[札幌市中央区盤渓]屯田兵の炭焼きの里 盤渓開拓(前編)
いまでこそ大都会面してふんぞり返っている札幌ですが、時代をさかのぼると、北海道のどこにでも見られる普通の開拓史がありました。スキー場や乗馬クラブなど、札幌のアクティビティスポットとして人気の札幌市中央区盤渓は、炭焼きの里として開拓が始まっています。管理人は盤渓を抜けたところにある右股の産でありますから、子どもの頃からよく遊びに出かけたふるさとの歴史であります。『琴似町史』(1956)よりお届けします。
■盤渓の草分けは我満嘉吉
盤溪部落はもと盤之沢といい、軍省公有地であって、ここを琴似屯田と新琴似屯田とが屯田兵の準備用地としてそれぞれ借用していた土地であったが、明治27年に日清戦争が勃発し、屯田兵に動員令が下って出征することになったので、準備用地の立木をもって木炭を焼かすことになり、翌28年に炭焼人夫を募って製炭に着手した。これが盤溪開拓の原因となったものである。
明治28年7月この製炭の人夫頭として我満嘉吉氏が未開の森林の奥に笹小屋を建て、9月には全家をあげてここに引越したが、当時他の炭焼に従事する人々は右股の辺に居住して、ここから現場まで通って仕事を進める状態で、28年に炭窯12枚を築く予定であったが、冬になる前に8枚より完成しなかった。
翌29年には12枚の窯も完成し、中村善次郎という炭焼の人も現在の532ノ175番地に小屋をつくって入地し、翌年には福井県人の久保国三郎という人が、幌向原野から513ノ38番地に入地し、3戸の人家が建てられるに至った。
この年5月に山火事が起って附近の山林10町歩程が焼けたが、我満氏はこの焼跡に粟を蒔いてみたところ、非常によく出来て思わない収穫を得たが、これが盤溪部落の最初の耕作であった。
※拝み小屋を建てて密林に挑んだ我満嘉吉さんが盤渓の「草分け」の人となります。ここでは炭窯を「枚」と数えています。これは炭窯の広さを示す単位のようです。文中の「右股」はわがふるさとの西区平和です。地理的には「左股」である福井が近いので意外な感じがします。

盤渓ベルクヒュッテ(出典①)
■製炭の里としてはじまる
この年(明治30年)官林の一部と、新琴似の借用地の立木とが払下げになり、これを伐り出す造材が始まり、この造材は3冬間に亘って行われ、伐り出した材木は発寒川を流送し、当時札幌師範学校の建築用材などに用いられたという。
この新琴似兵村借用地造材には、我満氏が兵村事務所から依頼を受けて監督にあたることになった。琴似屯田の製炭は3カ年継続されたが、その後はそれぞれ焼子に権利を譲り渡したので、権利を得た人達は現地に入って盛んに製炭を行うようになった。
中村善次郎氏は明治31年に去り、その後を手稲村西野の田川善五郎が引き受け、532ノ175番地に入地して製炭をするなど、製炭をする権利に価値を生ずるようになった。
当時木炭材の木代金は、1窯について夏は1ヶ月70銭、冬は1円50銭で、それを兵村事務所に納めるのであった。夏と冬に木代金に差のあるのは、夏は製炭だけではなく開墾も相当にやるので、製炭は片手間になるので安く、冬は製炭一方であるので、製炭材の消費も多かったからである。
※「開拓入門」で求めた明治33年当時の貨幣価値換算では1円=2万4000円、1銭=240円としました。この盤渓は屯田兵村の準備地であり、製炭業者として入った人たち小作料の代わりに、このような借地料を払っていたようです。
■農耕と炭焼きが半ばする開拓前期
このように盤溪部落の開拓の最初は製炭造材が主体であり、その傍ら耕作する者があるという状態であったが、明治35年には、農耕地約2町歩に主として栗、稲黍、小麦などの主食作物をつくり、肥料なしでもいずれも反56俵ずつの収穫をあげていた。
当時の戸数は7戸人口14人であったが、それまで出稼人的存在として役場でも、当人達もあまり問題にしていなかったが、畑ができ人家が増加して次第に部落が形成されるにつれ、役場との関連も必要になって来たので、田川善五郎を組長とし、盤之沢、中ノ沢、小別沢の部長を小別沢在住の久守総兵衛がつとめることになり、行政的にも一部落を形づくるに至った。
その後、佐女木常吉氏、宇野氏などは最初から開墾を目的として入地するなど、農業開拓の進捗を示すものであるが、87番地に入地の佐女木春松氏は炭焼としてであり、あるいは阿棒鉄三郎は退去するなど、農業開拓と製炭業とを目的とする者が相半ばしていたという状態で、明治40年頃まではむしろ開拓前期ともいうべき状態であった。
※ここでようやく小別沢、中ノ沢が登場します。これらは琴似村時代は盤渓地区に含まれていたようです。道都札幌(この当時は琴似村ですが)にあって山間部の盤渓の開拓はそうとう遅れたようです。明治40年頃までが開拓前期としていますから、道東や道北と変わりません。
■久保田三郎、稲作をはじめる
製炭造材の地であった盤溪部落も、明治40年頃を塊にして次第に農地開拓を目的として入植する者が多くなり、また役場でも荒地開墾地に対しては小作権を与えたので、以前からの在住者も農耕地開墾に熱心になるようになった。
すなわち明治40年には146番地に服部勇蔵、167番に西川六三郎が入植し、翌41年には手稲村西野の伊藤惣五郎が、佐友木春松の退去したあとを買収して入地し、小麦、稲黎、金時豆などをつくったが、驚くほどの収穫をあげて人々を驚かせた。
このことが次第に盤溪部落を宜伝し、新琴似兵村の屯田兵であった田中武雄なども移住し、手稲地方から炭焼に通っていた今村源吾や川上新蔵も開墾に着手し、また沼ノ端に木挽を業としていた小野寺萬助なども転住して来るなどした。
次第に農業開拓の速度が加わり、農耕に従事する戸数12戸、畑地5町歩余に達した。久保田三郎の如きは水田3反歩を造り、これに早生水稲を作付けしたが、草丈5尺にも達し、反当1俵余を収穫して、水稲耕作の可能を一般に知らしめ、造田の端緒を開くに至った。
※ここでも西野とのつながりが示されています。現在はトンネルが開通しましたが、小林峠がつくられたのは昭和40年のことであり、それまでは登山道のような踏み分け道があるだけでした。
■大山火事、1カ月にわたり焼き尽くす
明治43年の春、中ノ沢付近に山火事が発生し、風が強かったために火勢はたちまち四方に燃えひろがり、火煙は一屈風を呼んで飛火は山から山へ飛び移り、そのため盤ノ沢、小別沢、一二軒の一帯はたちまちに火の海となった。
各地から応援に馳けつけた消火隊も手の下しょうがなく、住民は逃げ場もなく土に穴を掘って子供を穴に隠し、上から濡れ莚を被せて、自宅にふりかかる火の粉を防ぐ有り様であった。
川上新蔵の住宅と橋が焼け落ちただけで、他はその災厄から無事にのがれ、1ヶ月余にわたって燃え狂ったあとは、かえって開拓の手助けとなり、当時の開拓の状態からすれば、この山火事は開拓協力者でさえあったと当時の住民はこの大きな山火事に喜ぶ者さえあったという。
■北海道神宮の小作地となる

幌見峠(出典②)
明治45年に多年にわたって教育上の懸案であった琴似小学校の附属特別教授所が設置されるまでに部落は開かれ、かつ落付を得てすでに山村の形態から農村としての形を整え、水田の造田も次第に増加していった。
大正3年、盤ノ沢東北一帯の官林が全部札幌神社の所有地となった。神社では長谷川伝次郎という人を神社地管理人として入地させ、次いで馬留馬吉等がここに入地、立木を伐って薪炭に売って生計をたてながら開墾に従った。
当時開墾者と神社との間の契約は、3カ年間は小作料なし、4年目から反当50銭の小作料を納めるというのであった。部落部長の田中武雄はこの神社地付近に住居していたので、後に神社地の管理を依頼され、この地から滝ノ沢に通ずる間道は、最初に入地したこれらの人々の手によって草分け道をつけたのに始まり、この神社地の小作開墾によって盤の沢の戸口は一層増加するようになった。
なお田中氏は神社の依頼を受け、明治43年の山火事を免れた神社の松林から、松の種子1斗を採取して納め、これを神社で播種したところ非常に発芽がよく、ために道内営林署、道庁、支庁から樟太庁、遠く満洲、朝鮮まで松の種子の注文が殺到し、一時はこの松の種子の採取から入る収入が数千数百円に逹する状態で、部落の直要産業となった時代もあった。
※北海道神宮は明治39年に社名を改めるまで札幌神社でした。文中の「滝ノ沢」は現在の「円山西町」。「この地から滝ノ沢に通ずる間道」は今は夜景スポットとして人気の「幌見峠」にあたります。小林峠よりもずっとさきに幌見峠が開削されたのですね。小別沢、中ノ沢、円山西町は北海道神宮の農場だった歴史を持つようです。
■大正11年、戸数31人口176人
開拓以来20余年、製炭に造材に薪炭伐出、加えて山火等により大密林を誇った盤淡の山林も昔日の面影なく、森林による生計はすでに至難となり、一方神社地の小作開墾により農業専業者が次第に多くなって、大正3年末には戸数21戸、人口95人、畑地21町5反歩と平均耕地の増加が目立ってきている。
そして翌4年には、墓地所選定や特別教授の増築など部落の形成を物語る事業が、次から次へと実施されてなっていき、大正10年には住民増加にともない、盤之沢と小別沢とが一人の部長によることは負担が多くなり、部落を分けて各部長を選出することになった。
翌11年の戸数は31戸、人口176人に対し、畑耕地面積53町、水田4町2反あまりとなり、全く農村的耕地を持つようになった。
※ここまでは『琴似町史』からの引用による前編です。このサイトで北海道の町村で「草分け」の開拓者がまちの発展開祖としてまちづくりに貢献していった様子を紹介してきましたが、まさに盤渓でも同じ北海道の開拓物語が見られるのです。後編でご紹介します。
【引用出典】
『琴似町史』1956・札幌市役所・266ー270p
【写真出典】
札幌市観光協会『ようこそSAPPORO観光写真ライブラリー』
http://www.sapporo.travel/sightseeing.photolibrary/