北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

[北見] 昭和29年 古老炉辺談話
北光社移民団の生き証人が語る開拓の真実  (下)

 

昭和32(1957)年発刊の旧「北見市史」の『古老を囲んでの炉辺談話』から北光社移民団の生き証人たちの証言をお伝えするシリーズの最終回、炉辺談話で語られた開拓の苦労話のあれこれを編集してお届けします。苛酷な豪雪極寒の地を南国土佐の入植者が生き抜くのにアイヌの指導と手助けのあったことが伺えます。
 
アイヌ差別があってはならないことですが、開拓の歴史の否定という〝否定の論理〟で民族差別という〝否定の感情〟が解消しないことは明らかです。共存社会のためには〝肯定の歴史〟こを基盤に据えられなければなりません。そのことを北光社移民団の古老から学びます。

 

■米は食べるものではなく見せてもらうものだった

明治30年、原生林の続くクンネップ原野に入植した北光社移民団ですが、早々に持参金は底をつき、開墾地から作物が獲れるようになる数年後まで、山から食糧を調達する自給自足の生活に入りました。その食生活はとても苛酷なものでした。
 
当時の移住者は、鱒の焼き干しにフキ、ワラビ、野草を主食に、ウグイ、ヤマベのダシに塩味の汁だけだった。春はフキ飯にフキの漬物、フキ汁でまことに消化のよいものばかり。歯ごたえのある固いものはそんなになかった。歯ごたえのあったもの、それはトウキビをとろ火で煮たさいに、よく煮えないときの食事だった。
 
フキは季節外れでも、小川に切ると水がシャーシャーと流れた。アカダモのキノコは足の踏み場もないくらいあったので常食だった。アイヌネギはおいしいものだが、シャモ(和人)はあまり食べれなかった。[1]
 
もちろん白い米の飯などは夢のまた夢です。重病人に食べさせて良くなったと、貴重な薬代わりだったと証言しています。
 
米は見たことのない若者もおり、部落の金持ちが年に2、3回も食べればよい方で、食うものではなく見せてもらうものだった。大病のとき、薬のかわりに米の力ユと食べると、不思議と重病者でも快くなったので、それはそれは貴重なものだった。病人にはイナキビ、フキを混ぜて食べさせてみんな涙を流して喜んでくれた頃だったから。[1]
 

開拓期の常呂川 アイヌの伝統的サケ漁法「ウライ」が見える(①)

 

■アイヌに鹿肉をわけてもらう

そうしたなかで鹿や兎などの獣肉は貴重な蛋白源でした。入植当初の北光社移民団はこれを捕獲する方法も分からず、アイヌを訪ねて肉を分けて貰っていました。アイヌも喜んで分け与えました。文中に出てくるアイヌの酋長エレツコは、名高い北見アイヌのエレコークのことと思われますが、確証がいないのでそのままとしています。
 
酋長エレツコの住居は境野の山麓の小川のるばにあった。アイヌコタンは少牛を中心に居を構え、野をかけ巡っては狩りをし、鮭鱒の上る頃ともなれば今の上常呂小学校の近くの小川のあたりに陣を取って待っていた。ことに北光社の寺山為次郎宅のあたうが狩の中心地で泉がこんこんと湧いていた。
 
エレツコの家の近くのアイヌたちはヒエを作って臼に入れ、白にしては来客への唯一のもてなしとする余裕さえあった。
 
熊の頭にゴへイを飾った数多くのカムイを祭った祭場があった。かれらは鹿の皮でケリを作り、オヒョウの木の皮で織物を作つては衣料とし、またケリもはいていたが、これは水やけや霜やけ夜ならぬためだった。
 
いたるところにアマッポーを仕かけて狩猟をしていたので鹿の肉も豊富だった。オロムシの上の沢である日、3尺も4尺も雪が積って凍った時のことである。日高のアイヌ夫婦が鹿72頭をとって雪に埋めた。1頭分三円であったので酋長の家をシャモ(和人)がかわるがわる訪れた。
 
エレツコ貧長の家でヒエご飯をともにしたシャモ(和人)一家は、1頭分ずつ背負って来ては隨分たべた。大きいのは肉が堅いのでこまい(小さい)のを選んだ。こまいほどやわらくておいしかったからである。[2]
 
ひもじい思いをした入植者を温かく迎えたアイヌの優しさが語られています。これがニュージランドやオーストラリア、アメリカのアングロサクソンであれば、アイヌを問答無用で撃ち殺し、当然のように肉を奪ったでしょう。
 

■本当に「鮭漁や狩猟の禁止」されたのか?

ウポポイの「アイヌ民族博物館」の展示では
 

【鮭漁や狩猟の禁止】 開拓使は、河川でウライ(策)などでサケ・マス類をとることや、毒矢を使った仕掛弓でシカやクマをとることを禁じました。さらに自然保護などを理由にサケ・マス類やシカの捕獲そのものが禁止され、アイヌ民族の生活は大きな影響を受けます。その中で人々は、猟銃の使い方を身につけるなど、時代に立ち向かっていきました。

 
と解説しています。
 

国立アイヌ民族博物館展示解説

 
この『炉辺談話』は北光社移民団が入植した明治30年代初期の状況です。開拓使の禁令から十数年が経過していますが、エレツコは禁止された罠で自由にシカ猟を行っています。どういうことでしょうか? また毒矢やウライについても次の証言があります。
 
キッネもずいぶん走りわっていた。シャモ(和人)は竹を割って、スキレキを肉塊に入れるのにが、薬を節約すると血を吐いて逃げてしまう。相当最の薬の入ったとは3問か4間のところで死んでいる。エレツコはブシの毒草の汁を十勝石につけて皮にささる程度で獲物を射って狩をした。獲物は毒のききめでしびれて死んでしょう。
 
兎(うさぎ)も沢山いて、幾時間もたたぬうちに持てないほど獲れるので、獲物を背負う役はこりごりだった。春、4月の上旬、黒土が出て乾き出す頃に兎のいそうな小川の四方から乾草に火を放つと、黒い土の上に白い兎が驚いてぐるぐる走り出す。一方に出口をつけるとつぎつぎに寄ってくる。それをポンポンと面白いくらい獲った。
 
鱒や鮭も1本1銭からニ銭程度であった。次々に獲れても塩がないので腐ってしまう。エレツコはロープで魚のアゴからアゴへ通してつないで鮭や鱒を川に泳がせておいた。しまいに余り多くなってにどうしても陸にあげきれない。3区の方から来る人々に獲っては売り、獲っては売った。
 
川辺には黒い山がいつもいくつもできた。それを運び切れないうちに腐ってしまう。ほんとうに塩が無くて困ったものである。[4]
 
この証言では、エレツコは禁止された毒矢を使っていることが語られています。後段にエレコツコの鮭漁が語られていますが、これも禁止されたウライによるもののようです。さらにエレツコにも、これを見ていた北光社移民も、違法行為が行われているという認識はまったくないようです。
 
開拓使の「鮭漁や狩猟の禁止」とは、罰則を伴わない「お願い」や「要請」の類だったのではないでしょうか? 
 

■エレツコに遭難から救われた話

さて食糧に苦しむ入植者は焼酎をお土産にアイヌを訪ねて鹿肉を分けてもらいました。そうした入植者が帰り道に雪道で迷い、エレツコに救われた話です。
 
タッコブの山奥に入つたときはもう夕方だった。カンジキをはいて酋長のいう沢へ行ってみると、夕闇に頭が一面ごろごろ転がっている風景に気味が悪くてどうにもならない。帰るにも道もわからず、方角とて判らない。とうとうすくんでしまった。
 
酋長からは「沢に着いたら忘れないで火を燃やせ。猟が終ったらすぐ行くから……」とかたく言い聞かされてきたのであるが、恐ろしくて恐ろしくてどうにもならない。
 
エレツコは闇の中から恐ろしく怒って大声をたてた。
 
「火をたかないか!」
 
火のない雪原では和人は眠くなって凍死するからであった。[5]
 
低温下で睡魔に襲われ凍死に到ることはよく知られることですが、アイヌはそれを避ける技術を持っていました。そのことが次段で語られます。
 

■冬を克服するアイヌの驚嘆する技術

アイヌの人々は厳しい北見の冬を耐え抜く特別な技術がありました。南国四国から来た入植者は驚嘆の想いでその姿を語っています。
 
酋長は猟のある日は幾日も戻ってこない。木の上に頭を付けて一つだけ持って帰るのである。肉は雪に埋めておいて後で燻製にし、一年中の食料にするのである。
 
エレツコはナマ皮にくるくるとくる包まって凍らないように身を包み、雪の中に横になり、疲れ切ったのかかすぐ高いびきをたてて寝てしょう。雪の積もる日はどこにいるやら判らなくなるが、やがて雪がもくもくと動くと起きあがってくるのである。
 
冬鹿をとるときは鹿の角で作った笛と吹いて鹿を呼ぶ。そして村田銃で打つのである。[6]
 

■シバレに打ち克つ

当時の北見は厳冬期にはマイナス40度近く気温が下がりました。南国土佐から来た人びとには苛酷な自然だったでしょう。それでも人々は耐え忍び、克服していきました。『炉辺談話』ではそんなシバレにまつわるエピソードがいくつか語られています。
 
(明治)35年2月の時だったかなぁ、ランプが点らなかった。伊藤勝馬が仕事にでけた日には零下36度となった。火を焚くと湯気が水玉になって雨のようにポタポタ落ちる。
 
飯田さんのお母さんがイナキビのご飯をたいてくれたが、食へている間にランプの炎が消える。ガンビの皮を巻いて棒の先につけて燃やして灯とした。家の中といっても壁が不完全なのであちこちにふし穴だらけ。空気の流通だけが完全だった。
 
あるとき、伊藤弘祐の子供が死にかかったので夜道を医師を呼びに行った。途中まで行ったら大事なものが痛んだらしい。どうも変なんだ。立小便してみようとしたが、いくらしても出ないんだよ。変だ変たと思ったら、中からぬくいのがでて、溶けてやっと出たね。あぶなく大事なものがしばれるところだった。ふんどしがゆるんだのだね。
 
股引きといってもサラシの薄手のが1枚、ネルや毛などは見たくても無かった頃だったから、山へ行くにもナンキン袋を切り開いて巻いたくらいで、ケットやラシャものや軍手などもなかった。まったく不自由なものだった。
 
寒い日には水柳がしばれ、演習の時のようにパンパンと鉄砲を撃つような昔がしては裂けたもんだよ。今の人は毛もので体と包んでいるが、当時は下着1枚でいても、しばれた者はいなかつたね。毎朝雪の固作でゴリゴリ手をこすった。頭の芯までジーンとなったが、それとやらねば冬仕事はできない。
 
馬橇(そり)の仕事は、朝の3時からタの3時までの勝負だった。朝日の昇る頃は一番寒くて仕事などとても出来るものでなかった。今の若者に語ったら笑うばかりだがね。よく凍傷にかからんものだった。
 
凍傷になったのは大ていアルコールを飲み過ぎて雪にごろ寝した人だけだったが、(そうした人はそもそも)帰っても来なかったね。
 
荒仕事としばれで、汗が凍って真っ白くなった。犬の皮のチャンチャンコみたいなものを着て、寒さなどに負けんかった。[7]
 
極寒の北見の冬で、手袋などせず素手で外仕事をすて平気だった、凍傷にもかからなかった、とはにわかに信じられません。エレツコは雪の中で眠る特別な技術を持っていたようです。「犬の皮のチャンチャンコみたいなものを着て」とありますが、北光社移民団の人々はアイヌから冬を克服する技術も教わったのでしょう。今のアイヌ文化の伝承を見ても、目にしたことがないのでこの100年の間に失われてしまった技術です。
 

■〝否定の歴史〟から〝共生の歴史〟へ

ウポポイはアイヌも和人も「人々が互いに尊重し共生する社会のシンボル」ということですが、展示ではアイヌが和人から圧迫を受けた話ばかりが紹介されています。今日紹介したように、北海道の開拓地でアイヌは和人を助けたし、和人も北海道で生き抜くすべを教えてくれたアイヌを尊敬していました。そうした姿をまったく紹介せずに「人々が互いに尊重し共生する社会」とは何でしょうか?
 
人種差別、民族差別はあってはならないことですが、民族差別という否定の感情を解消するために、開拓の歴史の否定という〝否定の論理〟によって〝否定の感情〟が解消されないことは自明のことです。
 
〝共生の社会〟を築くためには〝共生の歴史〟、すなわち〝肯定の論理〟こそが土台に据えられなければなりません。【北海道開拓倶楽部】は、今のアイヌ政策の基盤にある〝否定の歴史〟を克服し、アイヌと和人の〝共生の歴史〟を発信していきます。
 

 


 

【引用参照出典】
 
[1]『北見市史』1957・367-369p
[2]同上369p
[3]同上363-364p
[4]同上365-366p
[5]同上364-365p
[6]同上365p
[7]同上366-368p
①『小史 常呂 常呂町開基百年記念』1984・常呂町・38p

 
 

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