極探検で有名な白瀬中尉もいました。調査隊は日本人として初めて占守島の越冬に成功します。そして2年目を迎えたとき、急を告げる日清関係から郡司に帰還命令が出ます。残された白瀬らが2度目の越冬に臨みます。そこで6名が待ち受けたものは―――。北方領土を思う時、必ず知っておきたい歴史があります。
■白瀬中尉のカムチャッカ調査計画
郡司成忠を載せた軍艦「盤城」は南方に去り、郡司は戦地に向かいました。残された同志は白瀬のほか、杜川延三(神戸商業学校卒業生)、蔦原益吉(三重重尋常中学校卒業生)、山本敏(水戸尋常中学校生徒)、関誠一 (千葉県農業)、御園生亀三郎(同)の6名ででした。
彼らははじめこそ意気盛んで、敵陣の様子を探るべく7月21日にはカムチャッカへの渡航を計画しました。この計画に臨んで白瀬中尉は手記に次のような意気込みを残しています。
今回彼保波留斯科渡航の主意たるや、一はもって一衣帯水する露領を雲烟相望の乍み、傍観坐視徒食するは日本血性男児の瞬時だも忍ぶ能はざる処。鉉をもって一寸の丹心一挺の銃を携へ、三尺の吠水を提げ一葉の片舟に倬さして激潮を横断し怒濤を渡り、蛮烟を破り、毒霧を冒して深く露土に身を投じ、彼れの地理風俗共の他百般事物の探検調査をなし、隣土の状況を察知し、千島との関係上裨益を与へんと欲するにあり。一はもって将来東察加との貿易上に関し早晩交通開拓せらるべからざるや必せり。ゆえに矗等今や劈頭第一着として夏季避若を兼ね渡航するにあり。
報效義会の千島開拓は単なる入植ではなく、北方防衛と開拓を兼ねた「屯田兵」でした。しかし、白瀬が記したこの計画は人員の不足や天候険悪などのため実現には至っていません。それでも日々出没する外国密猟船を見つけては、ときには発砲し、あるいは捕えなどし北方警備を実行していきました。

白瀬 矗 中尉
■2度目の冬―――地獄の到来
やがて冬が訪れます。
古守島は山地のない平坦な孤島で、オホーツク海を吹き抜ける風を遮るものなく、雪をはらんで叩きつけます。掘建小屋で閉じこもるだけの生活が続きます。白瀬中尉の式の元隊員たちはじっと春が近付くのを待ちますが、孤島生活の極端な野菜不足によって団員たちの体調にも変化が出てきました。前年に和田平八の命を奪った水腫病が襲い、団員たちは次々病床につきました。白瀬中尉の「日記」には次のように記されています。
4月19日、午前1時、杜川延三水腫症病臥中の処死亡。5月7日、午前第9時50分、御園生亀三郎同病臥中の処死亡。5月13日、午後第11時、山本敏同上病臥中の処死亡。嗚呼、命数とはいひ3名の壮丁として逝けり。悲いかな生死の別離。爾来、矗等3名の病褥者3死者と同居するの惨状に至れり。すなわち吹雪積雪のためめ葬るを得ざるによりてなり。
4月から5月にかけて3名の隊員が亡くなっただけではなく、体力を失っている生存者も厳冬の野外で雪を掘り起こして遺骸を埋葬することができず、同じ掘建小屋の中で、朽ち果てるをのじっと見つめているほかなかったというのです。生き残った白瀬ら3名は次のようにして命を繋ぎました。
5月15日、矗等3名病褥に臥し、食品愈々尽きたるをもって、無惨ながら飼犬熊(牡犬の名)を銃殺して、矗等3名の露命を繋ぐことを得たり。
5月24日、3死者の死屍すこぶる腐敗靡爛せしと、かつ積雪減少のためめ土中の氷結も和らぎたるをもって、本日午前矗と関とにて(葛原は神経症にて病臥中)、旧土人廃習の一つを撰定し、3死者の死屍を埋葬せり。
しかるに死屍の腐敗靡爛せしためめ、臭気紛々たるのみならず、肉片処々に落ち散りかつ重量にして2人力不足(矗はいまだ全癒に至らざれば、壮健時力量の半減だにもおよびばず。関も近頃風邪のためめ服薬中なれば気力すこぶる哀に陥いり居れり)なるとにて、非常なる困難を嘗め、漸く3時間にして埋葬を了するに至れり。
この世の地獄―――とはこのことです。北方領土、千島の歴史には、このような我が民族の犠牲が刻まれていることを覚えておきたいものです。
■救出
その後、近海でイギリスの密猟船が難破し、流れ着いた遭難者である英人チヤレーと雇い和人・田中久治とを助け出しました。しかし、助けを求める術もなく同居となりました。こうしているうちに夏隣、8月21日午後1時頃、日本の帆船1隻が占守海峡に姿をあらわしました。北海道長官北垣国道の命令によって函館区長が派遣した「八雲丸」でした。白瀬の「日記」はこう続きます。
8月21日、午後第一時帆船八雲丸(函館区辻快三氏所有ラッコ猟船にして42トン余なり)、柏原湾に入港。同日午後第三時、その船事務員角房三氏船長代理として函館区長財部氏より矗等占守越年者6名に宛てたる書簡を嚮らし、端艇にて占守湾に来り。矗等を穴居草盧に訪問せり。すなわち函館区長よりの書簡は矗等を択捉島紗那へ引揚げのためめ八雲丸を差遣せし々の件なりき。
よって同月27日、矗ら草盧を撤し(草庵の入口を閉鎖し、八雲丸乗り込み云々を日本語および英語にて書したる2尺余の板標を釘付し置けり)八雲丸に乗り込みたり。
白瀬中尉はじめ生存者3名は、8月22日に占守島を去って択捉島に収容されました。こうして明治26(1893)年8月から2年に渡る報效義会の越冬生活は終わりました。
■再挑戦
壮絶な失敗というしかない報效義会の移住計画ですが、リーダーの郡司大尉は諦めません。明治29(1896)年日清戦争がおわると、郡司は計画を前進させるべく択捉島に残っていた団員のもとに戻りました。日清戦争の勝利によってロシアと正面から対峙することになり、千島開拓重要性が帝国議会でとり上げられ、郡司には相当の助成金が交付されることになったからです。
郡司は失敗の教訓から、ある程度の人数で自活可能な生活圏を築くことを目指し、新しく募った56人の会員とその家族をひきつれて占守島に渡りました。同志の眠る片岡湾に本部を移しました。
多数の入植者の強力により、北方諸島の些細な調査を行いました。団人の観測した気象データを中央気象台に送り、この地方の気象が初めて明らかになりました。気象台ではこれを利用するとともに、報效義会で役立つようにと気象図をつくって提供してくれました。
第一次隊の命を奪った「水腫病」についもデータを軍医中将高木兼寛に送り、これが「脚気(かっけ)」であることを突きとめました。脚気はビタミンB不足によって起こるものですが、「江戸病」と呼ばれるほど江戸時代後期から明治時代に流行り、年間数万人が命を落としていました。
これは、江戸後期から玄米から白米を食べることになったとが関係しており、玄米に含まれていたビタミンBが白米になって摂取できなくなったことが原因です。しかし、当時はその原因が不明で、富国強兵によって海軍力の増強が始まると、戦艦内で同じ食事をとる兵士が大量に発病し、国防上の問題ともなりました。高木中尉は、海軍軍医の立場からこの問題を追及したもので、占守島のデータは病気の解明に役立ちました。
こうした功績により、高木中尉は、「ビタミンの父」とも呼ばれ、後に東京慈恵会医科大学を創設します。いわゆる「海軍カレー」は、高木中尉が脚気対策として普及したことが始まりとされています。

明治33年頃の占守島
■冒険から定着へ
この他、団員はこの島で自給自足できる道を追求しました。会員のひとりが海水の凍結を利用した「製塩法」を開発したことで、塩の自給の道が開かれました。団員達は牛や馬などの家畜を導入し、農業に挑戦しました。団員も明治30(1897)年には男子46名、女子18名を数え、鮭や鱒、スケソの加工を行って外貨を稼ぎました。
郡司は、カムチャッカ半島にも調査を広げ、漁場としての有望性を確認しました。これを聞いた函館の漁業者がロシアの許可を得て同地で操業、明治34(1901)年には2500名もの漁業者が入る漁場となりました。報效義会が本部を置く占守島は北方漁業の基地としても賑わいました。
この地に和人が定着したと言えるために必要なのは、この島の男女が婚姻して子をもうけること、この地に骨を埋めるものが現れることです。占守島で最初に結婚したのは、別所佐吉と田中サキのカップルで、郡司が仲人になりました。二人の間に生まれた別所二郞蔵は父佐吉とともに、太平洋戦争の終戦まで同島留まりました。父の佐吉はこの島に骨を埋めています。
明治37(1904)年、日露戦争が勃発すると、郡司は帝国軍人として何をすべきか熟慮の上、「 たとえ小舟でも海峡隔てた敵地カムチャッカに渡り、情報を収集し、変に応じて自ら敵と戦う場合に遅れをとってはならない」
と、海軍大臣に願書を出して、19名の隊員とともにカムチャッカ半島に上陸しました。
しかし、郡司ら幹部はロシア品に捕らえられてパトロパウロスクに送られて拘禁されます。他の者は占守島に戻されました。その後、間もなく日露戦争は終戦。郡司らも帰国が許されました。戦後、ロシアの脅威が大きく後退すると、占守島はオホーツク海北部の拠点として大きく栄えます。報效義会の千島開拓は、痛ましい犠牲を生み出したましたが、太平洋戦争でこの地を失うまで、日本の北門に確かな足跡を残したのです。
【引用・参照文献】
『根室市史』1983・根室市
①Wikipedia
②地理写真帖. 内國之部第2帙1900