明治天皇の北海道開拓 (一)

明治天皇肖像①
叡明なる明治天皇の御聖慮
天皇誕生日を記念して、昭和13年に北海道が発行した『開道七十年』より「明治天皇と北海道」をお届けします。現在の北海道史では、まったくと言っていいほど触れられることはありませんが、世界でも希な豪雪極寒の地がかくも短期間に先進国水準に達した原動力に、明治天皇を始めたとした歴代天皇の北海道に寄せた強い関心がありました。数回にわたってお届けします。
「北門社」の志士
北海道開道七十年、その間北海道拓殖の力強い進歩の跡を顧みる時、何よりもまず思いをいたさねばならぬ事は、明治天皇を始め奉り、歴代皇室の本道に垂れさせ給うた深い御軫念(しんねん=天子の心)である。
錦旗東に向つて進発し、明治維新の大業まさに成らんとし、創業の政務多忙を極める中において、明治元年三月十二日、宮中におかせられては早くも蝦夷地開拓に関する廟議を開かれた。
明治元年3月12日となっていますが、改元は9月8日ですから、慶応4年3月12日ということもできます。この翌日に有名な西郷隆盛と勝海舟の江戸城明け渡しの交渉が行われています。いかに明治天皇の北海道(当時は蝦夷地)に対する関心が高かったかを示しています。
これは明治元年三月七日、侍従清水谷公考、高野保建の建議に基くもので、両卿は北海道に鎮撫使を派し、朝命を伝えて島民を安堵せしむるは、不軌(ふき=法を守らないもの)の輩が拠って徳川に声援するものあるに備へ、虚に乗じて魯夷(ろい=ロシア)の横行するやも図りがたき抑え、かつ漁利を納めて軍費の一助にするためにも目下の急務たる事を力説したのであるが、両卿をしてこれをなさしめたものは、幕末において北門鎮鍮の事を憂いて、本道に、樺太に活躍を続けつつあった山東一郎、岡本監輔等北門社の志士であった。
文中の岡本監輔は阿波国出身の岡本文平です。幕末の動乱の中で各地を遊学。蝦夷地に興味を抱き、江戸にいた松浦武四郎を訪ねて蝦夷地の事情を学び、北方からロシアの脅威が迫っていることを聞くと、この問題に身を投じることを決意しました。
そして文久3(1863)年、蝦夷地にわたって北蝦夷を一周の探検を行います。その経験をもとに、拠点を石狩に移すこと、大藩に分割して防御を固めること、ロシアに先んじて開拓を行うことなど、箱館奉行に蝦夷地開拓の提言を行いました。しかし、当時の箱館奉行は取り合おうとしません。
そこで岡本は函館で知り合った和歌山出身の山東一郎と二人で江戸に赴いて、幕府に北方開拓が急務であることを伝えようとしました。
しかし、当時、幕府は第二次長州征伐の最中で二人の旧知の要人は不在でした。そこで二人は京都に赴き、幕府の要人を訪ねて建議を行いましたが、取り上げられることはありませんでした。
二人はやむなく故郷に退きましたが、岡本は慶応3年になって再び京に上がり、公卿清水谷公考を尋ねました。一方、山東一郎は、ロシアの脅威に幕府が動かなければ自ら動くべく「北門社」を結成して、北方防衛に当たる仲間を集めていました。
ちょうど大政奉還が行われたばかりで、清水谷公は新政府の行方に思いを巡らせていたところであり、岡本の建議を聞き入れ、太政官に伝えることを約束しました。
岡本の建議書は、清水谷から高野保建を通して新政府中央に達しました。

岡本文平②
明治天皇の御聖慮
明治天皇はこれを御採択あらせられ、三月九日、太政官代に御親臨、親しく両卿に就き御諮詢の上、この廟議となったのである。
これに基いて蝦夷地開拓の大方針は樹立され、四月十七日、箱館裁判所の設置を見、同日総監を仰出され、仁和寺宮嘉彰親王殿下がこれを拝辞し給うや、閏四月五日、清水谷侍従が副総督より進んで総督を拝することなった。
この建議によってはじめて北方防衛の急務であることを知った明治政府首脳、大久保利通、由利公正、広沢真臣、井上石見らは、岡本と山東を数回にわたって呼び出し、蝦夷地の状況を詳しく説明させました。
かくして岡本の建議は明治天皇に届き、慶応4年3月9日、天皇は総裁、議定、参与の三職を呼び出し、「蝦夷地開拓の可否」について勅問がなされたのです。
公卿清水谷の手を通ったとしても、もともとは一介の浪人の建議書です。それを取り上げてすぐに新国家の最重要政策に取り上げたのは、明治天皇の慧眼と言うべきでしょう。
これによって良く露国の北方覬覦(きゆ=身分不相応な希望や計画)を抑ヘ得た事は、我が国の前途にとって極めて重要なる措置てあったといわなければならない。
これひとえに叡明なる明治天皇の御聖慮に基くものであって、国民の銘記して忘れることのできない事実である。
「開道七十年」は、明治天皇のいち早い決断によって日本が南下するロシアの脅威を抑えることができたと語っています。北海道開拓を通してロシアから日本の独立を守ったことは、明治天皇の功績の中でも筆頭に挙げられていました。今は全く言っていいほど語られませんが、ロシアの脅威が再び顕在化してきた現在、私たちは改めて思い起こしたいものです。

清水谷公考③
函館府の開設
かくして北地経営に対する政府の方針は決定され、清水谷総督は函館に赴き、明治新政の趣旨を諭し、王政維新の精紳を説き、職制を整ヘてその経営に着手した。
しかししてその諭告の鼈頭(べっとう)の一節に「一、皇太神の御教というは土地のあらん限りこれを開き、御支配被成民をいつしみ」と述べられた如く、我が国建国の精神およびこれに基づく皇謨(こうぼ=天皇の計画)の雄大と朝廷の御仁慈とが顕揚され、未開の蝦夷地ヘ皇化漸く洽(こう=うるおす)からんとする端を開いたのてあるが、新経営漸くその緒に就かんとする時、旧幕府脱走軍に襲はれるところ、不幸中絶の止むなきに至った。
こうして慶応4(1868)年4月12日、新政府の地方行政府としての「箱館裁判所」が設置され、議定兼軍防局監であった仁和寺宮嘉彰親王を総督に任命しました。そして清水谷公考と大野藩主能登守土井利恒が副総督に任ぜられます。
嘉彰親王は蝦夷地開拓に積極的で三月九日の廟議においてもっとも積極的な意見を出してしていた人物。大野藩主土井利恒は幕末期にすでに北蝦夷地で開拓事業に着手していました。当時の新政府では最高のメンバーでした。
しかし、こうした新体制も、榎本武揚の旧幕府軍に箱館上陸により、覆ってしまうのです。
【引用文献】
『開道七十年』1938・北海道庁・5~7p
①明治神宮>明治院宮とは https://www.meijijingu.or.jp/about/
②③新北海道史第3巻通説2