[美幌]開拓回顧談
光りかがやく生活を願い
天の岩戸を開けた太力男命を祀りました
美幌町初代戸長野崎政長を調べるなかで昭和28(1953)年の『美幌町史』を読んでいたところ、開拓第1世代の回顧談を目にしましたのでご紹介します。これは昭和28(1953)年6月3日、町役場で開かれた古老座談会で話されたこと、その後の往復書簡によって語られたことを編纂委員会がまとめたものです。50年前に美幌に入地した開拓者の実話で、素朴な話の中に当事者でなければ語れない逸話があります。
茅葺き小屋に7世帯25人が暮らしました
明治31(1898)年入地 鳥里 田子作次郎氏 談
私達が入地したのは、明治31(1898)年の11月のことで、その時本町には野崎戸長さん一家と、青山さん夫妻の外、和人はいませんでした。先ず3間に10間の大きな茅葺きの小屋を作り、眞中に廊下をし切って7世帯25人が暮らしました。
畑にするには、大木の生えているところが土地が良いと思い、樹林地を選んだところが、直径7尺もある赤だもの大木があって、これを倒すのには苦労しました。
33年に隣の子供が死んだので、埋葬地をお上に願ったら、農地は無償でやれるが、墓地は有料だとのことで、当時の入植者13名共同で払い下げをうけたのが今の市街地墓地です。
入地の翌年、標を立ててお祭りしました
明治31(1898)年入地 女満別在 藤沢綱太郎氏 談
入地の翌年即ち明治32(1899)年の秋9月1日、元戸長役場の側に標を立て、山網走神社と称え、お祭りをしました。コタンでは角力や余興が行われ、越えて34年秋には、美幌小学校前の大きい柏の木を目標に7尺位の角杭を建てノボリをつくりお祭りをしました。拓殖祭と横書の大きな額を掛け、余興には角力などもやったものでした。
明治37(1904)年に美幌神社ができたとき、守神には宮沢さん(初代神主)の思いつきで、開拓を意味して、これから光りかがやく生活があるようにと思い、天の岩戸を押し開ける太力男命をお祀りすることにしました。
また明治32(1899)年には国本社農場で稲を試作しましたが、小柄で1穂に56粒ほどしかみのりませんでした。当時私は奉公していた体なので地主の指図によって耕作しました。
美幌神社(出典①)
それは蚊とノミを防ぐアイヌの知恵でした
明治32(1899)年入地 南1 磯江トモ氏 談
入地した当時のこと、草むらの中にアイヌ逹はごろ寝していたので、死人かとびっくりしたこともありますが、これは蚊がおり、カヤのない時のこともあるし、またノミも多かったので、これを防ぐためにわざと寝ていたものでした。
商品を仕入れに網走に出る時は、現在トンネルの所(呼人〜網走)に道路はなく山を越したので、馬をずいぶん痛めました。
さすがに精魂つかい果した思いでした
明治38(1905)年入地 美禽 本岡測松氏 談
私は屯田兵として湧別に入ったものですが、その頃誰でも個人で土地がもらえることが解ったので、除隊後、美幌に土地を見に来ましたところ、美禽の山の上から美幌原野を眺めると実に雄大なもので、ここは第2の札幌になる所と思い入地しました。
初めの場所は稲美でした。2間に2間半の草ぶきの小屋を建て、先ず立木の伐採が仕事で、5町歩の密林を切るのに文字通り昼夜兼行、家内を励まし、励まされて44日間で皆伐した時には、さすがに精魂つかい果した思いでした。
当時の食糧は、1泊で網走へ買いに行ったもので、冬は大吹雪に会い、輸送が困難になると、荷物を全部道路に捨てて帰り、吹雪が止んでから運ぶと云った具合で、よく酎酒の斗がめ等を道端で見かけましたが、盗難などは全くありませんでした。
網走の郡長は若い者に似あわず熱心でした
明治40(1907)年入地 稲住 橋本長朝氏 談
初め名寄に小作として入ったが、願書1本で土地がただ貰えることが解り、さっそく網走町の代書殿に手紙で依頼したら、かくかくのところに土地があるから来てみよとのことで、明治40(1907)年1月に美幌の現地に乗りこみました。
網走の郡長は、若い者に似あわず珍らしく熱心だとのことで、早速約45町歩(9戸分)の払下げ手続きをとってくれたのが今の土地で、その年の10月に単身入地しました。
私の畑の附近には、アイヌの住居した跡があり、開墾当時には、土器や貝殻がずい分あったものです。今でもその跡があります。
特別教授場が出来たときは涙が出るほどうれしかったです
明治44(1911)年入地 日並 隼一氏 談
出願中の藻琴山麓300町歩の牧場に入地のため、明治44(1911)年4月に父と1緒に来たが、道らしいものは全然なく、たまたま熊を追って入りこんだアイヌに教えられて、牧場の境界を知り、これを1廻りするのに丸1日もかかかりました。
市街に出るには、昼なお暗い林の中を、立木を削り、または手拭いを引きさいて道標とし、熊や狐が横行するので、最初は2人連れで竹ラッパを吹き吹き行きました。途中で道を見失い、野宿したことも再三ありました。
甥が9つの時、杵端辺の学校に通いましたが、途中熊に出会い、泣いて引き戻ったことなどもあり、親が送り迎えを氏、また自分方で寺小屋式の勉強もさしたが、これでは開拓が遅れるというわけで、まず立木を売って道路をつけ、小作人を募集して開拓に励み、大正6(1917)年に特別教授場が出来たときは、ほんとうに涙が出るほどうれしかったものです。
【出典】
・『美幌町史』1953・美幌町・298−301p
①『最新美幌風景栄葉書』出版年不明・正文堂書展>北海道立図書館・北方資料デジタルライブラリー http://www3.library.pref.hokkaido.jp/digitallibrary/